第32話
「はい」
と過去と同じような返事を得た俺は、呼吸を整えて扉を開いた。本を閉じようとしていたくるみがこちらを向いて、瞠目している。一瞬泣きそうに崩れた顔が、すぐに顰められた。
「……何の、用?」
返事だけだから気付きづらかったが、声が引っ掛かっている。もしかすると、昨日の途切れ途切れの声は、感情だけのものではなかったのかもしれない。
「話がしたくて」
「私は、話すこと、ないよ」
「俺はたくさんある。考えるって言っておいたことも、まだ答えていなかったし、くるみと一緒にいると言ったはずだよ」
「さようなら、って言ったよ」
「ただの一日の別れの挨拶だろ」
苦しい弁明なのは百も承知だ。あっけらかんとしたところで、取り繕えてはいないだろう。それでも、そのまま堂々とくるみを無視して椅子に座った。
くるみは困惑と不服を隠さずに俯いている。こちらもくるみの言動を無視してでも押し切るつもりだが、一点張りなのはくるみも同じのようだ。
「くるみ」
声をかけても、くるみは俯いたままでいる。頑なさは俺よりも手強いかもしれない。
「お母さんと話したよ」
「!」
さすがに看過できなかったのか。気を引くことに成功した。こちらを向いたくるみの顔色が毒気に当てられている。
「君が望むのなら、宝石をもらうことも許してもらえるらしい」
「なんで……っ」
アグレッシブなことだ。
くるみだってお母さんに話していない。子どもの戯れ言だと言われてしまえばそれまでの、夢見がちな会話だった。死んだら遺骨をもらって一緒にいてくれなんて、恋に恋しているような浮かれた妄言で捨てられたっておかしくない。
それをお母さんに話してしまったというのだ。そりゃ、くるみだって慌てる。
「くるみが意志を残してくれれば、俺は受け取るつもりがあるからな」
「なご、灰塚、君」
「くるみ」
頑固に態度を崩すまいとする呼び名を制するように呼びかけた。くるみは喉を詰めて黙る。意見が口外に届くことは心地が良い。自分たちがここまで積み重ねてきた日々を感じさせる。
「これは彼氏役とか、そういうのは関係ない。俺は、俺個人として、くるみのそばにいたいんだよ」
ずっとそうだった。けれど、そこに薄皮一枚が挟まり続けていたことは事実だ。すべてを嘘だとは思っていないだろう。だからって、すべてを享受できるかどうかも、また別問題だ。
言葉は本音がおぼろげなままで、ここまで突き進んできた。そのどれもが本音ではあったが。だが、それをくるみが全部信じて受け止めてくれているなんてのは、都合が良すぎる。
「俺は、俺として君と向き合ってきたつもりだ。確かに、役らしく振る舞おうとしたことはある。けれど、俺はそんなに気を張ってくるみに上っ面で付き合えるほど器用じゃない。だから、どれだって本音だ。君のことを大切に思っているし、一緒にいたいと本気で思っているよ」
こんなものは、もう好きと言っていないだけで告白と一緒だ。
くるみはまじまじと俺を見てきた。やっぱり、どこかで役としての壁があったのだろう。それは、俺だって同じだ。だから、くるみの気持ちはよく分かる。
「ひとつだって、語弊も誤解もない。くるみ、俺は君がどんなに宝石化したって綺麗だと思うし、そばにいたいと思うよ。君が手に入れられるなら、それは嬉しい」
最後の一言は言い過ぎたか、と反省が追いついた。だが、引っ込めるよりも先に、くるみが顔を覆ってしまう。
そうして腕を上げると、病院服の袖から腕の煌めきが零れ落ちた。くるみもそれをすぐに察したのか。腕を下ろして袖を抑え込んだ。瞳がそろりとこちらを窺ってくる。
何をそれほどビビることがあるのか。俺の意見が変わることはない。だが、思えば、俺はくるみの身体を実際に目視したことはなかった。最初の偶発的な接触だけだ。そう思うと、直接に怯む気持ちも分かる気がした。
ただし、気だけだ。俺の心情はひとつとして変貌しない。
俺は椅子から立ち上がって、ベッドの隅に腰を下ろす。身体を捩って、くるみの頬に触れると、びくりと身を固められた。
「綺麗だよ」
くるみが言いたいことなんて明白だ。先手を打つように言うと、くるみは息を止めた。触れているのはまだ柔らかい頬であるけれど。それでも、俺の意思はきちんと伝わったようだ。
「……、和君は、優し過ぎるんだよ」
「我が儘なだけだ」
焼き増しのような台詞だった。けれど、それが引用として活きてくる。ダメ押しになったのか。くるみの表情が緩んだ。
そのことにほっとして、くるみの肩口に頭を落とす。一緒にため息も落ちた。くるみの身体は強ばりもしない。驚くための身動ぎをすることすら、もうできなくなっているのだろう。一気に調子が崩れていた。
「和君が、我が儘でいてくれて、よかった」
掠れているのは、感情なのか。体調なのか。どちらにしても、よかったという返事に胸を撫で下ろした。
「ごめん。堂々巡りのことしか言えてないな」
「ううん。嬉しい。いっぱい返せなくて、ごめんね」
くるみの言葉は端的になっている。語彙力が下がったように感じるのは、拙い喋りであるからか。それとも、脳みそにも影響が出始めているからか。考えると胸が苦しくなった。
俺は顔を上げて、そばにあるくるみの顔を見る。顔辺りは、まだまだ肉体を保っていた。宝石の要素は見当たらない。ショートカットも健在だ。そっと髪を梳くように近付けた手のひらを頬に添えると、くるみはぱちくりと目を瞬いた。
「なごむくん?」
とろりとした声は、それはそれで聞き心地がよい。目を細めて、額を合わせた。くるみはきょとんとしたままでいる。丸い茶色の瞳には、微かに紅がチラついていた。もう時間はないのだと、すべての状況が直に伝えてくる。
「くるみ、一緒にどこにでも行こうな。ずっとそばにいる」
「何も、できないよ?」
「蒸し返すなよ。そんなことは重要じゃない」
「本当に……?」
当たり前だ、と豪語できるのか。それは、なんというかゼロとは言い切れそうにもない。僅かに目を逸らすと、くるみはからからと笑った。宝石が擦れるような音は、つまりそういうことだろう。
「……これで十分だよ」
そうしてより一層に近付いて、抱きしめた。
くるみが首筋に顔を擦り寄せてくる。可愛い。硬い感触が身体のうちに収まる。擦り寄ってくる顔を寄せようとしても、くるみは避けたりしなかった。その唇に薄くぶつけるように押し当てる。
「これだけ?」
一瞬の触れ合いからは、まだ離れきってもいない。小さく零された声に、ふっと笑みが零れた。
「我が儘」
「知らなかったの?」
「知ってるよ」
そうやって、もう一度唇を奪う。角度をつけた唇は、しっかりと触れ合って噛み合った。柔らかく湿り気のある体温を忘れることがないように。
俺は時間の許す限り、何度も何度もキスを繰り返した。
そして、それがくるみとの最期の接触になった。
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