第27話
くるみが取り出してきたものを、ベッドに設置されているテーブル台の上に置く。小瓶の中にキラキラと輝く赤い欠片が入っていた。それが何か。説明を受けなくとも、すぐに思い当たる。ぞわりと背筋が凍った。息を呑むのを堪えたのは、根性か奇跡か何かだ。
くるみはひどく凪いでいた。それがまた、胸をぎしぎしと軋ませる。
「足首に亀裂が入っていたのは、気がついてたでしょう? もうどうしても傷は戻らなくて、治療で削ったの」
歯か何か。そう考えれば、いくらか気持ちが落ち着くのだろうか。どれだけ発想で意識を切り替えようとしても、肉片でしかない。どくどくと心臓が嫌な拍子で鳴っていた。
「こんなふうに、なるんだって」
くるみだって、実際に突きつけられたのは、今だったのだろう。そう感じさせるほどに、いやに抑え込まれたような音だった。それを理解できるのは、自分も同じだからかもしれない。
こんなふうに、なるんだ。くるみが最期を迎えれば、このようになるのだ。現実が逼迫している。
「綺麗だな」
くるみが努めて淡々としているものだから、こちらもそうすべきだろうと平常を装った。装えているとは、到底思えない。
くるみだって、俺が本心から一部の曇りもなく言っているとは思っていないだろう。ただ、すべてが嘘というわけでもないし、適当に伝えたつもりもなかった。
「和君なら、きっとそう言ってくれると思ってた」
「他の誰も、そうは言えないだろ」
普通に考えて、肉片を見せられて綺麗は頭がイカれている。俯瞰すれば、自分のことでもそれくらは分かる。苦笑いすると、くるみも共犯者かのように笑った。
「そりゃ、そうだよね。私だって、いつもは思えないもん」
「それも当たり前。俺が言えるのは馬鹿か何かだからだろうな」
「和君が優しいだけだよ」
それこそ、性善説だろう。
だけ、とは言えなかった。くるみのことを考えていないわけじゃない。くるみが綺麗だというのは、揺るがない事実だ。たとえ、どんな姿になったとしたって、俺はその言い分を変えるつもりはない。
だけど、だけとは言い難かった。
「……まだ、考えてくれる?」
人差し指で瓶の蓋部分を押さえるように、かたりと瓶の底を傾けては戻す。緩い動きではあったが、中身は少しも緩くない。
「……君が望むなら」
卑怯だ。答えは出ているくせに。正々堂々と求められないのは、どういう心理からだろう。
恐れているのか。気遣っているのか。勇気がないのか。人任せな。
「和君は望んでくれないの?」
そんな俺の心を読んだかのような問いかけに、逃げ場はなくなる。本心を攫うのは、難しくはなかった。
「……くるみが手に入るなら、法外だろ」
偽物の彼氏役。その不確かな立場を越えて。くるみが合法的に入手できるのであれば、望むべくもない。それは、法外だろう。
思うがまま口に出すのが躊躇われていたのは、くるみに引かれたくないからだ。偽物の立場さえ失うことが恐ろしかった。何とも矮小だ。
まだ、人の肉片を手に入れることに躊躇しているほうが、情緒としては間違っていない気がした。
「これだけの話じゃないよ?」
言いながら、くるみが小瓶を揺らす。そのたびに、電灯に照らされた宝石がチラついた。瞳を焼くのは、その宝石が他の何でもなく、くるみのものだからだ。
「分かってるよ」
「……本当に、いいの?」
「どうして?」
途方もないことを言っている自覚はあるらしい。そして、どれだけ俺が肯定したところで、現実味は薄いのだろう。不安もあるのかもしれない。
自分の肉体が今後どうなるのか。大切な話だ。口約束ひとつでは、保証になるはずもない。不安を抱いて当然だろう。俺自身、何の担保もなく豪語できるのか。その不安を抱えている。
今はまだ欠片だ。そうでなくなったとき。俺はまともに受け取ることができるだろうか。くるみの体温を知っている。それを奪ったものを芯に望むことができるのか。不安は絶えず揺蕩っている。
「私だって、ひどいお願いをしているって分かってるよ。我が儘ここに極まれりって感じ」
「分かってるなら何よりだよ」
苦笑するしかないし、否定することもできない。
この懊悩は一生消えることのないものになるだろう。もう、もらってももらわなくても、自分が最期を迎えるまで付き合うことになる厄介な提案だ。ひどい我が儘だった。
「……ごめんなさい」
ぎゅっと小瓶を握り締めたくるみが、身を縮めて項垂れる。
「いいよ。我が儘を言って欲しいと言ったのも考えると言ったのも俺だし、力になりたいと言ったのも俺だ」
最初から、俺は自分の意思でくるみに関わっている。無視できるものならば、していた。宝石結晶病の患者と関わることが、十把一絡げ以上に難しいことなんて分かりきっている。
「一緒にいるって約束したじゃないか」
空虚だ。伝えようと躍起になればなるだけ、大事なことが滑り落ちていくような気がした。
どれだけ重ねたって、積み重なっている手応えがない。くるみの中に、俺の感情はどれだけ届いているだろうか。いくらか。少しでも。そう願いながらも、それが叶ったところで現状が上向くわけでもないことは分かっていた。
気持ちが通じれば、宝石結晶病のすべてを許容できるようになるわけでも、共有できるわけでもない。
くるみの不安も恐怖も、何もかもが個人に与えられたものだ。それを感情論だけ分かった気になろうなどとは、それこそ我が儘というものだろう。それでも。僅かでも。そうして未練がましく止めることはできそうにもない。それは空回りという。
鈍重な空気に押しつぶされそうになる。沈黙が耳に痛い。心が上擦って、どう戻せばいいのか分からなくなる。呼吸すら上手くできない。俺がこんな状態になっていいわけもないのに。
不調なんて、どうして訴えられるというのか。つらいなど、どの口が宣えるのか。くるみを前にして。言うつもりもないし、言いたくもない矜持だってある。
そばにいるということを、俺は軽く考え過ぎていたのかもしれない。それがボディブローのように効いてきて、意識から散らした。逃げ出したくはない。意地や見栄じゃなかった。
それはひどく単純に、くるみを求めているだけだ。嘘じゃない。だからこそ、色々なものが絡まって混線し、事態を複雑化している。
自覚しただけで解けるなら苦労はしない。ぐるぐると思考が引っ掻き回されて、酔いそうだった。
「……ごめんなさい」
再びもたらされた謝罪は、何に対するものだろうか。迷走した記憶で会話がどこで止まっていたのか思い出すのに時間がかかった。
もしかすると、くるみ自身具象的な物事への謝罪ではないのかもしれない。全体的。すべてに。そう思うと、軟弱さに沸々と苛立ちが生まれた。
どうして、弱っている相手に謝罪させているのか。
「俺こそ、ごめん」
謝って欲しいわけじゃないと。追い詰めたのであればと。こちらから返せるのはそれしかなくて、心が萎れる。
空気が凍っていた。それを溶かす術を持ち得ない。二進も三進もいかなくなっているのは、お互い様なのだろう。
「……今日はもう」
くるみが濁した語尾の先を、求めているつもりはなかった。けれど、そう言いたくなる息苦しさは切に理解できる。そして、そうする以外に道が見つからない。
くるみは俯いて、こちらを一切見なかった。その重圧を撥ね除ける力が、今の俺にはない。
「……また、来る」
どうにか捻り出せたのは、悪足掻きのひとつでしかなかった。立ち上がる俺をくるみが見ることもない。確かに引かれた境界線が溝になっていく。
重く硬質な音がひび割れて砕けた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます