第19話

「そ、そういえば」


 この居たたまれないこっぱずかしい空気をどうにかしたかったのだろう。逸らそうとしたくるみの声は上擦っていた。それを誤魔化すみたいに咳払いを挟む。微笑ましさに、ほんの少し冷静になってきた。


「泊まりって言えば、もうすぐ修学旅行だね」


 下手くそな話題提供だ。でも、これに乗らない手はない。俺だって、行為について話す空気に浸っていたいとは思わなかった。何より、衆人環視は勘弁だ。


「京都初めてだから楽しみだ。くるみは……行けるのか?」


 ここで泰然とした質問が出てくることに自分でも驚く。けれど、くるみの身体を慮ることは交流が始まってからひとつもブレずに変わらないことだ。


「行きたいと思ってるよ。自由時間がいっぱいあるでしょ? だから、ゆっくり自分のペースで楽しもうって思ってる」

「一人で動くつもりか?」


 眉根を寄せると、くるみは眉を下げて笑う。


「だって、他の人たちを付き合わせるわけにはいかないでしょ? きっと何度も休憩しなくちゃ……今日みたいに、お店でじっとしたりする時間も多くなるだろうし、観光には向かないよ」

「他の誰かはそうだろうけど、彼氏は?」


 一緒に行動するなんて話してもいない。修学旅行の話をしたのも初めてだ。けれど、そうするつもりになっていた。一緒だと言ったのだから、当然だろうと。俺が尋ねると、くるみは困ったようにこちらを見上げてきた。


「あのね、こういうデートとかは付き合わせたとしても、和君はまた経験することはあるでしょ? でも、高校の修学旅行は一回きりなんだよ? 付き合わせるのは悪いなぁと思うよ。いくら私だって」

「せっかく一度きりの修学旅行なんだから、彼女と思い出を作りたいって思うのは不思議じゃないと思うけど」

「そりゃ、私だって彼氏と旅行には行ってみたいけどね」


 淡々と頷かれる。だったら、何を躊躇することがあるのか。渋い表情を緩めることはできない。

 どうして、ここに来て今までの約束から逸脱した意見になるのか。釈然としない。俺が渋いままなことに並行して、くるみも困り顔を崩さなかった。


「でも、和君は役として付き合ってくれてるだけだもん」


 かちんときたのは、そんなものは今更だったからだろうか。それとも、自分の好意を一概に役として取りまとめられたことだろうか。行為をしたって構わないと思うほどの感情を、偽物と割り切って線引きされたからだろうか。

 とにもかくにも、腹の底が熱くなった。


「あのさ」


 怒ることじゃない。くるみは事実しか言っていない。ここで怒るなんてのは、的外れだ。抑えた声のつもりだったが、くるみの目に怯えが走る。深呼吸して、気持ちを抜いた。


「……俺は君を抱けるって言ってるんだよ」


 自分の馬鹿さ加減は重々承知だ。けれど、俺の感情を詳らかにするのに、欲望は誤魔化しの効かない真実だった。

 くるみの頬に引き始めていた熱が戻る。こちらだって、きっと同じような顔をしているだろう。それでも、口にした以上引くつもりはなかった。赤くなっている頬に手のひらを伸ばす。しっとりとしたもち肌が、手に吸い付くようだった。


「役だとしても、俺は自分の意思で君に触れているし、君を思っている」


 意味深過ぎて、告白紛い。俯瞰した思考は手放した。


「だから、君に付き合うことを俺だって楽しんでいる。自由時間でデートするのだって、困ったことはひとつだってない。嫌な言い回しをするぞ?」


 前置きをすれば許されるものじゃない。それでも、嫌味な言い方をしたほうが真実を浮き立たせることもある。


「高校行事だけに限らず、初めては一度きりしかない。そんな大切な経験を、面倒なものを抱えている人間に付き合って消費する必要は本来ないだろ」


 病気のことを直接、口にしない。ただ、事情を匂わせれば、くるみは的確に意図を察してくれた。傷付かれても仕方がない。それは覚悟の上だ。

 くるみは、ほうと息を吐き出す。やはり、この言いざまはひど過ぎたなと自嘲した。自己発信のくせに、とアホくささに辟易する。

 くるみは横から抱きついてきた。今までの寄り添いとは違う。力強くしがみつかれていた。身体の側面辺りに、柔らかい塊が形を変えている。回っている腕の一部に硬い感触もあった。触覚が鋭敏にくるみのすべてを知覚する。


「和君」


 ぎゅうぎゅう抱きついてくるばかりなので、顔が押し付けられていて表情が見えない。鼻を啜るような音が混ざっている。もしや泣いているのでは、と気がついたときにはその背を撫でていた。


「私、どうしたら、和君に報いられる?」

「じゃあ、修学旅行の自由時間。俺と一緒に巡ってくれよ」

「ありがとう。和君、本当にありがとう。全部嬉しい」

「全部?」

「うん、全部」


 何も具体的に示していない。それでも、そこに含んでいるものの意味深さはあまりある。胸がいっぱいになって、抱擁を返した。

 くるみがようやくこちらを見上げてくる。パレードが始まるという放送がかかり、音楽が遠くから聞こえてきていた。

 それが物理的に遠かったのか。くるみ以外が見えていなかったのかは定かではない。


「くるみ」

「和君」


 本当の恋人だったなら、キスでもしたのだろう。

 だが、俺たちはどれだけ言っても約束で結ばれた役でしかなかった。そこから抜け出してしまえばいいのかもしれない。けれど、くるみがそれを望んでいるのかは分からなくて踏み出せなかった。この関係の主導権はくるみが握っている。

 それは言い訳でしかないだろう。けれど、どうしたって俺はくるみを優先することを放り投げられそうにもなかった。踏み出せないのならば、せめて。

 ぎゅっと抱きしめて、くるみの頭に顔を埋める。くるみもそれ以上は何も言わず、俺の抱擁に答えるばかりだった。

 それから、やってきたパレードに導かれるように身を離して、その日の目的へと身を投じる。薄暗い中でパレードの電飾に浮かび上がったくるみの横顔は、いつもよりもずっと綺麗だった。




 修学旅行の自由時間の約束は履行されたうえに、班も同じになっている。

 とはいえ、班は建前で、形骸化していた。それぞれ、好きな友だちと行動している。教師たちも、集合に問題がない分にはお目こぼしをしてくれていた。例年のことらしい。

 そんなわけで、俺とくるみは、それこそずっと一緒状態だった。新幹線でも隣だったし、宿までのバス移動も隣だ。そんな状態で、カップルを確定させられないわけもない。近藤を筆頭に、散々茶化された。

 だが、修学旅行中だ。他に意識を取られるところなんて、いくらだってある。バス移動の途中くらいには、もうすっかり放置されていた。バカップルを相手にしていられないと思ったのかもしれないが。何にせよ、放っておいてくれるのはありがたい。

 俺とくるみは目を合わせて苦笑する。


「いいの?」


 主語も述語もない問いかけでも、周知されていいのか、と問われていることは分かった。俺は肩を竦めて笑う。


「元から秘密にしてもないだろ。遊園地であれだけ抱き合っておいて今更」

「あれは、あれじゃん」


 くるみが唇を尖らせて、頬を染めた。

 あの日のことは、時々掘り返しては、お互いにダメージを食らっている。そうして尾を引くほど、こっぱずかしいやり取りだ。だが、時を越してまで取り上げようとするほどには、お互いに意識に刻み込まれていた。

 そのうえ、わざわざ口にして確認作業をするのだから、思うところがあるのは間違いない。だから、俺はまぁ気に入っていた。

 そして、くるみはやられているだけでは気に食わないのか。すっと身を寄せてきた。あの日と同じくらいに近い。見下ろすのと同じタイミングで、胸板に手を突かれて耳元へ口を寄せられた。


「お泊まりだね」

「ぐ、わ、きみ……っ」


 勢い込んで口を開いたものだから、唾が気管に詰まる。ごほごほと咳き込んで、言葉は続かない。耳が熱かった。くるみが背を撫でてくれるが、そう簡単に収まらない。


「大丈夫? 和君」

「ごほっ……、君のせいだろ」


 まだ少しいがらっぽかった。睨むように伝えると、くるみは照れたようにはにかんだ。ぐぅと喉が鳴る。

 彼女への色眼鏡にしても贔屓にしても、俺はくるみには敵わない。睨んだところで上手く躱されてしまったら、俺になす術はなかった。

 お泊まり、と吹き込まれた単語がごろごろと耳殻の中で転がっているようだ。顔を覆って大息を吐く。くるみは背を撫でるのをやめて、こちらに身を預けてきた。


「ごめんね?」


 言いながら、擦り寄ってくる。それははたして謝罪なのか。媚びているのか。……くるみに意図した後者はないだろう。多分。だからこそ、たちが悪いのだ。

 そばにある頭に頬を擦り寄せて、それから耳元へ顔を近付ける。寄り添ってくる腰に手を回した。やられたらやり返す。それくらいには、距離は縮まっていた。羞恥との折り合いもついてきている。迷いはない。


「そんなに煽って、俺にどうされたいの?」


 低く掠れた発声は、口にして初めて気がつく本音混じりだった。腰に回した手をするりと撫でるように下ろして、太腿の付け根に手を置く。


「ひゃっ」


 震えたくるみの口からか細く漏れた甘ったるい声に、背骨が溶けそうになった。

 声はすぐにくるみの手のひらに飲み込まれる。かぁっと赤面した顔は、手のひらに隠れていてもよく見えた。首筋まで赤くなっている。目元も真っ赤で、瞳が潤んでいた。

 その目が責めるように睨みつけてくる。恐ろしいよりも、嗜虐的な側面がぞわぞわと撫で回されているようだった。くるみは口を押さえておく必要がないとすぐに気がついたのか。自由になった手のひらで、ぽかりと胸板を殴ってくる。

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