第30話

「おしまい」


 何度繰り返されたって、どうやって飲み込めばいいのか。

 くるみは言い切ると、無理やりに笑った。それから、顔が近付いてくる。視界がぼやけた。それから、柔らかい感触が唇を塞ぐ。

 喫驚している間に、くるみはさっと離れていってしまった。ベッドの上から動けないくるみとの距離はしれている。それでも、この距離には瞭然とした意味が含まれてた。

 拒否。拒絶。断絶と言うのだろうか。

 おしまい。

 最後のお土産。


「くるみ」

「今までありがとう、灰塚君」


 明確に引かれた線に、身動きは取れない。

 話し合いは必要だと思っていた。ただ、それは、歩み寄る形の話し合いだと信じてやまなかった。宝石となった君をどうするのか。そうしたところに着手するのだ。無意識的にそれを望んでいた。

 いつぶりだろうか。もう耳に馴染みもしない呼ばれ方が、その可能性が引き裂かれたことを叩きつけてくる。

 くるみが動けたならば、立ち去っていたことだろう。できないから、ここにいるに過ぎない。俺が立ち去るのを待つしかないだけに過ぎない。妥協でも何でもない。どうしようもないことだ。

 その証拠に、くるみはこちらを見ることはなかった。そこにいるのに、遙か彼方にいるかのように遠い。ただのクラスメイトだったときのほうが、よほど近かったのではないか。それほどまでに遠い。

 くるみは頑迷だった。意地を張っているだけなのかもしれない。けれど、その意地を張ってでも、おしまいにしたいのだと全身が訴えていた。

 初めてしたキスの感触に浸るよりも先に、絶望感で胸がいっぱいになる。この場に俺の居場所はない。図太くそこに居座る胆力は、残さず持って行かれていた。

 終わったのだ。

 俺はのったりと椅子から立ち上がる。逃げるようで腹立たしい。けれど、くるみは逃げられないのだ。俺がここにいる限り、心を休めることもできない。強情な態度を崩すこともないだろう。

 くるみは決めたことを忠実にこなす。その力があるものだ。決断したことを貫く。たとえ望まぬものであったとしても、引いてはくれないだろう。

 諦念に立ち上がった俺は、ふらふらとベッドから離れた。くるみの姿を視界から消す。後ろ髪は存分に引かれていた。もう二度と叶わないかもしれない。一度でもそう過ったら、ただでさえ動いていると言い難い歩調がほとんど動かなくなった。

 本当は諦念だってしていない。みっともなく泣き喚いてでも、どうにかしてしまいたい。だが、それを推してみっともなさを惜しげもなく披露したところで、くるみを困らせるだけだ。結果が分かりきっている。それも、不本意な結果が分かりきっていることをやり遂げられるほど、理性を手放していない。

 いっそのこと、馬鹿になれたらいいのだろう。ここで止まってしまうほどの拘泥があるのだ。それだって、理性的ではない。本能に基づいた行動ができるのだから、それに従ってしまえばいいのに。

 振り返って、縋る。偽物の建前なんて放り捨てて、本心だけを叩きつける。……そんなもの、不本意よりも最低な結末を迎えるのが明白だった。

 くるみを混迷させ、残酷な目に遭わせる。別れようと言わせたそれを繰り返させるつもりか。ぐっと拳を握り締める。

 堪えたところで。振り返ったとしたら。

 交錯する思考が波になって襲ってきて、すべての動きを停止させてしまう。ついぞ、我慢の分水嶺を越えようとしたときだ。


「さようなら、灰塚君」


 先回りしたかのような追撃に、俺ができることなどあるものか。


「ああ、さようなら。岩井さん」


 それがはったりでなければ何だというのか。惨めで悔しくて、どうしようもない。俺はどうにか最後の力を振り絞って、振り返ることなく病室を後にした。

 後のことは、まるで覚えていない。




 思考すらも手放していた。

 自分の口から出たさようならという言葉が、自分を縛っている。くるみの声が耳朶に残って、響き続けていた。

 キスの感慨も追いついてきて、気持ちが手に余る。常に余っているものだから、扱いきれるものではない。悶々の内容が多種多様に過ぎて、脳みそが飽和していた。いっそ空っぽになってしまったかのような感覚がして、何も考えられない。

 何も考えられないものだから、行動が自動だ。ロボットでももう少しマシな自己判断ができるのではないか。それほどに漫然とした動きだった。

 翌日の授業など、毛ほども覚えていない。後になって教科書を見たら、写真のど真ん中にマーカーラインが引いてあったし、ノートにはみみずが這いまくっていた。もはや、漫然すら上手くいっていない。

 近藤に話しかけられて無視していたことさえも、後日知ったくらいだ。そんなにふやふやしているものだから、ふやふやしたままに気がついたら病院に来ていた。

 無意識下で辿り着くほどお見舞いに来たわけでもないくせに。さも当然のように院内に入ってから、俺はようやく我に返った。

 さようなら。

 そう言ってから、まだ丸一日だって経っていないくらいだ。それだというのに、もう前言撤回するような行動を取っている。それも、自己意志でもってしてと言えるかすら怪しい。惰性でやってきたと言っても過言ではなかった。

 心の奥底から求めている。そういえば、感情面で格好はつくのかもしれない。純粋で一途なのは、褒められてもいいことだ。しかし、それを惰性で行動に移すとなると、話は変わってくる。

 どの面下げて病室へ行けると言うのか。

 俺は待合室のソファベンチに座って、膝の上に肘を突いて息を吐いた。他にも診察を受けようという患者や見舞客などはいる。そこに紛れれば目立つこともなかった。

 そうして、身を潜めている自分のしみったれた根性には苦味が走る。病室に行くか否かは置くとしても、どっしりと座っていることすらできないのか。そもそも、我に返ったところで引き返せばよかったのに。

 いや、くるみに会いたい。

 どうして三日も懊悩していられたのか。そう思うほどには、くるみへ執着していた。引き返すなんて発想が出てこないほどには、くるみに惹きつけられている。

 そんなものは、以前から変わらない。くるみを図書室で助けてから、ずっとそうだった。彼氏役に頷けたのだって、つまりはそういうことだろう。

 そのころから、感情が伴っていたとは言い切れない。けれど、今となっては、それはもう切り離そうとしても切り離せずにいた。だからこそ、近付くことに躊躇が生まれているのだろう。これはきっと、くるみだって一緒だ。

 それが恋と呼ぶかは定かではないけれど。近付き過ぎてしまえば、別れがつらくなる。そう告げられたわけではない。けれど、そうした気持ちもあるはずだ。それとも、これは自惚れでしかないのか。

 ……いや、くるみはそこまで非情ではないし、感情をすべからく割り切っているわけではない。だから、別れがたく思ってくれているはずだ。

 そうでなければ、昨日のようなことにならない。念押しするかのように何度も。餞別のようにキスを。そんなことにはならない。

 病気と感情、様々なものが煩雑にこんがらかっている。造作もなく解けるわけもない。そんなことは分かりきっていた。それでも、落とし所を見つけてどうにかしなければ、この場にずっと座っているわけにもいかない。

 どん詰まりに行き着いたからって、そこで終わりになれるほど、あっけなく手放せるものではなかった。

 さようなら。

 よく言えたものだ。何ひとつ、ミクロでもナノでも、微々でも何でもどんなに小さな可能性すら、ひとつだってない。空々しいにもほどがあった。

 くるみの拒絶を受け止めてなお、包み込めるほどの度量が俺には備わっていない。志気だけはある。欲求だけも一人前以上に。ただ、くるみを納得させる術を持っていない。くるみを安心させてあげられる行動が伴っていない。

 だから、くるみに引導を渡されてしまう。渡す役すらも、くるみに任せる羽目に陥るのだ。もし仮に、終わりにしなければならないなら、俺から言い出さなければならなかった。くるみにすべてを背負わせるなんて、心底情けない。

 現状のままならなさには無論、自分の無力さにも肩が落ちる。動いてしまえばいい。そんなことは分かりきっているのに、行動に移すこともできずにいる。その憂いがますます自分を貶めていた。

 どうすれば。

 その思考は、出会ったときからずっと付き合ってきたものだ。いつまでたっても進歩がない。

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