第24話

「二人だけの旅行なら、もっと気楽だったのかもな」


 そんなことは、叶わないだろう。高校生のカップルが泊まりで旅行なんて、ただでさえ越えるべきハードルがいくつもある。そのうえ、くるみは病気なのだ。門限を考えてみたって、くるみの両親が許すとは思えない。

 お母さんは俺に、冷たい態度ではなかった。とはいえ、それとこれは別物だろう。許可が取れるわけもなかった。

 だが、一夜の戯れくらいは許されてもいい。


「和君と? ……ふふっ、楽しそうだね。どこか行きたいところある?」

「そうだなぁ……軽井沢でゆっくりするくらいがいいかもな」

「北海道とか沖縄とか、いかにも旅行ってところは興味ない?」

「面白そうだとは思うよ。でも、くるみと行くならのんびりできるところがいいよ」


 それは遊び回れないから、ということが地軸ではない。多少はあるが、それよりも、長閑な時間を過ごしたいという感情のほうが上回っていた。


「どこでだって、和君とならゆっくり癒やされると思うけどなぁ」

「そうか? くるみは? やっぱり遠出したいか?」

「うーん。水族館とかそういういかにもなところにも行きたいかも」

「それだけなら、旅行じゃなくて日帰りのデートでも行けるだろ?」

「一緒に行ってくれる?」


 胸板に寄り添った顔が、窺うように持ち上げられる。上目遣い。

 当人はまったく気にしていないのだろう。身長差を考えれば自然に生まれるもので、回避のしようのないものだった。けれど、こうして寄り添われて上目に見つめられれば、心臓が動くものだ。


「もちろん」


 他の答えなどあるはずもない。首肯すると、くるみは笑みを零す。それから、緩く目を伏せた。


「行けるかな?」


 ぼそりと呟かれたそれが、一夜の戯れから現実に戻ってきたことを知らされる。これは決して、戯れ言ではない。抱いていた肩に、少し力が入った。


「行けるよ」


 戯れ言ではない。だからと言って、希望を言ってはいけないわけでもない。断言するのは空々しいだろう。それくらい、分かっていた。

 触れている肩だって、もう硬くなっている。俺の手に力がこもったことだって、くるみには届いていないだろう。ただ、僅かに近付いた距離で、予測を立てているだけのはずだ。

 くるみはすっかり俯いてしまっている。沈黙に心がざわついた。傷付けたくはない。でも、だからって希望を消したくはなかった。どれだけ絶望的でも、最期が決まっていても、足掻いたっていいではないか。

 そうは言っても、傷付けたかもと思うと、切迫感は加速する。どうすべきか。もう何度だって過ったことが、脳に張り付いていた。

 窓越しに生徒たちのざわめきが聞こえている。森閑としているとは言い難い。それでも、切り取られた空間は、真空のようだった。

 それから、しばらく。出し抜けにくるみが声を出した。


「ねぇ、和君」


 尋ねる声かけだったが、顔が持ち上がってくることはない。そのうえ、俺が返事をするよりも先に、くるみは続けて口を開いた。


「私が宝石になったら、ガラス玉みたいにもらってくれる?」


 調子外れに震えた囁き声が、鼓膜に残る。

 一度、二度。脳内でリフレインする言葉を噛み砕いた。衝撃が強過ぎて、何度噛み砕いても、欠片が脳の歯車に嵌まり込んで回転を邪魔する。

 はくりと開いた口からは、何も言葉が出てこなかった。何も考えられない。一方で、様々な感情が湧き起こってくる。

 宝石になることを……死ぬことを平然と投げないでくれ。ガラス玉よりも大切にするに決まっている。亡骸を他人の俺が受け取れるわけがない。

 もらえるなら、と、辿り着いたひとつに、心臓が干上がった。それは、許されるのだろうか。

 たとえば、いくら故人の遺言などであったとして、ご両親は納得するのか。とても、そうは思えない。遺骨を欲しいと言うようなものだ。それが異常なことは明らかだった。それを伝えてくるくるみの心情が読めない。

 根っから静止してしまった俺に、くるみの顔が持ち上がってきた。へらりと笑う口元が、歪んで震えている。


「ごめん」


 ぐらりと眩暈がした。


「違う。嫌だなんて思ってない」


 やはり、行き当たりばったりだ。

 俺はいつだって不足で、くるみをたくさん不安にさせている。支えていたいという覚悟は、どうしてこうも形にならないのか。否定をしたところで、くるみの表情が晴れることはなかった。


「ただ、それは、俺一人で決められることじゃ、ないだろ……」


 苦しい。言い訳にもなっていない。本心では、その一部を手に入れられたらどんなにいいだろうと思っている。

 赤い。煌びやかなガーネット。石榴石。きらりと光るその鮮烈さは瞼に焼きついていた。それは、くるみの白い肌が目を焼くのと同じだ。

 それをもらって欲しいと言われる。くるみ自身をだ。それがどれだけ絶大な信頼なのか。甘えなのか。考えれば考えるほど脳が痺れて、重大なことに動揺が収まらなかった。

 優越感。満足感。不足感。感情が下手くそな水彩絵の具のように滲んでめちゃくちゃな色になっていた。


「……そうだよね。変なこと言って、ごめんね」

「変だなんて、思ってないよ」


 そうは思っていない。けれど、動揺せずにはいられなかった。どうしたって、衝撃度が桁外れだ。


「驚いた、だけだ」


 それ以上に、言いようがなかった。

 甘えてくれるのはいい。受け皿は持っていたつもりだった。しかし、その甘さを思い知らされる。不甲斐なさが忌ま忌ましい。

 くるみは、「そうだよね」と相槌を打ったっきり、黙り込んでしまった。これ以上、どうすればいいのか。進歩のない思考に、自分を殴り飛ばしたくなった。

 俺はふぅーっと長く息を吐き出す。くるみの身体が強ばった。


「ちゃんと、考えておく」


 はっとした顔が俺を見上げてくる。真ん丸に見開かれた目玉は、零れ落ちそうだった。

 自分の提案が非常識な自覚はあったのだろう。くるみはそこまでネジが飛んでいるわけじゃない。俺が了承しないと思っていたのだろう。

 その一驚に塗れた頬に手を添えて、額を合わせた。近い。自分がこの距離へ能動的に近づけるようになるとは思いもしていなかった。

 彼氏役。

 そんなことはごっそり抜けていた。本当はいつだって、土壇場では抜けていた。ただただ、剥き身でくるみに向き合っていただけだ。今までだって、今だって、これからだって変わらない。


「……ほんとう?」


 角砂糖のようにほろほろと溶けそうな声が囁いた。こうして他者から隔離されて近付いていなければ、聞き取れなかっただろう。儚くて砕けてしまいそうで、身体に触れ続けずにはいられなかった。


「こんなこと、冗談で言えないよ」

「そう、だよね」


 それくらいは常識的に分かっているようだが、俺の行動への理解が追いついていのないのだろう。相槌はぎこちなく、未だに驚愕から抜け出せていなかった。

 口を半開きにして呆けている。きょろりと動く瞳が怖々と俺を見ては、またあちこちを彷徨った。俺よりもずっと、くるみのほうが迷っているようだ。そのうちに唇は閉じられたが、落ち着きのないさまは変わりがない。

 俺は額を押し当てたまま、間近で見つめていた。くるみが落ち着かない原因の一端に、俺の行動も関係しているかもしれない。

 頬に触れた指先が撫でるように動いていた。それに反応して、くるみの目がしかとこちらを見る。至近距離。見つめ合い。

 本当のカップルなら、ここでキスでもするのかもしれない。

 いつかも思ったことだ。けれど、その一歩を踏み出していいものか。その疑念が足を縫い止めるのはあのときと同じだった。

 抱くやらなんやらと会話している。スキンシップもかなり日常になり、こうしていることにも違和感はない。だからって、無確認の一歩を踏み出す蛮勇はなかった。

 くるみが黙っているものだから、そのままだ。何を考えているのだろうか。まだ、迷っているのか。

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