馬車の中
ずっと何かから逃げ続けている。物心ついた頃には、じじ様と呼んでいた老人に手を引かれて街から街へ、季節ごとに渡り歩くような生活をしていた。
チチェクで盗賊に襲われ、じじ様は殺された。盗賊の奴隷になった後も、衛兵に嗅ぎつけられるたび隠れ家を変える奴らに引っ張り回された。
「耐えろ。何があっても他人に力を見せてはならない」──じじ様の遺した言葉どおり、私はただの子供として、生きるために盗賊に従った。
耐えろ。耐えろ。
〝……の時まで〟──。
目が覚めた。でも、もう少し寝ていたい。夜明けが近づけば、いやでも下っ端に叩き起こされる。逆にいえば、それまでは横になっていていい。奴隷に許されたわずかな休息だ。
寝返りを打つ。体が痛い。こんなに硬い寝床は久しぶりだと思って、そこで初めて私はまぶたを開いた。
視界はひたすら黒く、何も見えない。両手首が束ねられている。重さからして鎖だろう。骨や皮膚に感触はない。布を当てた上から巻きつけているらしい。
口の中から鼻の奥にかけて青い味が残っている。眠らせるための薬草か。飲まされた時の状況を思い出して吐き気がこみ上げてくる。
目が慣れてきて、足の先体ひとつ分くらいから漏れる光が暗闇を薄めているのがわかった。あれは焚き火の灯りだ。覆われた空間の中にいる、これは幌。馬車の荷台に乗せられている。
薄明かりが作る微かな陰影が、すぐ目の前に転がる荷に気づかせる。掛けられた布がなだらかに登りきった先はゆっくり上下して、それが物でないことを示していた。さらに稜線をたどれば寝顔に行き当たる。あの男だ。
男は私と向き合う形で寝ていた。体を丸めて親指を口元に持っていく格好で、静かに呼吸している。連れの兵士ふうの二人は外で焚き火を囲んでいるのだろう。話し声は聞こえないから、一人は寝ているのかもしれない。
あの時、日暮れが迫っていた。馬車で移動を始めてもそう長い距離は進めない。どこへ向かっているのか。空が見えないから夜の深さが測れない。私はどれくらい眠っていた?
「起きたのか」
かすれた声に目をやると、男の瞳がこちらに向いていた。「もう少し寝るといい。日が昇るまで、まだ時間がある」
知りたいことは山ほどあったが、開きかけた口を男の手が塞ぐ。草の匂い。薬を作ると言っていた。きっと、毒も。
「苦情は朝になってから聞く。今は、何も考えるな」
男はゆっくりと体を起こした。脇腹を押さえて小さく呻く。クロードの短剣が裂いた肉の感触が手のひらに蘇った。死にそうなクロードの姿が男に重なる。
待て、と無意識に出た言葉に、男は振り返った。呼び止めておきながら続きが出てこない。説明が難しい。
あの時は、本来なら、剣など使わずに炎で圧倒すべきだったし、できたはずだった。しなかったのは、野蛮に見せかけて突然泣いたり、見逃したくせに急に追ってきたりする男を、予想外の動きで撹乱してやりたかったからだ。今は、状況や先のことを考える慎重さより好奇心が勝った。試すには好機だ。
括られた両手を引き寄せて、左手の人差し指に歯を立てる。皮膚が破けて血がにじむ。甘い匂いは、意識して嗅げば感じられる程度にある。思えば、流浪の生活の中で、出血などいくらでもあった。気づかなかっただけで、私はずっと、人と違う何かだった。
「舐めてみろ」
腕を男のほうに伸ばす。明るさはやっと男の輪郭がつかめるくらいだ。男には私が差し出すものが何かは見えていないだろう。
鎖が巻かれた手首は重い。持ち上げているのに疲れて、私は腕を下ろした。横になったままでは意図を伝えられない。床面に両手を突っ張って力を入れる。起き上がろうとしているのはわかったのか、男が私の背に手を添えて手伝った。
改めて、指を男の顔に近づける。手首の鎖を包むようにして、男は私の手を取った。傷つけた人差し指を立てると、指先に鼻を寄せてくる。
微かな錆臭が、消える先をほんの少し〝甘さ〟に振る。何度も口に含んで知っているから私には自分の血の匂いをそう説明できるが、今にも乾きそうな少量で、初めて触れるこの男には、どうか。
暗がりの中で瞳が動く。男は私の指先と顔を交互に見比べているようだった。舐めろという唐突な言葉の真意を探っているようでもあった。
急に視界が明るくなり、私はまぶしさに目を瞑った。顔に近づく熱は、──火。
男は、自分の指先に灯した火で私の指に注目していた。
「魔法、使えるのか?」
驚く私を無視して、男は照らす位置を変えながら観察を続けている。鎖越しに男の握力が強まったのを感じる。
「血が出ているな。今、自分でやったのか。舐めろというのは、これのことか」
男の息に炎が揺れる。何のために? と聞きたげな目が私を映し、言葉にしない口が試す意思を表した。私は頷く。
男は唇で傷に吸いついた。出血はとっくに止まっているだろう。〝味〟をこそぐように舌が動き、こそばゆさに思わず引っ込めそうになる手を、強い力で固定される。
男が私の手首を離すまで、一瞬のはずがとても長く思えた。再び脇腹を押さえる男。無言で見つめてくる目。私は確信した。
「治ったか?」
問いかけると、男の表情は険しくなった。聞き取れないほどの小声で何か呟いて、そのあと、眉間に皺を寄せる。怒りを堪えているようにも、泣きそうにも見えた。
「これを」
男は咳払いをして、さらに声を低めた。「ほかにこれを知っている者は」
私は首を振って否定した。クロードが生き返った確証はないし、本当のことをすべて教える義理もない。
「いいか」
男の顔が迫ってくる。囁くように、だが強く、男は言った。
「二度とするな。誰にも言うな。だめなんだ、そんな──」
「賢者様」
荷台後部の幌が遠慮がちにめくられ、外からの明るさが差し込む。「お目覚めですか?」
声は、兵士の一人か。
「ああ、交代しよう」
振り返って背後に返事をすると、男は私の肩を軽く叩いた。
「朝になれば鎖は解く。他の者はここに入れないから安心して寝ろ」
出口に体を向けて火を吹き消す。私はまた暗闇に包まれた。
「お前は……何者なんだ」
賢者と呼ばれた男の背に、質問を投げる。
「俺は、ただの男だ」
ひとり残される私の耳に、抑揚のない男の声が響いた。
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