第31話

 深い吐息が零れ落ちた。病室の待合室で、こんな陰鬱な態度を見せていれば、自然に人は去っていくものらしい。一人ぽつんと座る俺は、大層目立っていたのだろう。孤立していなかったとしても、きっと目立っていた。

 それは、顔見知りであれば看過できないほどに。ましてや、心当たりがあれば尚更目に留まったことだろう。


「……灰塚君?」


 予想外の声かけに、ぎしりと身体が固まった。俯いていた顔を持ち上げてなお、動けない。

 眼前と呼ぶには少し距離がある。それでも、対峙するには十分な距離に、くるみのお母さんが立っていた。

 そりゃ、家族が見舞いに来るのは自然だ。いたって何もおかしくはない。けれど、あんまりにも想像できていなかった事態に、回っていなかった脳が処理を放棄していた。

 唖然としているうちに、一人分開いた隣に、お母さんが腰を下ろす。


「お見舞いに来てくれたの?」

「いや、あの、」


 来たのは来たのだ。他の用事で来たわけじゃない。けれど、病室に行ったわけではないがために、答えが躓いた。そんな不明瞭な態度を見れば、どれだけ付き合いがなくたって察するのも容易いのだろう。

 お母さんはこちらを慮るような顔色になった。醸し出された悲しげな雰囲気は、くるみと似ている気がする。


「進行具合が激しくて、見ていられない?」

「そんなことはありません」


 別の聞かれ方をしていたら、戸惑っていただろう。けれど、見ていられないなんて一瞬だって思ったことはない。その姿を瞳に焼きつけていたかった。本心はすぐさままろびでる。

 お母さんは俺の勢いに目を瞬いた。


「それはくるみも喜ぶわね。でも、じゃあ、どうしたの?」


 実直に突っ込まれて、苦さを呑む。

 どうかしてなきゃ、こんなところで項垂れていない。お見舞客の動きとして不具合しかないのだ。突っ込まれて当然だった。

 そして、ご家族を相手取って誤魔化すなんて高等技術は出てこない。ただでさえ、混迷の坩堝に陥って通常状態ではなかったのだ。それができるのならば、さっさと病室へと行けている。


「……もう、終わりにしようって言われました」


 恐らく、お母さんは俺が彼氏だと誤解しているはずだ。その状態でこんなことを言えば、もはや彼氏確定で、別れ話に突入したという相談だと思っているだろう。

 誤解ではあるけれど、事態だけを取り出せば、そう遠いものでもない。まさか偽装だなんて解説をお母さんにできるはずもなかった。


「……多分、怖くなったのね」


 やはり、くるみのお母さんだ。何だか、すとんとそう思った。

 すぐに破局に辿り着かずに、事情を鑑みる思考力は、ありがたかったかもしれない。そうでなければ、気まずさはうなぎ登りになっていたはずだ。

 破局の不安をお母さんに訴えるなど、平常時ではやりはしない。実際に彼女であったら、言うことはできなかっただろう。


「ここ数日で、一気に病気が進行してしまったから……もうね、ご飯も食べずに済むようになってしまったの」


 ああ、と思う。

 俺はくるみと出会ってから、できる限りの情報は集めたつもりだ。それで何かが改善するかはさておき、何も知らないなんて恐ろしい状態でいられるわけもない。

 知ったところで、医師でも何でもない俺ができることなどなかったが。それでも、症状の把握くらいは努めている。

 ご飯を食べずに済むように。

 それはつまり、内臓が宝石化してしまっているということだ。栄養素が必要ない身体になってしまった、と。

 目に見えている部分よりもずっと、くるみは宝石と一体化してしまっている。俺が思っていたよりも、喫緊の死を感じ取っていたのかもしれない。

 いてもたってもいられないほどに心臓が浮ついたが、衝動だけで動けるわけもなかった。お母さんが目の前にいるのだから、尚のことだ。


「だから、きっと灰塚君とお別れするのとか、これから宝石になっていくのを見られるのとか、怖くなっちゃったんだと思うわ。ごめんなさいね」

「……分かってる、つもりです」


 だから、さようならと答えてしまった。

 くるみが苦しんでいること。悲しいこと。そういうことを察してしまうものだから、知らん顔して図々しくいることができなかったのだ。

 お母さんも、それ以上言いようがないのだろう。会話を切ってしまったことに焦るも、同時にくるみとの会話が思い出される。そのひとつが胸に引っかかって、零れそうになる息を呑むと腹が決まった。

 それは突拍子もない。俺はやっぱり、勢いで物事を決めるのをやめたほうがいい。けれども、俺の中では唐突でもなんでもなかった。だからこそ、勢いで階段を駆け上がるようなことになるのだろう。


「岩井さん」


 そっと零したはずだった。けれど、それは思うよりも明瞭に響いて、お母さんと目が合う。


「もし」


 腹を決めたのは本当だった。だが、口火を切ろうとすれば、言葉の余白は大きくなる。


「もしも、お、私が、くるみさんの宝石を頂きたいと言った場合、それは叶うのでしょうか」


 くるみは言った。もらって欲しいと。

 一から十までを願ったとは言えないのかもしれない。けれど、俺は考えると答えた。それは、さようならと言ったからといって、焦土にはならない。

 繰り出した言葉に、お母さんは驚きを隠せずにいるようだった。当たり前だろう。遺骨が欲しいと言っているのだ。交際相手。それも、別れを切り出されているものが言うことではない。お母さんの驚愕は察してあまりある。

 しかし、お母さんは鷹揚だったらしい。


「それは、くるみが言い始めたのかしら?」


 いつの間にか落ちていた顔を上げた。お母さんは困ったように、頬に手を当てて首を傾げている。俺はぎこちなく、小さく頷いた。


「……考えておくって答えました。もう終わらせようとされましたけど、それでも、ずっと一緒にいたいと思ってます。旅行もデートも、まだ行けてないところがたくさんあって、それで、私は」

「くるみがそう言ったのなら、私から拒否はできないわね。ただ、手続きだとかは調べておかないと分からないけれど」


 すんなりと許可が下りて、肩透かしを覚えた。唖然とした俺に、お母さんは引き続き困ったように笑っている。それがくるみの表情と重なった。


「いいんですか?」


 せっかく認めてくれているのだ。念を押して、考える猶予を足すことはないのかもしれない。それでも、こればかりは確認せずにはいられなかった。


「私一人で決められることではないけれど、私にはどうしようもないと思ってる。同時に、くるみにそうした意志があることを残してもらっておかないと、それも私にはどうしようもないけれど」


 ぐわりと心臓が跳ね上がって、力強く走り出す。今度こそ本当に、いても立っても居られなくなった。お母さんの目元が柔らかく細まる。


「ちゃんと二人で話を決めておいてね」

「はい……!」


 こくんと頷いた瞬間、大きく立ち上がった。物音が響いて慌てたが、それに意識を向ける余裕すらもない。

 お母さんに頭を下げて、真っ直ぐに病室へと足を向けた。院内を早足で進んでいく。迷いが断ち切れたわけではない。色んなものを抱えていて、身は重かった。けれど、迷っている時間がもったいない。そんなことはとうに分かっていたはずだ。

 決めておかなければならないことが、たくさんある。お母さんに背を叩かれるなんて、こっぱずかしいことこの上ない。後で、くるみにも叱られるかもしれない。誤解を解かないどころか、加速させるような真似をしたのだから。

 その小さな内省を胸に抱きながら、病室をノックした。扉が閉まっていたことはよかったのかもしれない。尋ねてきたのが俺だと分かっていれば、くるみは入室を許そうとしなかっただろう。

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