第33話

 急速に体調を崩したくるみは、集中治療室に運ばれてから復調することなく旅立ったのだ。

 俺へ連絡が来るはずもない。もちろん、葬儀の連絡は来たし、お母さんはかなり早く俺にツテをつけてくれた。それでも、くるみに会うことは叶わなかったのだ。

 あっけない幕切れに、悲傷がなくなるわけもなかった。どれだけ覚悟していたって、寂寥感がなくなるわけではない。

 葬儀の日は、苦しいほどに爽快な青空だった。俺は制服で参列する。高校生だからこそだが、くるみと過ごした時間を思えば、弔うのに誂えたような衣服であるのかもしれない。

 涙は零れなかった。からからと空疎な音がする。それはくるみが残した宝石の音に近くて、胸に留めておきたかった。少しでも、くるみのことを留めておきたかった。たとえ、それが悲しさや切なさであったとしても。垂れ流したりしたくなかった。


「灰塚君」


 涙声で呼ばれたことに、心臓がぎゅっと掴まれる。お母さんだと分かっていても、声が似ていた。今更気がつくなんて、とんだ間抜けだ。失ったものの面影を追いかけているだけなのかもしれない。


「これを」


 二十センチほどの木箱が差し出される。目を見開いた俺に、お母さんは微笑を浮かべた。

 そっと、ゆっくりと木箱を受け取った。微かで確かな重みが手のひらに乗っかってくる。それが何かだなんて、誰に聞くまでもない。


「くるみのお願いですから、大事にしてあげてください」

「一生大事にします」


 まるで結婚の挨拶みたいだった。思えば、娘さんをください、とぶちまけていたようなものだ。そして、こうしてくるみはやってきた。


「ありがとう」

「ありがとうございます」


 俺とお母さんに交流はあるが、ここで思い出を語り合うほどではない。頭を下げて、俺は自宅へと戻った。一刻も早く、一人でくるみと向き合っていたかったというのが大きかっただろう。

 そうして自室に戻って、着替える間もなく木箱を開いた。艶のある石榴色。瞳に焼きついているそれが、電光の下で輝きを見せる。

 くるみだと思うと、手の中に包み込んで愛撫することが躊躇われた。あれだけ触れ合えるようになっていて、今更だ。けれど、そこにある。くるみがそばにいるということが何より重要だ。触れ合うことが一番ではない。

 そうして眺めていることで、箱の隅に封筒が入っていることに気がついた。そっと抜き出すと、灰塚和様と宛名が書かれている。文字はくるみのものだ。

 丸文字が揺れていた。無理を押して書いたのだろう。いつそんな時間があったのか。俺が帰ってから倒れるまでの数十分の間か。だとすると、これは本当に最後の気力でもって書かれた手紙だ。

 汚したり破いたりしないように慎重に封を開いて、手紙を広げた。枚数は一枚。分量は多くない。

 けれど、飛び込んでくる文字列の貴重さと言ったら他になかった。もう二度と手には入らないものだ。噛み締めるように、文字を辿っていく。

 和君へ、と緩く始まるその内容はすっきりしていた。

 

『和君へ

 この手紙が和君のところへ届くころには、私はもう宝石になっているでしょう。一度でいいから、こういう入りをしてみたかったの。ごめんね。でも、きっとそうなっていると思います。

 お母さんに宝石になった私の一部を渡してもらえるように頼んでおくのと同時に、この手紙を託しました。改めて手紙を書くなんて、なんだかとっても気恥ずかしい気持ちになります。もっと恥ずかしいことを語り合ったのにね。

 和君と交わした多くの言葉は、私を満たして幸せにしてくれました。たった数十年の人生の中で、病気になってからが一番楽しかった。それもこれも全部、和君のおかげです。彼氏役を受けてくれてありがとう。それだけでなくて、心から私と付き合ってくれてありがとう。

 私だって、彼女役だなんて思ってなかったよ。和君と近付けることが嬉しくて、ドキドキしました。人生最後に、素敵な恋ができてよかった。いつだって綺麗だって言ってくれたことに、私がどれだけ救われていたのか。和君は分かっていないでしょう。

 あなたと過ごせた毎日は幸せでした。私は宝石になっても幸せです。和君のそばにいることができるんだもの。ずっと一緒に色々なことを体験することができるんだもの。

 でもね、和君。あまり、気に病まないでね。もしものときは、どこか奥底にでも仕舞っておいてください。捨ててとは言えない私の我が儘を許してくれると嬉しいです。

 最後に。キスまでしておいて、今更だって和君は笑うでしょうか。けれど、最後にきちんと伝えておきたかったのです。

 和君、愛していました。愛しています。

 心から。ありがとう。

                                岩井くるみ』

 

 最後の我が儘が過ぎる。

 俺だって言わなかった。最期だと分かっていたのに、言っていなかったのに、こんなふうに不意打ちに置き土産を寄越すなんて。もう、俺には返すすべもないというのに。

 涙腺が緩んで、耐えきれない水滴が落ちた。慌てて手紙を手元から離す。それを皮切りに、だーっと滝のような涙が零れて、その場に跪いた。

 くるみの宝石に触れると、我慢できずに手に抱き込んだ。しとしとと降り注ぐ涙が、宝石を湿らせていく。硬くてひんやりとしていて、濡れているそこに唇を寄せた。


「愛してるよ、くるみ」


 口づけた感触は、俺にはちゃんとくるみだ。

 かちんと硬い音が響く。じわじわと硬くなっていた胸の痛みが鋭い。身体が少しずつ、宝石結晶化していた。鈍い銀色の宝石を初めて見たときから、自然に受け入れられている。

 そして、そのときから一度たりとも、くるみに伝える気はなかった。俺が苦悩のタネにならないように。みっともない俺がただひとつ。せめて、守れる秘密だった。嘘はついていないけれど、隠し通したものは、俺が追いついたときにようやっと役割を終えるだろう。

 今更遅いとくるみは怒るだろうか。けれど、これだけは最期まで秘めておきたかった。くるみを愛していたから。ただ、それだけだ。

 それに、こんなことは些事だった。どんな事情が絡もうと、どんな状態だろうと、俺たちの結果は変わらない。

 俺とくるみは、ずっと一緒にどこまでも行くのだから。

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