第21話

「そんなわけないじゃん!」

「だったら、俺だってそんなわけないって分かるだろ」

「でも、だって! 私、もう」


 そこで言葉が喉に張り付いたかのように息を止めた。胸元に拳を押し当てる。

 ……その下は、もう、宝石化しているのだ。くるみの身体は確実に宝石化している。いくらでも寄り添っている身体の変化には気がついていた。

 季節柄、長袖でいるものだから、腕の浸食具合は目に見えない。スカート丈はさほど変わっていないが、黒タイツが装備されるようになった。季節に合わせたと言い切ればそれまで。周囲には自然な衣替えにしか見えていないだろう。

 けれども、俺は知っている。その身体が、もう、と言い詰まるほどに病気に冒されていることに。

 歩調が緩くなった。食事の量が減った。眼鏡をしていても、眉を寄せていることがある。時々。本当に時々、俺の呟きを聞き逃す。だから、耳元で告げることが増えた。

 くるみだって、俺が気がついていることに気がついていたのだろう。それでも、対話することなくカップルをやっていた。

 もしかすると、くるみはずっとその進行に心を疲弊させ続けていたのかもしれない。それが今、噴出している。予防線を引きたくなるほどに。


「くるみ」


 手を引いて横道へ逸れる。

 それから、その身を抱き寄せた。人目を憚ることだと分かってはいる。けれども、これが一番分かりやすい。くるみは身動ぎをして、逃げ出そうとする。このタイミングで身体に触れる意図は察せたらしい。


「分かってるよ」

「重いよ」


 くるみは舌が絡まったような拙い音を奏でる。口回りも鈍くなっているのかもしれない。それとも、動揺しているだけだろうか。こんな不測の事態に判別できることではなかった。


「重くてもいいよ」

「離して」

「嫌だ。そばにいるって言っただろ。今更、もう遅い。もう、いいよ。もう、全部言え。甘えろ」


 自分から命令が飛び出るとは、我が事ながら驚く。

 くるみは唇をへの字に曲げて、沈黙を守った。そりゃ、乱暴な言い分で、あっさり落ちてくれるわけもない。

 どうすればいいだろう。この硬くなりかけている身体を守りたいという本音は、どうすれば通じるのか。彼氏役という役目を全うしてきたがゆえに、妙なフィルターがかかっている。

 俺にしてみれば、すべてが本音でしかない。いや、そう振る舞おうと気負っていたことはある。けれど、結局のところ、俺は勢いに任せてやれることを流されるままにやってきた。どれを取っても、自分の行動でしかない。

 それにしては豪気なことをやれていたが、それは彼氏役を免罪符にできていたからだ。理由にはなっているかもしれないが、そのためだけに身を振るったつもりはなかった。だが、それが純度百パーセントでくるみに通じるかどうかは別だ。

 どうすればいいんだろうか。どうすれば、と俯いてしまった頭頂部を見下ろす。


「くる」

「和君」


 沈黙を破ろうとした俺とくるみの声がかち合った。いや、くるみが先んじようとしたのかもしれない。俺は黙って続きを待った。くるみの瞳がそろそろとこちらを窺ってくる。


「……自信がない」

「何が」

「和君に当たったり、そういうことをしない自信がないの。嫌だ。私、和君に嫌われたくない」


 知られたくないだとか。見られたくないだとか。自分のことに主眼を置いていたならば、俺はもっと冷静に聞いていられたのかもしれない。けれど、泣きそうな顔で言われた俺への感情論には、頭をぶん殴られた。


「嫌だよ、嫌。綺麗だって言ってくれたのに、汚いとこ見られたくない。嫌だ」


 じたじたと腕を動かす。それを抑え込んで抱き込むのは力関係から簡単だ。そのうえ、くるみの動きは鈍く、逃げると言うよりは地団駄でしかなかった。きっともう、力で押し切る腕力も残っていない。


「俺だって」


 図らずも落ちた声に、くるみの動きが止まった。やっぱり、俺は勢いで動き出す。それでも、口にした瞬間に言葉が形になってくれるのだから、申し分はなかった。


「俺だって、君に幻滅されたくない。君を煩わしく思うときがくるんじゃないかと思うと、怖い」


 くるみは涙目でこちらを見上げてくる。それこそ、俺だって、泣きたくなった。どうすれば、この顔を緩ませてあげられるのだろう。俺はくるみに笑っていて欲しい。


「……それでも、俺は、君を」


 支えたい。違う。そうじゃない。いや、それもある。けれど、そうじゃないのだ。そんな難しいことじゃない。もっとずっと素朴な話だ。


「君と、一緒にいたい」


 瞠目したくるみの瞳からぽろりと滴が一粒落ちた。それを契機にしたように、ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。頬に触れて、跡を拭った。後から後から落涙してくるけれど、気にせずに拭い続けた。


「くるみはどう思ってる? 全部、聞かせてくれよ。大丈夫だから。俺だって、君に触れることを許してもらって甘えているんだから、君だって甘えていい」

「……い、た…」

「くるみ?」


 ひくひくと嗚咽混じりの声は上手く聞き取れない。

 首を傾げて顔を近付けると、首筋に抱きつかれる。くるみの踵が持ち上がっていて、俺は少し膝を曲げていた。不格好な姿勢に構っていられない。くるみの背に手を回して、身体を支えた。


「私も、一緒にいたい……独りにしないで。嫌いにならないで……分かんない。和君、私、どうしたらいい? 一緒にいても、いいの? 約束、したけど、私!」


 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、まとまりのない言葉が落ちて、最後には縋るように語尾が止まってしまった。


「約束は守るものだろ? 一緒にいてくれないと困るよ」

「……うん」


 喉を鳴らすような、唸り声のように潰れた肯定だった。

 それだけで、すべてを飲み込めたとは思えない。まだ、とりとめのない感情と思考のバランスは危うく、たわいなく崩れるときがくるだろう。

 これから先、状況は悪くなる一方なのだ。精神だけが安定していくなんてのは絵空事だろう。だから、この言葉がずっと彼女を支えられるとは考えていない。けれど、今はくるみが落ち着いてくれるのが一番だった。俺はこの先も、悪戦苦闘しながら、くるみに気持ちを伝えていくしかないのだろう。

 元から難しいことも、重いことも分かっていた。その腹を、くるみの背を撫でながら改めて据える。

 くるみの涙が収まるまで、俺たちは妙な姿勢のままに小さく固まっていた。そのまま時間は無作為に過ぎ去り、お寺に行くことは叶わなくなる。

 けれども、俺はそれで構わなかった。神頼みなんて、どうにもならないことは分かっている。くるみの身体が硬くなっていくことに不安が膨れ、頼りたくなっていただけに過ぎなかった。

 そんな奇跡は起こりはしない。分かっていたことだ。仮に奇跡が起きるとしたら、それは医療従事者によって引き起こされたものであって、人智を超えたものではなかった。そして、そんな夢物語が都合良く手に入ったりはしない。

 そうだ。神様になんか、くるみを任せてやらない。俺がどこまで支える。この先、何があっても、もがきたい。

 そもそも、お参りとは宣言をするものらしいから、そうした心積もりを持ててよかったのだ。予期した形ではないけれど。腹を据えることも願うことも変わりはない。

 どうか。くるみとの約束が履行できますように。

 それだけのことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る