第14話

「くるみ。俺はね、今のくるみしか知らないんだ」

「うん?」


 行動も突然ならば、語りだって突然だ。語尾が上がるのも当然だろう。


「宝石化したくるみしか知らない。だから、比べることはないし、幻滅することはないよ」

「……これからは、分からないでしょ」

「分かるよ」


 たった今、くるみがやったことの焼き増しだ。くるみは猜疑心を抱いた目でこちらを見る。

 そりゃ、確信できるものではない。絶対なんてないのだから。だけど、そこは意地を張るべきところで、俺自身が自分に願ったことだ。それくらいは、してやりたかった。


「こうして、触れさせてくれる彼女のことを嫌になるわけなんてないだろ」

「役じゃん」

「役でも、許してくれる女の子にほだされないほど、俺は器用じゃないんだよ。くるみがドキドキすると言ったら、こっちだってドキドキするし、昼間寄り添ってくれたのも嬉しかった。だから、くるみはくるみのままでいいから」


 から、なんだろう。

 まだ、伝えきれていないことがあって、不手際だらけだった。見栄だけで勢い任せにやるから、そんなことになる。こんな尻切れトンボでは、くるみだって困るだろう。

 すぐに続きを探そうとしたが、その瞬間ふっとくるみの身体がこちらへ倒れてきた。腕を気にせずにくっついてくる体温が暖かい。シャンプーの華やかな香りがした。その顔が肩口に伏せられる。

 口から心臓が出そうなくらいは、もうとりとめて意識することでもないような気がしてきた。


「私が私でいるために、ずっと、一緒にいてね」


 顔は伏せられている。表情が見えないのは不安になった。壊れてしまうんじゃないか。それほど、くるみはか細くて頼りない存在に見えた。実質そうだ。

 俺は首を傾けて、くるみの頭に顔を埋める。


「約束するよ、くるみ」

「うん」


 こくんと頷いた顔は持ち上がってこなかった。鼻にかかった声は、もしかすると涙目なのかもしれない。それを暴き出すような野暮はしなかった。できなかった、というほうが正しいだろうが。結果は同じことだ。くるみが安心できたのならば、それだけでよかった。

 そうして一息吐くと、一気に客観性が戻ってくる。

 手を繋いだまま身を寄せ合っている。自分の威勢のよさが今頃になって自分の首を絞めていた。悪いことなどひとつもない。くるみが頼ってくれることはよいことだ。だから、この状態だって、忌避すべきものではない。

 首を絞められているなんて、妥当ではないだろう。だが、心臓の負荷が尋常ではなかった。

 めっちゃいい匂いする。触れている箇所が汗で湿っぽくなっていくような気がした。服まで湿るわけがないのだから、気のせいでしかない。それでも、不具合が生じそうだった。

 もちろん、そんな理由でくるみを突き放せるわけもない。何より自分から行動に移しておいて、そんなことできるはずもなかった。

 表面上は平静を保っていたが、内心は呼吸困難だ。一言でも話しかけられていたら、その手落ちは表沙汰になっていただろう。

 しかし、くるみもそんな場合じゃないらしい。俺の腕の中でじっとしている。攻撃力は持続されたままだが、追撃が来ないだけマシだった。

 いつまで続くのか。いつまでもこうしていないような、すぐに逃げ出したいような。ジレンマに犯されながら物置になること数分。料理を持ってきた店員がノックしてきた瞬間に、俺とくるみは同時に相手から勢い良く離れて事なきを得た。




 ぎくしゃくしたのはごく僅かな時間だ。解消されたのは、主にくるみのおかげだろう。より正確に言えば、ハニートーストのおかげだ。

 くるみはたちまち普段の調子を取り戻して、ご機嫌に食パンに飛びついた。照れ隠し半分だったのかもしれない。だが、平常に戻ったことに変わりはなかった。店員が入ってきたことで、空気が入れ替わったことも良かったのかもしれない。

 とにかく、元の調子に戻った俺たちはハニトーと向き合う時間へとなだれ込んだ。カラオケで食事優先なのもどうか、とごく普通の疑問が浮かぶほどには平常心を取り戻せたのはよかった。

 あのまま密室の勢いに飲まれていたら、自分は何をやらかしていたのか。考えるだけで恐ろしい。具体的に想像できているわけでもないけれど、やらかしてしまいそうだったことは確かだ。

 ハニトーと格闘するくるみを横目に、メロンソーダを飲みながら心を静める。鎮まっている実感は、正直ない。平常に戻ったのだと言い聞かせているだけに過ぎないだろう。それでも、時間は穏やかに過ぎていった。何でもない雑談を交わす余裕も出てくる。

 そうこうしているうちに、くるみが手を動かすスピードが遅くなってきた。ついでに、ちらちらとこちらを見てくる。何とも分かりやすい。他のこともこう率直であればいいのに。

 くるみは一口大に切り分けたフォークをこちらへ差し出してくる。隠す気もないらしい。


「……食べる?」


 ここまで来たのだから、食べて、とすればいいのに。おねだりするようなお伺いのほうが可愛いのでいいけれど。


「じゃあ」


 そう手を伸ばそうとすると、くるみはそのままフォークを俺の口元へと移動させてくる。

 一時に比べれば離れているが、今は同じ面に座っていた。隣だ。だから、腕を伸ばせばそうすることもできる。できるが、やるかどうかは別の話だ。くるみはさも当然という顔で、こちらを見ていた。


「……自分で食べられるけど?」

「彼女のあーんでも食べられるでしょ?」


 ことりと首を傾げられて、トドメになる。そうでなくても、十分に破壊力はあった。そこにトドメが刺されたのだから、白旗を上げるしかしかない。


「いただきます」


 観念を口にして、そっと迎えに行く。舌に乗った甘やかさが口の中いっぱいに広がった。くるみの瞳が、味を問うてくる。こくりと嚥下してから、


「美味しいな」


 と答えると、くるみは自分のことのように喜んだ。

 本人の手柄ではない。けれど、そんな無神経な指摘する気もなかった。

 手ずから食べさせてくれたのだ。そちらの意識が大きくて、些末事にこだわっていられなかった。

 くるみはニコニコ笑いながら、また一口分を切り分ける。そして、自分の口にハニトーを放り込んだ。おかしいことじゃない。元々、くるみが注文したものであるし、俺はおこぼれに預かっただけだ。だから、食いさしを分け合うことも、不自然ではない。

 だが、意識というのは突如として降って湧くものだ。差し出されたフォークを見たときは、あーんというシチュに意識が占められていた。行動のほうだ。その向こう側。間接キスだということに気を回す余裕がなかった。

 それが、くるみが口を開いた瞬間にひらめく。びりっと背筋が震えて、自分のやったことに後頭部が熱くなってきた。

 いやいや、と手綱を引いて、気持ちを落ち着ける。このくらい普通にやるだろ。そんな取り立てて騒ぐようなことじゃない。

 とはいえ、二口目に進もうとしているくるみを今まで通りに見ていることもできなかった。そっぽを向いてポテトを摘まんで気まずさを潰す。

 そんな俺の心情を知る由もないくるみは、手を進めながらも不思議そうな気配を滲ませていた。


「和君? どうかした?」


 よっぽど不自然だったのか。指摘されて、ますます気まずさが膨らむ。

 伏せるように視線を逸らした。くるみはぐいっと顔を近付けてくる。距離感がバグっているのは、俺がけしかけたからだろうか。一度近付くと、次の一手が気軽になるものらしい。

 くるみは俺の気付きに、気が回っていないようだった。彼女からの、と自ら発言していたにもかかわらず、回路は繋がっていないらしい。

 くるみは俺の返答を待っている。これは律儀なのであって、俺を追い詰めようなんて気は更々ないはずだ。

 だからこその居心地が悪さが先行して、流すこともできなくなってしまった。俺がもっと小器用ならばできたのかもしれない。だが、そんなことはできないので、残された道は白状しかなかった。


「間接キス」


 高校生にもなって、こんなことを報告している未熟さは惨めになる。小学生でもまだナチュラルにこなせるのではないだろうか。偽物であるのだから、こんなものは序の口でこなしたいところだというのに。

 くるみは一度大きく瞬きをした。そして、言葉が脳に染み込んでいくかのように、じわじわと頬に朱色が滲んでいく。身体を揺らしたくるみが、誤魔化すように唇を尖らせた。

 今、そのポーズは逆効果だろうが。


「そ、それくらい、平気だもん!」


 真っ赤な顔で主張されても、大丈夫だと信じられるわけもない。照れているだけだろうが、それにしたって嘘しかなかった。


「そんな顔で言われてもな……」

「和君が平静過ぎるんだよ」

「くるみが疑問を呈するほどには挙動不審だったと思うんだけど?」

「……意識するの?」

「なんでしないと思うんだよ」


 自分たちが順調な交際をできていないのは分かっているだろう。偽物だろうと本物だろうと、稚拙さが付き纏っていた。

 いや、どうなのだろうか。手を繋いだり、寄り添ったりはできている。ただ、そのときは恋人っぽい云々は考えていなかった。支えたいという感情に従って動いていただけだ。

 もしかすると、それが意識していないとカウントされているのかもしれない。納得はいかないが、言われてみれば心当たりはあった。

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