《十年前》レアに何があったのか
謎の男
目だ。あの男の目がいけない。あのまなざしが、それを受け止めた「私」の瞳を通して胸の奥底に突き刺さる。貫かれたまま持ち上げられ、足が宙を掻くような感覚。落ち着かないのに不快ではないということも、その気持ちを振り払えない自分も気に入らない。
飼い葉桶や農具を蹴散らしながら路地を走る。舗装のない道は昨日の雨でぬかるみ、何度も足を取られた。泥水を吸ったローブの裾が張り付いて、思うように歩幅を稼げない。
このままでは追いつかれる。無関係の住人には申し訳ないが、積まれた樽や材木があれば通った後に倒していく。物音で人目を引ければ男も手を出しにくくなるはずだ。小さな農村の、寄り添い合うように建った民家の隙間。ここで火は使えない。家並を抜ければ、その先は農地だ。追ってくる男には、そこで燃えてもらう。
あの日。あの人の蘇生に動転した私は、闇雲にその場から逃げ出して、襲撃の現場まで戻ってしまっていた。三日前のことだ。生きてほしいと願ったくせに、叶えた瞬間に恐ろしくなった。禁忌に触れた実感に震え、人間とは違う自分を痛感した。
戻らなければ、と思う。でも、すべてが夢で、あの人の亡骸を確認することになるかもしれない。すべてが現実で、死人を蘇らせた力を認めることになるかもしれない。どちらも怖かった。
体はすでに川を渡っていた。また濡れる、でも、首元から裾までを染める血を流さなければならなかったし、どのみち、あの人の側にはいられない。私が近くにいると、迷惑をかける。……クロード。
現実逃避なのはわかっていた。ただ逃げたかっただけだ。振り切りたい事実は、自分の体にぴったりと重なってついてくるというのに。
この身を焼いてしまうのが早かっただろう。一方で、自分が何者なのか、知りたい気持ちが私を突き動かした。
最初に男に会ったのは、生乾きのローブのにおいにも慣れた頃だった。私は枝葉の焼け落ちた幹の間を、元々進んでいた街道まで戻ろうとしていた。まだ所々で煙が立ち上って、着替えや食料を積んでいた荷馬車の無事は絶望的だったが、街道に沿って歩けば次の街まで行ける。ひもじくても水さえあれば何日かもつということは、火竜姫になる前の経験で知っていた。
焦げた森は見通しがいい。木立の間に人影を認めたのは、街道が見えてきたところで腰を下ろして一休みしていた時だった。
動作する物音が聞こえるような距離ではない。にもかかわらず、男の姿はくっきりと捉えられた。それだけ体格がいいのだろう。上半身は裸で、筋肉が盛り上がった腕が繰り返し地面を掘る仕草をしていた。騎士の家系のクロードも平均的な男より大柄ではあったが、男は、さらに一回りは大きそうだ。
私に気づくふうもなく、男は作業を続けている。何かを埋めているようだ。何だろう……男が土をかけているものは。
犬だ、とわかったのは、私が動いたからだ。ここにいても身を隠せるものはない。なら、戦闘の可能性を考えて、高台の街道に対して垂直に進む。昨夜転げるように滑り降りた斜面を登って、奴を上から覗く格好になった。さっきより近づいてはいるが、十分な距離がある。風向きもいい。相手が飛び道具を使っても対処はできる。
移動の気配が伝わったのだろうか、男は手を止めてこちらを見た。だが、すぐにまた作業に戻った。男の足元にはまだいくつかの生き物……〝だった〟断片が転がっている。昨夜の炎の犠牲者、か。初めてではないのに、胸座を掴まれた心地になった。
今思えば、大火事の現場にいる人間がただの通りすがりのはずがない。魔法で自然が荒れると魔物が出やすいから旅人は避ける。今ここにいるのは「関係者」だ。そんなことにも思い至らないほど、私はまだ混乱の只中にあった。
「怪我をしているだろう」
突然声がした。顔を向ける素ぶりも見せないが、男だ。「血の匂いがする」
まさか、と思いながらも、私は身構えた。手の傷の血は止まっているが、川ですすいだとはいえ衣服には染みが残っている。風が運んだか。
無視すればよかったのにそうしなかったのは、私が自分の匂いを振り返った一瞬で、男に間合いを詰められていたからだ。物音に目を向ければ、男はすぐそこにいた。一歩で私の喉元に手が届きそう……嫌な距離だ。
近くで見るとかなりの大男だ。露出した上半身の筋肉が陰影を伴って、岩みたいだった。若者という感じではないが、オジさんまでいっていない。腰には毛皮を巻きつけ膝までは隠れているが、裸足。
「蛮族の戦士か」
平静を装って私は尋ねた。指先に魔力を溜める。撃てて一発、足止めする程度だ。
「蛮族を自称するやつはいない」
男は手をはたいて泥を落とした。灰混じりの埃が舞う。「戦士ではない。戦うのは苦手だ」
「では、何者だ?」
「死者を埋葬していた。そのままだと、魔物の餌食になるからな」
男は私の問いを無視して、その場に腰を下ろすと煙管を吹かし出した。摺付木を使っていたから、魔法使いではなさそうだ。
男が吐き出した煙が、川に向かって吹く風に散る。眼下に広がる無残な光景は、私が戦った痕だ。クロードさえ無事なら、大人しくさらわれてやっても良かった。でも、こうなった以上は確かめたい、自分が生きる意味を。
「怪我してるなら、これを使え」
男は腰巻の中から何かを取って寄越した。二つに割ったものを紐で閉じた木の実。「傷薬だ」
「……医者か?」
「医者は、どちらかというと客だ。俺は薬を作って売っている」
「持ち合わせはない」
本当は、旅の常として肌着にいくらか縫い付けてあるのだが。
「金か? 金は要らない。必要ないならこの先の村で売れ。半月くらいは食える」
種火を払って煙管をしまうと、男は私のほうに向き直った。
「……俺は反対したんだ」
ぼそり、呟く男の目が私を捉えていた。「正攻法じゃ束になったって敵いやしないと。なあ、火竜姫」
男との間に沈黙が流れる。風の音が、吹く先を変えたと知らせる。指先にちりちりと痺れに似た充填を感じながら、私は必死で自分を抑えた。
「人違いだ」
どれだけ見え透いていても、認めるわけにはいかない。〝火竜姫〟の一言で、男が襲撃に無関係でないことは、混沌とした私の頭にも稲妻のように閃いた。
否定すれば振る舞い方も決まる。魔法を使わずに、かつ男に後を追わせず、ここから去る方法を考えなければ。
一方で、隙があれば炎を放って逃げようと考えていた。一瞬で距離を詰めてくる男だ。体格差からしても肉弾戦の間合いでは勝ち目がない。それでも、怯ませて逃げる、その一点に集中すれば活路は開ける。隙を突くんだ。
張り詰めた空気を変えたのは、男だった。地べたにあぐらをかいて私を見上げる目から涙がこぼれた。拭おうともせず、隠そうともしないで、濡れた瞳を私に向けている。
見てはいけないものを見てしまった気がして、私は胸を押さえた。私が殺したのは仲間だったのだろう。私の仲間も死んだ。クロードも、一度は。私の存在が、大勢の人生を狂わせる。
「だが、俺はお前を責めない」
男は立ち上がった。「お前に興味はないし、追う義理もない」
「……人違いだ」
私は男から目をそらした。
男はあの後、残っていた亡骸をすべて埋めたのだろうか。埋めながら、私の所業がやはり許せなくなったのか。街道沿いに歩いて半日ほどの村で足止めを食っていると、兵士ふうの二人を伴ってやってきた。私を探していた。
軒下に立て掛けられた荷車を引き倒す。物音に驚いた住人が出てくる気配を背に、私は走った。目の前には牧草地と畑に挟まれたあぜ道が伸びる。日暮れが迫り、農夫たちは家畜を連れて引き上げた後だ。昨日晴れていれば、今日こんな時間でなければ、今頃は次の街に着いていたのに。
あんな図体で、戦うのが苦手なわけがない。初めて出会った時の身のこなしからすれば、すぐに追いつけるはずだ。農地に出ることを見越して伏兵でも潜ませているのか。はっとして見渡すが、柵で囲まれた草地と膝丈の穀類の畝が広がるばかり。相手は男ひとりと見て良さそうだ。兵士ふうの二人には街道への出口でも見張らせているのだろう。少し安心する。数が多いと小火では済まないだろうから。
裏路地の出口に視線を戻すと、男が私の倒した荷車を戻しながら出てきた。物音に集まってくる野次馬を追い払っている。捕縛するための縄や網、足を狙う飛び道具を用立ててきた様子はないが、姿が見えたらもう背は向けられない。私は男から目を離さずに後退った。
男はあぜ道を歩いてこちらに向かってくる。一歩進むたび、私が一歩下がるのに気づくと足を止めた。
「すまない。事情が変わった」
男は手を広げる。表情は暗い。死者を埋葬していた時と違って、ゆったりとした無地の布服をまとっている今は、野蛮な印象は消えて知的ですらある。でも、油断はもうしない。私は一握り火球を出した。
「人違いだ!」
叫び、火球を飛ばす。ひとつ、ふたつ……火球は次々と男の手刀で打ち消される。炎の弾幕に乗じて私は少しずつ近づいていく。あと三歩、二歩。あと一歩の距離で放った一球を男の眼前で炎壁に展開すると、その中へ飛び込んだ──脇に、クロードの短剣を構えて。
突き出した切っ先が炎を裂いて、男の腹部が見えた。ほとんど抵抗なく、だぶついた布が口を開ける。手応えはあった。だが刃は男の脇腹を滑って、私は前のめりになる。前足を突っ張って倒れかけた体を戻す。剣を引かなければ、と思ったが、遅かった。
男は私の両手首を片手で捕まえていた。捻られて剣を落とす。もう片方の手で首を押さえられた、次の瞬間には男の顔が目の前にあった。
鼻がぶつかる。口が塞がる。大量に流れ込んでくる汁。鼻に抜ける青い匂い。息苦しさにもがくうちに、私の意識は遠のいた。
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