もう一人の火竜姫

 手のひらに浮かぶ火球が手摺に縁取られた夜を照らす。城壁からせり出したバルコニー。空には薄雲が、月のありかをほんのりと示している。

 女は火球を両手で包み、胸元に引き寄せた。自らの魔力で燃える火は暖かい。目立ち始めた腹部の膨らみが光と熱を受け止める。中にいる命は、明るさを感じるのだろうか。

 頭の中で鳥を描く。指先に集中する。しかし、炎は一瞬横に伸びただけで、すぐに元の火球に戻った。ため息とともに小さくした炎を手燭に移す。

 まだ見習いとして魔法修行をしていた頃、一度だけ火竜姫の技を見る機会があった。セルジャン郊外の演習場。集められた魔法使いたちに見守られる中、少女が腕を広げると、火柱が吹き上げた。平たくして壁を作るとくるりと筒状に丸め、裏返す動きから翼を広げた鳥が現れる。火の鳥が天に昇って消えると、大魔導プルデンスは言った。魔法は制御である、と。遅れて、まばらな拍手が少女に送られた。

 当時、歳の割に大きな炎を作れた女は、貴族の娘だったこともあって、期待の逸材としてもてはやされていた。末は大魔導の片腕に、いや、後継に。有望な前途を周囲も自分も疑わなかった。火竜姫の技を目の当たりにするまでは。

 まだ友人たちには難しい、民家を焼き尽くす規模の炎を放つことができた。ただ、まだ燃える勢いを調節したり、造形を操ったりはできなかった。柱や壁を作るくらいなら問題ない。一人前の魔法使いの基本、いずれは自分にもできるようになるだろう。だが、あんなのは初めてだった。炎に、生命を与えるような。大人たちの絶句が、特別な称号を与えられる者の格を裏付けていた。

 ──チチェクの盗賊だったそうだ

 ──下半身は鱗で覆われているとか

 ──尻尾まであるらしい

 見苦しいやっかみだと冷ややかに眺めていた噂話を、いつしか自分の口からも語るようになった。

 それが、今は。

「レア、こんなところにいたのか」

 背後からの声に振り返ると、夫のリオネルがバルコニーに出てきたところだった。「どうしてこんな所に……」

「少し、お話をしていたのよ」

 手燭で腹部を照らすと、リオネルは自分の上着を脱いで女の肩に掛けた。

「そういうのは昼間のほうがいいんじゃないのかな? まだ夜は冷える。早く中へ」

「あら、起きているのは昼間とは限らないわ。夜のほうがよく動く日もあるのよ」

「魔法を見せていたのかい? 火竜姫」

 肩を抱きながら問いかける夫に、女は目を伏せてうなずいた。そんな穏やかなひとときであったら、ずっと良かったのに。

 お腹の子供に流れる血は特別ではない。十年、国ぐるみで塗り固めた嘘は、いずれ崩壊する。愛する人の失望が今から恐ろしい。せめて〝私〟として火竜姫を名乗れていたら。

「レア」

 リオネルに促されてバルコニーを後にする。去り際に雲の切れ間から顔を出した月は、昨日より少し膨らんでいた。

 イヴェット。私の名前は、イヴェットというの──。


 クロードは寝室の揺り椅子にいた。木製の肘掛は三代に渡る主人あるじに撫でられ、滑らかな丸みとツヤを帯びて、骨董としての存在感を主張している。揺らせば軋むが、定期的に職人の手入れを受けて、騎士の頑強な体格を危なげなく支えている。

 議会は叔母プルデンスの発言ののち、大いに荒れた。新たに火竜姫を立てるなど浅知恵にもほどがあると左右の将軍は吠えたが、結局のところ軍備の采配を握っているのは宰相だ。火竜姫選抜に王は興味を示しているとだけ言い残し、夏前の議会は幕を閉じた。

 王の勅令なら、誰も文句は言わない。一方、上申となると利権が絡む。早くもプルデンスの尻馬に乗りたい輩が擁立派を形成し、頼みもしない候補を挙げているという。その大概が魔法も使えぬ身内の令嬢だから目も当てられない。当のプルデンスは、煽るだけ煽って素知らぬふりを決め込んでいる。

 大体、祭り上げる対象が決まったら、確実に騎士団から頭数を割いて護衛をつける必要が出てくる。今から派閥ができているようでは、国内ですら拉致・暗殺の危険性が高い。他国からも狙われるかもしれない。それでも仕事は仕事と割り切ることができる、が。

 十年前と違って、今回はレアの身代わりではない。議会で公に提案された 〝名ばかりの〟任命だ。確かに外交上はそれで一応の役を果たす。だが、本物を知るクロードには、他国を怯ませる大役が、その辺のお嬢さんに務まるとは到底思えなかった。

 あの時、プルデンスが指名したイヴェットは違った。貴族だったのはたまたまだが、レアに遠く及ばないとはいえ魔法の素質は非凡であった。将来を期待された少女は空の棺で埋葬され、名を剥がれた体は十年、レアのふりをして生きている。養家としてできる限りの支援をしてはいるが、彼女が炎を向けるなら、クロードは進んで飛び込むだろう。自分が捻じ曲げてしまった人生、祈る資格がないとしても、子供が生まれて、新しい幸せを手にしてくれるなら。

 思索を巡らせてどれくらい経ったか、ロゼが部屋を訪ねてきて、灯りの支度を始めた。気がつくと西向きの窓に日が回っている。

 明日は夏至祭だ。半島では一年のうちで最も大事にされる祝祭で、プルデンスの屋敷に泊まり込んでいた娘も妻も帰ってくる。

 手紙では、シーファは飲み込みが早く有望だとあったが、実際のところどうか。門外漢のクロードには、放たれた炎は斬ることでしか消せない。幼くても、シーファ自身が操れるようにならなくては。


 王城を北端に、南へと走る目抜き通り。舗装された路面には長い影が這い、忙しなく行き交う人や馬の足音を響かせる。両脇に立ち並ぶ店はどこも「王家御用達」の看板を掲げ、出ては入る貴族の使用人達が日暮れ前の慌ただしさを物語る。

 王都セルジャンといえど、貴族だけの街ではない。道の一本裏には御用達の御用達が、そのまた裏には商人や職人たちの生活の場がある。路地裏で遊ぶ子供が夕食に呼ばれて姿を消す頃、酒場には灯火が入り、客を探す女が辻に立つ。

 初夏の風が運んでくる匂いや音は、丘の上から望む景色に古い記憶を重ねさせる。

 こういう時に何も声をかけないのが隣の男のいいところだと、女は思った。この場所に寄りたいという申し出にも、理由を聞いてはこなかった。男の態度が、自分の「今」と「これから」だけを照らしてくれる。

 フードの襟首をかき合わせて、吹き込む風を拒絶する。眺望に背を向けて歩き出す方向は、闇。

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