第六章

第28話

 一度引いてしまったものに踏み込むのは難しい。一筋縄ではいかないことだと理解しているがゆえに、整理がつくことはなかった。悶々と増えていく靄をどう蹴散らせばいいのか。どれだけ熟考したところで、答えは見つからなかった。

 近藤も、今度ばかりは俺の様子を尋ねてきたりはしない。消耗している原因など、端から分かりきっているからだろう。放っておいてくれるのはありがたかった。

 それ以外の周囲の視線には、取り合う気もない。そんな余裕もなかったというのが本音だが、おかげで精神衛生はいくらか守られただろう。他の部分で疲弊しているので、プラマイゼロではあったが。

 あれから、三日。たった三日。されど三日。お見舞いには行けていない。また、と伝えたときは、強がりだなんて思ってはいなかった。けれど、日が経つにつれ、虚勢を張っただけに過ぎないと身をもって思い知らされる。

 くるみに会いたい。

 存在を確認できないことへの不安もあった。くるみのすべてが五感に刻み込まれている。記憶の隅々にまでも、くるみが挟まっていた。そこには不穏の陰も含まれる。硬質な物音が耳朶へ蘇って、心が竦むこともあった。

 くるみの姿を確認しなければ。

 焦燥感だけはいっぱしで、そのくせ行動力は伴わない。大息を吐いていたところで、身体が軽くなりもしなかった。嫌なループが続いている。断ち切るには動くしかない。答えも分かっているのだ。

 俺は四日目にして、ようよう覚悟を決めた。病院への道のりの最中に、何度引き返そうと思ったことか。自分の弱腰っぷりには泣きたくなったくらいだ。

 ただ、道中にアホほど躊躇したおかげで、辿り着いたころにはもう諦めがついていた。くるみとのことには簡単に折り合いはつかない。こればっかりは間違いないのだが、緊張感を抱え続けているというにも限界はある。濃度の上下はあって当然だ。

 諦観と開き直りのダブルコンボで、ノックするのに躊躇はなかった。


「はい」


 と答える声はいつも通り。前回の焼き増しのような状態に、苦笑いひとつで扉を開いた。

 くるみはやってきたのが俺だと分かっていたのか。こちらを一瞥してから、薄く頬を緩めた。反応の鈍さに突っ込めるほど、こちらも万全ではない。

 何より、くるみの片目が眼帯になっていたことに、言葉が続かなかった。

 たった三日。けれど、それはかけがえのない三日だ。自分がどれほどの片落ちをやらかしたのか。考えれば考えるほど、消沈する。

 小さく息を整えて椅子へ腰を下ろしたと同時に、気持ちもただした。平然を装うという一手は、一体いつまで有効だろうか。不安は山積しているけれど、早々に他の手が生えてくるわけもなかった。


「調子はどう?」

「この通りだよ」

「俺のことは見えてる?」

「いつもより冴えない顔してる」

「あんまりじゃないか」


 間合いを探り合うような気配から、ひとつ踏み込まれる。

 苦味を噛み潰した俺に、くるみはきゅっと眉を詰めた。眼帯のせいで、表情が分かりづらい。もしかすると、表情筋も硬直していっているのかもしれない。


「和君の調子のほうが悪そうだよ」

「……そうだね。あまり上手く眠れていないかもしれない」


 見栄を張ったところで、嘘だなんてことはバレバレなはずだ。くるみはそこまで楽観的ではない。自分が俺の思考に影響を及ぼすことくらい想像できるだろう。

 この三日。俺だって散々考えたのだ。くるみだって、それは同じだろう。張本人であるのだから、体感には天地の差があるはずだ。俺が思案していることなんて、薄っぺらい。


「和君は、優しいもんね」

「自分本位に考えているだけだよ」

「いつもそう言うけど、私にとってみればそんなことはないよ」

「それはくるみが優しいんだよ」


 表層を撫でるような会話だ。それが悪いわけじゃない。いつだって深刻な話をしなきゃらならないわけじゃないだろう。深刻な話をするにも助走があってもおかしくはない。


「優しかったら、我が儘なんて言わないよ」


 キーワードが少しずつ近付いていく。くるみだって分かっているのだ。避け続けるなんてできないと。

 何せ、時間はない。ちんたらしていれば、話は棚上げになったまま、俺たちは永遠の別れを迎えてしまう。その痛切さが身に沁みているのがどちらかなんて、考えるまでもないことだ。


「それとこれとは別じゃないか。甘えてくれるのは嬉しいよ。仲良くなるのが嫌なわけないだろ?」

「仲良くなった先に、未来がないよ」


 くるみがそれをはっきりと口に出したのは、初めてだった。もう、そこまで来ている。逸らせる先などないのだ。


「それは別に、くるみが相手じゃなくたって分からないものだろ? 仲違いして壊れちゃうことはある」

「でも、他とは別のことだって、和君だって分かってるでしょ」


 確かに、一切合切が同一だとは言い張れない。

 究極的に言えば、誰だっていつかは死ぬ。けれど、くるみがこうして不治の病で刻々と命を削っているのは、眼前に差し出されているのだ。どうしたって制限時間が見えている。迫っている現実を前にして、他の人と一緒だとは言い難い。


「そうだとしても、仲良く過ごした時間に意味はあるし、無駄ではないだろ」

「大事な思い出ではあるよ」

「だから、未来がなくったって、意味はあるでしょ。楽しくて嬉しかった」

「和君は、何が一番楽しかった?」


 振り返るには、一瞬だ。濃い時間を過ごしているようで、たったの数ヶ月にしか満たない。

 くるみの姿と会話。そのすべてが脳内へと広がる。どれもこれも楽しくて、順列をつけることが難しい。その隙間を縫うかのように、くるみが言葉を差し挟んできた。


「……和君は、ずっとかっこよかったね」


 ほろりと漏らされて、広げていた記憶が止まりそうになる。

 どこを取り出してきたのか。自分がかっこよかった瞬間の見当がつかない。むしろ、失態を塗りたくった記憶ばかりが幅を利かせてめげそうになったくらいだ。

 しかし、くるみはさも当然のような態度でいる。あまりの疑問に険しい顔になってしまった。くるみが苦笑いになる。


「私ね、お姫様抱っこしてもらったの初めて。和君はそんな場合じゃなかったと思うし、あのときに精査できてたわけじゃないけど、それでもすごくドキドキしてたの」


 くるみは胸元を押さえて、目を細める。半分しか見えないけれど、柔和に笑っているのは分かった。蕩けるような笑みを、俺は知っている。


「重いだの何だの言ってたのに」

「そうじゃなきゃ、照れくさくて仕方なかったんだもん」


 拗ねたような言い方は、空気を軽くした。それは、三日前にこうなる以前。自分たちが重ねてきた日々のものだ。

 焦ってもどうにもならない。大切で意味のある日々の上に、立っている。今更慌てているからって、土台を蹴り飛ばしてどうしようと言うのか。少しずつ、調子が戻ってくるような気がした。


「俺だって、初めてのことで、ドキドキしてたよ。お姫様抱っこもだけど、他のスキンシップも初めてばっかりで、いつだってドキドキしてた」

「すごく自然だったけど?」

「取り繕ってただけだ。綺麗だって何度だって言っただろ? 他にも大胆なことを吐露したこともある」

「だからこそ、自然だったと思うんだけど。慣れているのかなって考えたこともある」

「そんなわけない」


 俺がどれだけ心臓を壊しそうになってきたのか。情けないので詳らかにしようとは思わないけれど、それでも一端くらいは思い知ればいいのにと思う。

 動揺ばかりしていた。ほだされてばかりだった。くるみへの感情が軽率に積もるほどには。隣にいたいと、何の衒いもなく口にできるほどには。

 綺麗で、可愛くて、素直で、我が儘で、一生懸命に生きている。

 岩井くるみは特別だ。比較などすべくもない。一等。最上。究極。極上。どんな表現でもいい。すべてにおいて最上位だ。それさえ確かであれば、どんな表現であっても変わりはなかった。

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