第25話
このひたむきな子が、俺の手に入るかもしれない。その可能性を考えると、胸が詰まって息が上手くできなくなる。それは、嬉しい。望むべくもない分外な提案だ。改めてさらってみても、あらゆる意味で心臓が軋む。
けれど、と思った。けれど。そばにいると言ったのは俺で、それはどうなっても揺らぐことはない。
「くるみ」
この沈黙に落ちる呼び声に、意味がないとは思わなかったようだ。くるみの瞳が瞬いて、続きを待つ。まだ不安だらけ。その色味をしみじみと感じた。
「……俺は君のそばにいるよ」
「うん」
これは以前にも話したことだ。
混ぜっ返した俺に、くるみは静かに相槌を打つ。続きがあると分かっているかのような振る舞いを、俺もまた了承しているような感覚が漲っていた。
都合の良い幻想であったかもしれないけれど。けれども、話が円滑に進んだことは紛れもない現実だった。
「ずっと、一緒だ」
それはもはや、考えるのとは違う。答えも同等だった。口にした瞬間に、重量を持って肩へとのしかかってくる。下手をすれば身体の動きを封じ込めるような、それほどまでのものだ。
息苦しくて、上手く付き合っていける自信はない。けれども、重いからこそ、足腰にも力が入る。腹が据わる。すとんと腑に落ちた。何も迷うことなどない。ビックリするほど、あっさりと。俺は当然のように覚悟を決めていた。
本当にそれが叶うかどうかは分からない。
色々な手続きを踏む必要が出てくるだろう。それでも、くるみが望むのであれば、寂しい思いなどさせはしない。
そうした感情は、透けるものなのだろうか。くるみの顔色が見る間に変わっていく。瞳に薄い膜が広がって、雫が落ちた。その涙の光は、どこか赤く輝いて見えて息を呑む。
くるみも拭ったそれに気がついたのか。ざっと頬の血の気が引いた。紙のように白くなっていく身体を抱きしめる。そんなふうにしたところで、進行が堰き止められるわけじゃない。当たり前だ。
くるみだって、そんなことは熟知しているだろう。それでも、俺の身体に縋るように抱きついてきた。
「そばにいる。一人になんてしない。大丈夫だよ、くるみ」
気休めだ。おためごかしにしたって、現実的に救える言葉が出ないのかと気鬱になる。繰り返すことしかできない自分の無力さが、くるみを抱きしめる腕に力が回った。
少しでも。一人でないと分かるように。俺の体温がどこかに伝わるように。たとえ、宝石になったって、一人になんてしない。
できるのか。
俺だって、絶対だと断言できないこともある。
抱きしめてぶつかる身体から、硬質な音が響くのだ。この響きを忘れることはない。人と宝石の狭間があったことを忘れることはない。その記憶があってなお、宝石としてのくるみを手に入れて、平然としていられるのか。自信なんてない。
けれど、くるみの指が必死で俺に縋ってくる。その手を放り出すなんてことは、どんなことになったってできやしない。
くるみは泣き崩れている。これが俺の言葉にだったら、どんなに良かっただろうか。きっかけはそうかもしれない。けれど、今はもう、零れ落ちている宝石の雫のような涙に崩壊してしまっている。
虚無感を埋めるように、お互いに相手を抱きしめていた。
他のことなどできず、考えると言った提案は保留だ。後で誰にどれだけ言われたところで、俺たちにはこのときだけがすべてだった。
泣き濡れたくるみを部屋へと送り届けて別れた。
その夜、上手く眠れなかったのは、宝石の硬質な音が鼓膜に残っていたからだろうか。自分の不甲斐なさにだろうか。すべてが起因だろう。
近藤に茶化されたって、俺は薄い対応しかできなかった。おかげで興味をなくしてくれたのは不幸中の幸いだったが。
何にしても、寝不足で迎えた翌日。くるみと顔を合わせるのは、どうしたらいいか分からなかった。昨日は勢いで強く抱擁して豪語することもできたが、一夜明けるとどうもすわりが悪い。
「……おはよう」
「おはよう。大丈夫か?」
くるみの目元は微かに赤くなっている。その変化は心臓に悪い。泣いた後だと分かっていても、錯覚を引き起こしそうになる自分の目が恨めしかった。
「ごめんね。心配かけて。クマ、できてる」
「これはちょっと、あれだよ。くるみとの抱擁が忘れられなくて」
空惚けたって、バレるときはバレる。くるみには届いていただろう。しかし、くるみは俺の態度に乗ってくれたのか。
「ばか」
とふざけた調子に苦言を呈して、俺の二の腕辺りをぐりっと殴る。そうはいっても力は入ってなくて、痛くも痒くもなかった。むず痒いだけだ。
「悪かったな。くるみこそ、顔色が悪いよ」
頬に触れると、くるみはへにょりと眉を下げる。
「調子、よくないかもしれない」
「動ける?」
「今日はほとんど移動だけでしょ? 動ける時間も大人しくしていればいいし、大丈夫だと思う」
「何かあったらすぐに言ってくれ」
どうしたらいいのか。俺は対応策を知っているわけじゃない。けれど、その身を支えることくらいはできる。
抱き上げるくらい楽勝だ。あのときよりも重くなっているかもしれないけれど。もしものときに譲るつもりはない。俺はあれからいくらか身体を鍛えてある。不安定な身体のまま、くるみを支えられるわけもないのだから当然の帰結だった。
「和君は頼りになるから心配してないよ」
へらっと笑われる。そのいつもの調子は、昨日を思い出すとどこか薄っぺらかった。だからって、俺がネガティブになるわけにもいかない。なるつもりもなかった。
「任せてくれ」
楽観視はしていなかったはずだ。くるみの彼氏役をやるようになってから、いつだってその備えだけはしていた。お化け屋敷で倒れたときからは、余計に。
だから、安請け合いだなんてことはなかった。けれど、イレギュラーというのは……絶望的な状況と言うのは、いつも通りを心がけるそのときにこそ陰を強くして正体を明かす。
どれだけ一緒にいようとしても、集団行動になると列から離れるには限度があった。移動中の俺とくるみは少し離れている。後ろから様子を見られるので、今日までに不都合はなかった。
今もまた、俺は後ろからくるみの様子を窺いながら、ぞろぞろと周囲に足並みを合わせて移動していた。
そのときの激しい高音と、倒れゆくくるみの身体は、一生忘れることはない。
「くるみ!」
他の誰がざわつくよりも先に、大声が出て列から飛び出していた。
がしゃんと頽れる音が響く。倒れ込んだくるみの足首は、捻っているんじゃない。タイツの下。明確には見えない。けれど、その足首は亀裂が入って、赤い煌めきが輝いていた。
ひゅっと息を飲み込んだのは、群衆の誰だっただろう。慄くような態度にブチ切れそうになる感情があったが、そんなものには構わなかった。
座り込んでいるくるみの横に膝をついて、背に手を這わせる。
「くるみ」
こちらを見たくるみの顔は真っ青だった。はっはっと飛び出す呼吸が乱れている。
「くるみ。落ち着いて。大丈夫だから」
何がだ。何ひとつ。いつになく嘘くさい方便で、けれど、他にいいようもなく背を撫でる。声は面目なく、震えていた。
腹筋辺りのシャツを握り締められる。しかし、その力が抜けたのはすぐのことだ。ふっと自分の腕の中に倒れ込んでくる目は閉じられている。
ごちんと派手に触れ合った硬質な音を最後に、俺にはことごとく物音が聞こえなくなった。
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