第17話

 くるみが僅かに残してくれた気遣いを逃がさないように、こちらも地面を蹴り出した。しかし、二・三歩行ったところで、ぐんと腕が重くなる。

 はっとするより先に、きんと硬質な音が耳を劈いた。それと同時に、くるみがどしゃりとその場に頽れる。


「くるみ!!」


 今日一の悲鳴が零れて、視線を合わせるように膝をつく。勢いがつき過ぎてひどくぶつけた気がしたが、痛覚が鈍っていた。


「大丈夫か?!」


 血相変えた俺の形相が異常だったからだろう。幽霊たちが近寄ってくることはなかった。くるみは呆気に取られている。


「くるみ」


 衝撃を与えるのも怖い。そっと肩に触れた。


「……ビックリした」


 ぽつねんと零した言葉は空中に留まっている。衝撃から抜け出せていない。立ち上がろうという素振りさえないことに、足元がどうなっているのか不安で仕方がなくなる。

 スカートの丈に隠れる部分しか宝石化していない。もし、そこに破壊などが起こっているとすると、そこから下が繋がっていない可能性すらある。嫌な想像が巡って、血の気が引いた。


「大丈夫なのか? 立てるか?」


 声をかけるとくるみの視線がおずおずと自分の足元へと落ちる。ぺたりとM字に足を折り畳んだような形の座り方の足元は、スカートに阻まれて見えない。その太腿付近に手が置かれた。


「多分」

「……剥がれたりはしてないか?」


 声を潜めたのは、幽霊役がいるからだ。くるみは心底窮迫したように眉を下げて、身を固くした。


「目視しないと……分かんない。粉みたいなときもあるの」


 だからって、ここで目視できるわけもない。

 くるみの顔色が見る間に悪くなっている。衝撃から復活して、思考が追いついてきたのかもしれない。現状のまずさに気がついたようだ。

 俺だって、どう対処すればいいのか分からない。ちゃんと確認しておくべきだった。一緒にいると言ったのだから、調整しておくべきだったのだ。


「大丈夫ですか?」


 自省のうちに、声をかけられてびくついた。

 振り返ると、スタッフさんがこちらを見下ろしている。それもそうだ。お化け屋敷の中で腰を抜かしているのだから、こうして声をかけられるのも必然だっただろう。


「すみません。驚いてしまって」


 くるみは反応できていた。しかし、立ち上がることはできないようだ。人がいるとなると、それは余計にだろう。

 手早く対処すべきだった。手を差し出すのならば早急に。学べたことはいいことだが、今でなくてよかったというのが正直なところだ。予習すべきことだった。


「立ち上がれそうですか? スタッフルームにご案内致しますが」


 話しかけてくれた男性スタッフさんの後ろにもう一人、待機している。それはつまり、くるみを支えるなり何なりして、移動させるということだろう。動けないのならば、自分たちが、と。

 それを感じ取ったのだろうくるみの指が俺のシャツを握ってくる。


「俺が運びます」


 進言したことに誰より驚いているのは、くるみだった。

 スタッフさんたちは、むしろ自然に受け入れている。男女二人。心配して絶叫したり、触れ合うことに躊躇がなかったり。恐らくカップルだと誤認されているだろう。彼氏として、他の男に触れさせたくない。そういう心理は納得されるものなのかもしれない。


「くるみ、スカートを押さえて」


 一方的に言いつけて、背中に手を添える。強硬手段に出た俺に、くるみは流されてくれた。返答こそ素早くできていたが、スタッフの登場に動揺していたのかもしれない。

 それにしては、スカートと言いつけた俺が、何を心配したかを悟る力は残っていたようだ。くるみは太腿を守るかのようにスカートを押さえた。その膝裏に手を差し挟む。

 その段になって、くるみはようやく俺の運び方に気がついたらしい。太腿を隠したまま、他に運ぶ方法はないだろうに。それでないにしても、女性を運ぶのに他の手段もそうない。正面から運ぶとすれば、抱き上げるのが一番だ。

 お姫様抱っこ。

 そんなものをしたのは初めてだった。一番だと理解していたし、それが正しいと信じている。それでも、実際に抱き上げると心臓が痛いくらいドキドキした。

 くるみは、ぱくぱくと唇を開けたり閉めたりしている。何か言いたいことがあるのだろうけれど、今言ったところでどうしようもない。そうした葛藤だろう。俺はくるみを抱えて、スタッフさんの案内に従ってスタッフルームに移動した。


「しばらく休憩してくださって大丈夫ですよ。問題がなければ隣の部屋にスタッフがいますので、一言だけもらえれば帰ってもらって構いません。急な悪化の際にも同じく声をかけてください。お大事になさってください」

「ありがとうございます」


 ぺこりと頭を下げて、スタッフさんが移動してくれたところで、くるみを椅子へと下ろす。もしものことを考えれば、ひとけのある中でくるみを手放すわけにはいかなかった。


「大丈夫か?」


 膝をついて、くるみに目を合わせる。どんな小さな強がりだろうと何だろうと、見逃すつもりはなかった。

 くるみは押さえていたスカートをそっと離す。スカートの中で、異変はなかったようだ。床に宝石めいたものが落ちてくることもない。くるみがほっと息を吐く。それに釣られるように、俺も吐息が零れた。最悪の事態は免れたようだ。


「ごめんね」

「謝ることはひとつもないだろ。不調になることは、誰にだってある」


 宝石結晶病だけが倒れる原因じゃない。急な貧血になることだってあるだろうし、恐怖に戦いて腰が抜けることだってありえる。他の病気だって、突発的に症状が表面化することがあるのだ。そして、それを責める道理なんてどこにもない。


「……和君は、大丈夫?」

「何が?」


 謝罪の理屈については納得したのか。切り返されて、ぽかんとしてしまった。俺が心配されるようなことがどこにあるのか。


「膝、すごく打ち付けてなかった? 痛くなかったの? 平気? 私、重くなかった? どこも怪我してない?」


 矢継ぎ早に繰り出されて、ゆっくりと事態を振り返ることができた。そういえば、かなり勢い任せに滑り込んだ。俺は膝を見下ろした。パンツの下の調子を確認はできなかったが、黒の生地が白く汚れている。


「痛い?」


 俺が膝を眺めているからか。くるみが不安そうに俺を覗き込んでくる。腕の辺りを掴まれていた。

 心配するにしても異常なような気がして、やはり謝罪に納得していないのではないかと思う。いや、何にしても倒れたことに後ろめたさを覚えるのは一緒か。俺だって、早々には割り切れないだろう。


「平気だよ。もしかしたら痣になってるかもしれないけど……あと、くるみは重くないから、心配するな。軽いくらいだよ」

「……全部が宝石になっちゃったら、人型を保っていれなくて砕けるから、全体の重さは分からなくなるんだって。でも、宝石部分は重くなるって聞いたよ。硬質でぎっしりと石が詰まっているんだもん。軽いなんてことはないよ」


 現実的に反論されて、口を噤むしかなかった。

 実際、重さはそこまでではない。けれど、その重さとは単純な体重のことではないのだろう。くるみの中では。

 言うことは言ったとばかりに黙ってしまったくるみは、無意識だろうか。俺の腕を掴む握力が強くなっている。その手に触れると、はっとしたように力が抜けた。そのまま離れようとする手のひらを掴まえて、握り締める。

 真っ直ぐに見つめると、くるみは小さく目を伏せた。黙らせるために使った論法は、間が悪いのかもしれない。


「……軽くなくったって、くるみが困ってるなら俺は何度だって君を抱き上げるよ」


 いくら真実であったとしたって、引く気はなかった。きっぱり告げると、くるみの頬に朱色が刷けていく。

 反応を見てから、じわじわと羞恥心が追いついてきた。やはり、勢い任せはよろしくない。後悔はないけれど、恥ずかしくなってしまう。

 けれど、これももう何度目になるか分からない挙動だった。後手ばかりに回っていられない。


「だから、予防線は張らなくていいよ。ずっと一緒にいるんだ。くるみを助ける。俺は初めにそう言ったはずだ」


 だから、こうして偽の交際をしている。……彼氏にしては、宝石結晶病への対処法が杜撰かもしれないけれど。


「ごめん」

「くるみ」

「変に気難しい言い方をしてごめん」


 名を呼んだだけだが、それでも俺の不快感は通じたらしい。まだまだ生半可だ。それでも、通じるものも増えてきた。


「うん。いいよ。今日はもう、帰ろうか?」

「……でも、せっかくのデートだよ?」

「本当に大丈夫なのか? アトラクションは怖くて乗せられないよ」

「それは自重するよ。私も怖いもん。けど、パレードは見たい……ダメかな?」

「くるみはズルいよなぁ」


 質問を寄越すときは、目を合わせて首を傾げてくる。異質な仕草ではない。けれど、それが十二分に威力があるのだ。

 くるみはズルいなどと言われる謂れがないとばかりに、眉を顰めながら首を傾げてくる。無言には疑問と不平が含められていた。


「彼女にそんなふうに言われたら、断れるわけじゃないだろ? もう少しここで休んでから……レストランかどこかで時間を潰して、それからパレードのために場所取りしようか」


 主にのんびりと座っているプランだ。それ以外の行動を許す気にはなれない。硬質な物音と頽れたくるみの姿が記憶に焼きついていた。心臓に悪過ぎる。

 過保護に囲っていればいいと思っているわけじゃない。けれど、今日はもう。その感情が強かった。

 くるみもそんな俺の心情を察しているのか。本人も不安なのか。俺の意見に応じてくれた。

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