第26話

 どうやって修学旅行から帰ってきたのかまったく覚えていない。あのまま病院に緊急搬送されたくるみのことを見送ってから、記憶が根こそぎ消え去っていた。

 あれから二日。くるみからの連絡はない。まだ、復調していないのだろう。そう思って気持ちを落ち着けようとするが、最悪の想像が巡って消えない。

 学校なんて行ってられる心情じゃなかったが、教師から何か聞けるかもしれないと思うと、その機会を逃すこともできなかった。抜け殻のように教室へ行って、呆然と座っていると、目の前に陰が落ちる。見上げれば、近藤が小難しい顔で立っていた。


「……何だよ」


 何も言わない。というよりは、何を言うかを躊躇っているようだった。今はその理由を聞いてから、段階を踏んだ会話をする余裕はない。直球で投げると、近藤の顔色はますます渋面になった。


「知っていたのか」


 潜められた声が、何を探っているのか。腫れ物に触るような言いざまに、苛立ちが去来する。睨みつけると、近藤は困ったように首を左右に振った。


「パニックになっていたし、今もあんまりに虚脱してるから、真面目に聞いてる。大声で話すことじゃないだろ」


 そう解説されて、自分が神経質になっていることに気がつく。長く息を吐き出して、改めて近藤の台詞を飲み下した。


「ちゃんと、知っていたよ」

「……もう、かなり悪いのか」


 飛躍した、とは思わない。知ったうえで、俺がこれだけ衰弱している。その意味を的確に受け止めているようだった。

 近藤ってこんなやつだったか。そんな意外な一面を引き出すほど、俺の状態は悲惨なのかもしれない。


「たぶん」

「大丈夫か?」

「わからん」


 心から崩れ落ちそうな無力感が行き渡った。こんなことを言いたくはない。けれど、実際問題として、現状も先々も読めないのだ。端的がゆえに曖昧で何も分からないことしか答えられなかった。

 近藤はやはり難しい顔をしている。当然だろう。俺が近藤でも、同じような態度になってしまったはずだ。


「お前が大丈夫なのか」


 繰り返されて、何を心配されているのかにようやく気がつく。


「……ああ、多分」

「ダメじゃん」


 ばっさり切られて、自覚が追いついた。

 いや、自分が弱気になっていることは分かっていたつもりだ。けれど、抜けたものは目に見えない。近藤に指摘されることで、空っぽなことが鬼気迫った。


「簡単にしっかりしろとは言わないけど、岩井さんのためにってんなら、お前がブレてる場合じゃないんじゃないのか」


 近藤は慎重に言葉を選んでいる。

 それが分かるから、俺も短絡的にならないでいられた。そうでなければ、適当なことをと苛立っていたかもしれない。

 簡単じゃないのは、くるみのほうだ。そう心がいくらか目覚めた。生憎、一瞬で覚醒するには、衝撃が強過ぎたが。それでも、ふにゃけている場合ではない。その気力くらいは持ち直す。

 近藤には頭が上がらない。これといった恩も仇もなかったが、こんなにも突拍子もなく縁ができるとは思ってもみなかった。


「悪い。ありがとう」


 そろりと零すと、近藤は苦い笑みを浮かべる。


「何の役にも立ってないだろうけどな。ただの野次馬だ」

「遠巻きにしようとしないだけマシだと思うけどな」


 近藤だけが近付いてきたのは、ひとえに関わりがあったからってのが理由ではないだろう。

 周囲は俺に近付いてこようとしない。俺が半狂乱になっていたものだから、それに慄いたといえば下せる溜飲もある。だが、そうではない。宝石結晶病の患者と関わっている人間と関わりたくはない。そういうことだろう。

 察してあまり余るものだからこそ、近藤の平常通りが際立った。それが貴重なものだということも。


「それは性善が過ぎるってもんだ。まぁ、余計なことを言いたくなる性分だってことにしといてくれ」


 余計か否かなどは、受け取る側の問題だ。人によっては、確かに苛立ちを煽るだけだろう。気まぐれが成功しただけに過ぎない。

 親切心はあるだろうが、だからと言って、それが通るかどうかは事態に左右される。だからこその言い方だろう。深入りしない距離感が心地良かった。


「助かった」


 揺らいでいる場合ではなかった。どれだけ気遣われようと何だろうと、俺がなすべきことは変わらない。再度、感謝を伝えた俺の言葉を、近藤は肩を竦めて流した。それくらいの間合いがちょうどいい。

 俺はどうにか自我を取り戻した。




 バスを乗り継いで目的地へと向かう。

 くるみは入院したと発した教師にお願いして、病院を教えてもらった。元来なら個人情報云々ということになるのだろうが、俺の取り乱しようは無視できないものとして認識されていたようだ。

 自分でもよく覚えていないが、救急車が来るまでの俺は、ひたすらくるみの名を呼び続け、他の誰も近付けない手負いの獣のような状態だったらしい。そんな状態の俺に、病院を教えないのが悪手だという判断で、教えてくれた。

 まぁ、これには多分、宝石結晶病を診ている病院を虱潰しにすれば見つけられるだろうという純然たる事実もあってのことだろう。

 そうして、俺はバスを乗り継いで、病院へとやってきた。部屋番号も聞いている。お見舞いもできるらしい。その状態でくるみから一切連絡がないという事実が胸を痛めるけれど、俺は一直線に歩を進めた。

 恐ろしさがないわけじゃない。自分がいつも通りに対応できるのか。くるみの症状がどのような状態になっているのか。その恐怖は、院内を一歩進むたびに膨れ上がっていく。

 けれども、逃げるなんて選択肢はない。くるみの状態を確認しない限り、この不安は永久に解消されることはないのだ。今、行かなければ拗れる。

 病室は一人部屋だ。その緊張感たるや、言葉にならない。これは後から知ったことだが、宝石結晶病のものは症状の進行具合に限らず一人部屋だという。このときの俺はそれを知らなかったので、病状に怯んでいた。

 深呼吸をして、閉じられた扉をノックする。病院という場所柄、大きな物音を立ててはいけないという自制が、ひどく頼りない音を奏でた。

 一度では届かず、二度目に挑戦する。その手続きが余計に緊張感を滾らせていた。


「はい」


 と響いたくるみの声は、一聴すれば普通に聞こえる。

 まだ声は出るようだ。ちょっとしたことに安堵して扉を開く。病院のレールを引く扉の重さが、ずっしりと腕にきた。

 ベッドを起こして座っていたくるみの手元には、本がある。閉じられたそこから、栞が覗いていた。その煌びやかさには心当たりがある。楽しかった思い出が、今はもう遠い昔のような気がした。


「和君、来てくれたんだね」


 そう言うくるみはいつも通りに見えるが、そんなわけがないことは分かっている。

 その病院服の下がどうなっているのか。布団に隠れて見えない足元は。目に見えない体内も。もう、手の施しようもなく、宝石結晶病は進行している。その事実から目を背けるわけにはいかなかった。


「……連絡くらい、してくれよ」

「ごめん。動けないから、スマホ使えなくて」

「……足、もうダメなのか」

「うん」


 くるみはなんてことのないように頷く。

 思わず、目に力が入って、布団に隠されている足元へ視線が落ちた。動揺や心配を隠したって仕方がない。隠しきれる気もしなかった。

 くるみだって、俺が平然としていられるとは思っていないのだろう。態度は端的だったが、顔は苦笑いになっていた。そうして、身体を捩って引き出しから何かを取り出そうとしている。

 俺はそれを視界の端に留めながら、置かれている椅子を引いてベッドのそばに腰を下ろした。

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