第29話

「分かってるよ。だって、和君は無茶しないもん」

「無茶?」


 くるみと出会うより前の自分からすれば、彼氏役に立候補できるだけでも、無茶をしていた。

 しかし、くるみはそれを言っているわけではないだろう。首を傾げた俺に、くるみは少し気まずそうに目を逸らした。何を抜き出してくるのか。ちょっとばかり腰が引ける。


「……抱きたいとか、そういうの、口にはするけど、和君からいやらしく触られたことないもの」


 げほごほと噎せ返っても許されるはずだ。

 いやらしく触れたこと。

 くるみはないと言ったが、そんなことはなかった。負い目がじわりと浮上してくる。咳き込みをいくらか長引かせたのは、返答を考える時間が欲しかったからだった。


「和君?」

「君は俺に対する許容範囲が広くなっているだけだと思うぞ」


 無為に逃げることも考えた。だが、そのまま会話を続けて予期せぬ方向に転がって、手綱を手放してしまったほうがよほど恐ろしい。

 どこに向かうか分からない勢いに飛び込むと、自分がとんでもないことを言い放つ自覚はもうある。回避するには、慣れないことはしないことだ。こうした会話が既に慣れないのだから、奇を衒うわけにはいかない。


「……あった?」

「バスのこと覚えてないのか」


 あ、これ自爆してんな。

 気をつけたところで、どうにもならないらしい。くるみもそのときのことを思い出したのか。ぼふんと湯気が出るほどに発火した。あのときの甘い声が耳朶に蘇って、こちらまで顔が熱くなる。


「あ、あれは、あの、あれ……い、一方的じゃない、から、そのカウントして、ないだけで……嫌じゃなかった、いや、嫌じゃないっていうか、その」


 俺よりも深い墓穴を掘ったくるみは、自ら穴を深くしていく。じたばたするだけ、自由落下しているようだった。


「違、違うんだからねっ! 本当に、私は……」


 ついぞ、言葉は途切れる。しかし、その失速の仕方は、目に余るものだった。

 宙を掻いていた腕が、ぽすんと布団の上に落ちる。逸らしていた視線がリノリウムの床に落ちていた。脱力と呼ぶにもそれに、きつりと心臓が硬質な音を立てる。


「……私、」


 虚脱した状態で、残り火のように言葉が漏れてストップした。すべての動作を終えたかのような動きは、黙って見ているにはあまりにも不安になる。


「くるみ? 大丈夫か?」


 ぐいっと覗き込むと、瞳に力がない。乱高下が激しくて、胸が鉛のように重くなった。嫌な予感というのは、横合いから顔を出して強襲してくるものらしい。


「……私ね、和君に触れてもらえるの嬉しかった」


 普段なら、ときめきだけで済んでいただろう。だが、今ばかりは背筋が震えた。嫌な予感とときめきが撹拌されて、内臓の位置がぐちゃぐちゃに掻き回されたような気持ち悪さが生まれる。

 この甘言がどこに向かっているのか。恐ろしさに支配されていた。第六感がこれほど明敏に冴え渡っていたことはない。


「硬くなったって、当たり前みたいに抱きしめてくれて、嬉しかった。綺麗だって、私だからって、いつも言ってくれてるみたいで、ほっとしてたの」


 言いながら、覗き込んでいた頬に手を滑らせられる。

 思えば、くるみが地肌……首より上に率先的に触れてきたのは初めてだったかもしれない。柔らかでひんやりと滑らかな指先が気持ちよかった。またひとつ。鮮やかなくるみの感触が増えた。


「本当に嬉しかった。でも、いつまでもこうしているわけにはいかないんだって不安だった」

「なんで」

「だって、私は病気だし、偽物だもん」


 奥歯を噛み締めたのは、覆しようもない事実だったからだ。俺たちの関係において、偽物を排除し尽くすことはできなかった。

 すべてが造りものだとは思わない。そんなことは不可能だろう。くるみだって、それは解しているはずだ。だが、どうしたって歪さを矯正はできない。


「……だから、ずっとこのままってわけにはいかないでしょ?」

「一緒にいようって言ったのは、役だけだったのか?」

「悲しいことを言わないで」


 そう言いたいのは俺のほうだ。割り切ろうとしているのは、くるみのほうではないか。


「じゃあ、このままじゃいけないってことはないんじゃないか」


 そんなわけがないのは分かっている。

 ぎくしゃくして三日を空けたのだ。このままでは、いずれ終わりが見える。それは最期のときが来るよりも先に。自分たちで自分たちの関係の寿命を縮めるようなものだ。

 分かっていても、心地良かったものを手放すのは惜しい。


「無理だよ」


 くるみの顔色が暗くなる。頬に触れている指先が震えている気がした。これは俺の感覚がおかしいのか。そんな判断もできないほどに、言葉の威力に圧せられていた。


「このままはダメだよ」


 言い聞かせるような声音は、くるみだって色んなものを飲み込んでいるのを悟らせる。そんなふうにされては、頑なな拒絶もできない。俺はとことんまで、くるみにほだされているのだ。


「もう、終わりにしよう?」


 そう言う顔が今にも泣きそうになる。つらさは平等かそれ以上。お互い様だろう。それは十全に伝わってくる。

 それでも頷くことはできなくて、ふるりと首を横に振った。我ながら、これほどまでに縋りつくとは思ってもみない。みっともなくて、身が縮まる。

 くるみは俺に倣うように、ふるふると首を左右に振った。そうされることが分かっていた。だからこそ、頷けなかったのだろう。一度でもこっちが引けば、くるみは斟酌などしてくれない。

 それは無理だ。いくら段階を細かく踏んでも、納得できそうにはないけれど。


「和君」


 聞いて欲しいとばかりに名を繰り返される。それだけで、説得力を生ませようとするのは、俺の感性が尖っているだけなのかもしれない。


「最後だよ」

「最期は来るだろ」


 そんなふうに境界線を引かなくても、それはいずれやってくる。それまで足掻くことも許されないのか。

 分かっていた。嫌だと。汚くなりたくないと、くるみが泣いたことが思い起こされる。あれはきっと、なくなったことになってはいない。

 これから先、症状は悪化していくのだ。くるみの精神が不安定になっていくことは必至だった。だからこそ、切実に言っている。

 俺だって、今でもこんな調子なのだ。とてもまともな状態で居続けられるとは言えない。支えると大言壮語を吐くことすらも難しいのだ。吐くことすらもできないものが、実行に移せるはずもない。

 俺が最期を口走ったのは初めてのことだ。くるみはそれを飲み込むように俯いて、首を左右に振った。


「そのときには、もう意思疎通はできないよ。そんな状態になっても、彼氏だって、和君を縛り付けられないよ」

「そんなふうには思わないよ」

「私は思うよ。思いたくないよ」


 それを言われてしまったら、俺に食い下がれるところがあるのか。卑怯だろう。言いたくなる反面、言わせてしまっているのは自分だった。駄々を捏ねることで、自縄自縛している。崖っぷちへ後退しているのは自分だ。


「だからね、和君。もう終わりにしよう。別れよう」


 喉を詰めて、唇を噛み締める。逃げ道はない。自ら断ったようなものだ。

 硬直したままの俺に、くるみが表情を崩した。困らせているだけだと分かっている。分かっているが、だからって納得できるのなら、こんな事態に陥る前にどうにかしている。

 三日間の懊悩だって、しなかったはずだ。……こうなる予感があったから、俺は少しでも後回しにしようとしていただけなのかもしれない。

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