第15話
「するに決まってるだろ」
「そうなんだ」
「……綺麗だって伝えたと思うんだけど」
こっぱずかしいし、この意見はいるのか。疑問が浮かんでは消えて、言った後にもう一度浮かんでは、取り返しのつかなさに苦くなる。当然、覆水は盆には返らない。
くるみはぱちぱちと瞬きを繰り返した。唖然とも取れる態度に、眉を顰める。何がそんなに驚くことがあるのか。忘れているわけでもあるまい。俺たちがこうなるきっかけの話だ。何の齟齬があるというのか。
「宝石がでしょ?」
つるっと言われて、今度は俺が目を瞬いた。
そんなことがあるか? と振り返る。確かに、正面切ってくるみを褒めたわけでもない。だが、それは一体ではないのか。俺は分離させたつもりはなかった。
そう思うと、意外な心地がする。色々と考え込んでいた。それでも、俺は無機物になっているくるみを、くるみとして認められている。今のくるみしか知らない。辛くも、そう伝えたことの証左のようだった。
ほんの少し、自分の視点に自信が持てる。
「くるみがだよ」
「っ」
はっと息を吸った顔が、今まで以上に一気に茹だった。爆発するのではないかという赤みは心配になる。
けれど、くるみがこうまで動揺を見せたのは初めてだ。それに手応えを感じている場合なのか。その見極めは間違っているのかもしれないが、どこか満足感が胸に詰まった。
「そうじゃなきゃ、こういうことをしない」
「……それはそれで、問題がある気がする」
「偽装に頷けるのは、綺麗だなって好感度があるからだよ。くるみだって、そうだろ?」
「それは、そうだけど」
俺がかっこよく見えているかどうかはどうでもいい。ただ、アリな存在ではあるのだ。でなければ、どれだけ嬉しい言葉を言われたからって、途端に偽装恋人の提案などしやしないだろう。
「だから、意識はしてる」
「……密室も?」
ぐっと喉が締まる。多少は慣れてきていた。だが、こうして俎上に上げられると、意識していることを認めないわけにはいかない。バツが悪過ぎるが、ここで否定しても悪足掻きだし、バレバレだろう。
「そのわりには、大胆だったと思うんだけど」
「あのときは、くるみのことしか考えてなかった」
答えて、大胆さを打ち消せていないことに気がついて頭を抱えた。坩堝に陥っている。暴露しなければよかった。
「和君が案外大胆だってのがよく分かったよ」
ぐうの音も出ない。項垂れる俺にクスクスと笑いが降ってくる。羞恥心は俺の動乱で霧散したのか。すっかり余裕を取り戻したようだ。
「くるみだって、あーんしようとしたり、寄り添ってきたり、普通に大胆だろ」
苦し紛れは、本当に苦し紛れだ。頭を抱えた状態で見上げると、くるみは一瞬ダメージを食らっていた。しかし、すぐに逃げ道を掴まえたようだ。
「わ、私はいいの。だって、私がやりたいって言い出したんだもん。やりたいことやってるだけだし。和君は違うでしょ」
「開き直ったな」
指摘すると、くるみはそろっと視線を逸らして、もぐもぐとハニトーを口に詰め込み始めた。口がいっぱいなので声が出せませんとばかりに。
俺だって、それ以上追求するつもりはない。ひとつでも打ち返されてしまえば、こっちも怪我をする。そんな危ない橋を渡ろうとは思わない。メロンソーダのストローを口に含んだのは、くるみの対処法とほぼ同一だった。
そうして、時間が空費されていく。尻こそばゆいような、座り心地の悪いような。何とも言えない空気に陥ることも、恋人イベントのひとつだろうか。
くるみが体験したいことじゃないのではないか。そう思うと、嘆かわしかった。だからと言って、改善策が出てくるわけじゃない。お互いに黙々と口を動かして、時間を使ってしまった。
食事をするだけで、その日のカラオケはタイムリミットが来てしまった。申し訳なさに猛反省する。
それを取り戻そうと考えたわけではない。俺は店を出てから、
「送るよ」
と申し出た。
既に、くるみの最寄り駅にいる。気を遣われる理由もない。せめてものことはしたかった。
「いいの?」
「もちろん。手間じゃないしね。道はしっかり教えて。駅まで戻らないと行けないから」
「うん。ありがとう……ねぇ、ちょうどいいついでに、我が儘言ってもいい?」
我が儘を枕にされると気構えする。けれど、断る気もなかった。頷くと、くるみが手のひらをこちらに向けて差し出してくる。
「繋いでいい?」
「いいのか?」
聞き返した俺に、くるみは無言で首を傾げた。
「人目があるところで堂々としてると、普通に誤解されると思うけど」
「気にしないよ」
「じゃあ、行こう」
差し出されていた手を取って、カラオケでしたように恋人繋ぎにする。くるみはそこまで予期していなかったのか。ビックリしたように肩を揺らした。
「やっぱり、大胆じゃん」
「蒸し返すなよ」
「だって、和君むっつり黙っちゃうんだもん」
「くるみが逃げたんだろ? お互い様ってことでいいじゃん、もう」
突き詰めたところで、どうにもならないことだ。無理やり切り上げた俺に、くるみも「そうだね」と笑った。お互いに手腕のなさは自覚している。
俺たちはぽつぽつと毒にも薬にもならない会話を交わしながら、くるみの家まで辿り着いた。一軒家の玄関前に到着すると、ゆっくりと手を離す。名残惜しさが手のひらに残った。
「今日はカラオケに付き合って、送ってくれてありがとう」
「俺こそ、楽しかったよ」
「それはちょっと嘘じゃん」
くすりと笑って、気まずさを共有していたことを取り上げられる。こればかりは笑うしかなかった。
「まぁ……それはそうだけど、それだけが全部じゃないだろ?」
約束を交わしたことは、進展だろう。それを確かめると、くるみはへらりと笑って頷いた。肯定してくれることに憂色が晴れる。
「嬉しいこともあったよ。和君が一緒にいてくれるから寂しくない。生きていけるよ」
「くるみ」
思わず、一度放した腕を掴んでしまった。
生きていける。その重みに、二の句が継げなかった。けれど、何かをしなければ、と心が焦る。結果的に、生煮えで名を呼ぶことしかできなかった。
空気が止まる。すっと吸い込んだ呼吸音が、心臓に突き刺さるようだった。何とか、と思うが、呼吸音が続くだけだ。
くるみも混迷しているのだろう。止まった空気が動き出す気配がない。自分たちだけで処理できないのでは? そんな杞憂が胸を支配しようとしたところで、
「くるみ?」
と滑り込んできた声に身体を竦めて、すぐに手を離した。
カラオケでもそうだったが、咄嗟の判断で離れることだけは一人前にできるのはどうかと思う。
「お母さん」
ひやりと背筋が凍る。その人を見た瞬間から、予想はできていた。しかし、実体を明かされるとビビる。この場合、俺はなんと自己紹介すればいいのか。熟考している時間はなかった。
「あら」
「クラスメイトの灰塚和です」
「送ってくれたの」
「ありがとうね、灰塚君。くるみが我が儘言ったんじゃない?」
我が儘は言ったが、それは送り迎えのことではない。「いえ」と首を左右に振る。
送り迎えに家族との対面を想像していなかったのは俺の落ち度だろうか。あまりにも突然で、まともに話を続けられない。自己紹介にしたって、粗雑もいいところだ。
「もう、お母さん。余計なこと言わないでいいから……和君、それじゃあ、今日はここで」
「あ、ああ」
くるみはこちらを向いて、切り上げるチャンスをくれる。それすらもへどもどしたが、くるみは流してくれた。くるみのお母さんは、見守る姿勢でいてくれるようだ。
「気をつけてね」
「うん。じゃあ、また明日学校で。失礼します」
最後にお母さんに頭を下げたのは、せめてもの体裁だった。それで何かを取り戻せるとは思っちゃいないが、ちょっとは格好もついただろう。
にこりと微笑んでくれたお母さんを横に、くるみが手を振ってくれていた。それに手を返して、その場を後にする。そそくさにならないように気をつけて、様子を見ながら立ち去った。
クラスメイトとしか言わなかったが、彼氏紛いのものだと勘違いされている可能性は大いにある。
でなければ、送り届けるなんてことはない。友だちにしても、特別であることは透けているだろう。そんな距離にいる友人の親と、どう接すればいいのか。サンプルがなさ過ぎて、おどおどしてしまった。
そんな状態であったから、駅までの帰り道を二・三度間違ったのはご愛敬だっただろう。
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