第13話
そんなスキンシップをした後でカラオケに行くというのは、少し意識が変わってくる。
密室ではないかもしれないが、個室。カメラがあるのだし、妙なことをしでかそうなんて気概があるわけではない。それでも、緊張感は高まる。
昼間のことは、他人と隔たれた空間であったといっても開けた場所だった。そうではない場所で近付く。それは思うよりもずっと生々しい。よくもまぁ、余裕ぶって、どころか叶えてやりたいなんてうそぶいていられたものだ。
がちゃりと扉が閉まった瞬間に、活路を失ったような気がした。
「何か新鮮」
「来たことはあるんだろ?」
「男子と来るのは初めてだもん。ちょっとドキドキするね」
さらりと言えてしまうのが、くるみのたちの悪さかもしれない。可愛いのだけれど。可愛いからこそ、緊張感が飛躍的に引き上げられてしまう。
苦笑いになる俺を横目に、くるみはソファに座ってテーブルの上のメニューを手に取っていた。マイペースだ。
やりたいことをやってくれるのが嬉しいからいい。いいのだけれど、俺の行き場はなくなってしまう。距離を窺うように、対角に腰を下ろした。図書室で隣にいるよりも距離があるはずだ。それだというのに、ドキドキが止まらない。密室の効果とは並大抵ではなかった。
意識し過ぎだ。そんなことは分かりきっている。しかし、彼氏役。その前提を考え始めると、色々と思考が巡るものだ。実際にやるやらないは別にして、想像力が働かないほど、俺は無欲ではないし清廉潔白でもない。
くるみはパラパラとメニューを捲って、
「あった」
と楽しそうに眺めている。
実物が来たわけでもないと言うのに、機嫌が良い。実物が来たらどうなるのか。そうやって見ていたら、緊張よりも微笑ましさが幅を利かせてきた。俺も大概、浮かれてほだされている。
「他はいいのか?」
「ハニトーだけにしとく。和君は?」
「ドリンクはいるだろ? ドリンクバーでいい? 俺は……ポテトとか摘まんでようかな」
「足りるの?」
「夕飯食べるし、間食ならちょうどいいくらいだよ。ハニトーは食べきれるのか?」
「……和君も少しは食べる?」
メニューから上目に視線を上げてくる。
言っていることは、こちらを巻き込もうという企みだ。企てと呼ぶほど仰々しくなくとも、巻き込もうとしていることは間違いない。そのわりには甘えたな態度で、俺は抵抗できずに頷いていた。
「ありがとう」
ふわりと笑ってお礼を言われると、それこそ諸手を挙げるしかない。常に降参しているのだから、これ以上どうしろというのか。俺はほとほと参って、さくっと注文を済ませることで、状況を押し進めた。
くるみは歌うつもりなのか。それとも、暇潰しなのか。ゆるりとした手つきで、電子機器を触っている。
画面に流れているアーティストのメッセージと、機器を操作する音だけが室内に響いていた。隣室から薄らと音が聞こえている。取り立てることもない普通の状況だ。くるみも場面に馴染んでいる。自分だけが緊張で浮いているような気がして仕方がなかった。
居心地が悪いとまでは言わない。くるみの願いであるから、そうは言いたくはなかった。しかし、落ち着かない。
「和君、本当に歌わない?」
「歌いたいなら歌えばいいだろ?」
「うーん……私も、あんまり歌いたいとは思ってないんだよね」
以前は来ていたという。嫌いな雰囲気もなかった。しかし、煮え切らない。眉を顰めると、くるみは小さく息を吐いた。
「……大声を出すのは、もう大変なの」
「後出しが多くないか」
「日常生活では困らないことだもん」
責めたいわけではない。だが、最初に聞いたときよりも、もっと症状がある。俺に伝えたときよりも悪化したものもあるのかもしれない。それにしたって、次々に湧き出てくるのは心臓に悪かった。
くるみは宝石結晶病になって一年が経っている。その間に、飲み込めているものも括っているものもあるはずだ。
しかし、こっちとしてはまだそこまでの時間が経っていない。どれだけ覚悟をしていても、実体を飲み込むにはまだ足りなった。くるみの日常範囲は、俺のそこからは外れている。その齟齬を埋めるにも、時間がかかるのだろうか。
そんな時間は残されていないというのに。
「本当に困ってないの?」
「うん。大声を張り上げるってことは日常ではないから。今のところは、まだ普通に話すには困らないよ。そのうち、和君に届けるのも大変になるかもしれないけど」
「行き着く先は、分かってるけど。俺はちゃんと届く範囲にいるから、心配しなくていいよ」
「……本当?」
何気ないつもりはない。それに深い意味が含まれる自覚くらいは持っていた。それでも、くるみの確認は切実さが滲んでいて、心臓を引っ掴まれる。
「くるみが嫌にならない限り、そばにいるよ」
そこまで本気で考えていただろうか。行き当たりばったりだっただろう。それでも、口にすれば感情が追いついてくる。俺の中にも献身が眠っていたらしい。取り出して初めて、自分の持っているものに気がつく。遅ればせながらもいいところだ。
けれど、眼前で表情を溶かしたくるみを見れば、成果は十分だった。
「和君が嫌になることなんてないよ」
「それは分かんないだろ。まだ付き合いだしたばっかりなんだから」
これは男女の交際に限ったことではない。友人関係であっても、ヒビが入らないなんて証明はできないのだ。
絶対なんて……くるみの最期以外にない。そう思うと、胸が軋んだ。せめて、自分の言動くらい、絶対と意地を貫けないものだろうか。不安があっても、くるみのために。
「分かるよ」
まるで俺が反省する内容を実行に移せるとばかりに、くるみはなんてこともないように表明する。その力強さは眩しくて、目を細めた。そして、問うまでもなく、くるみは理由を続ける。
「だって、欲しかった言葉で喜ばせてくれて、こんなふうに寄り添ってくれて、私の我が儘を聞いてくれるんだもん。和君以上の人なんて、きっともう会えないよ。だから、嫌になるなんてことないの」
零す言葉はもっぱら俺を受容することばかりで、くすぐったい。
その中に、ぴりりと効いてくるのは、もう会えないという言い回しだった。これは、俺を褒めるための大言でも何でもない。そんな時間はないと、くるみは分かっている。
……もしかすると、俺が思っているよりも、残り時間は少ないのかもしれない。そう思わせるに足る言い回しだった。
「だったら、俺たちはずっと一緒だよ」
夢物語だ。この、ずっと、には明確に最期のゴールテープが張られている。切るのは、くるみだけだ。そんなことは、くるみにだって分かっていただろう。それでもなお、そうして隣にいることを望んでいることが届いてくれれば、俺はそれでよかった。
「そうしたら、寂しくないよね」
くるみは弱音を吐かない。匂わせないわけではないけれど、暗い顔をしたりしなかった。
そんなくるみが吐露するものを、俺は必死になって繋ぎ止める。そのまま溺れてしまわないように。いなくなってしまわないように。対面にあった手を握れたのは、たったそれだけの理由だった。
白魚のような手だ。これもいつか硬質な石榴に変わっていく。覚えておかなくては。そう思うと、重ねるように触れているだけなことがもどかしい。対面を移動して、隣へ腰を下ろす。
その距離は、昼間寄り添ったときと同じくらい近かった。そうして、指先を確かめるように絡めて握り締める。くっついた腕の一部に硬さを感じた。
「和君……!」
ああ、と不意に気がつく。
昼間もたれてこなかったのは、遠慮していただけじゃない。宝石化した箇所を意識させたくなかったのだ。
くるみは言った。綺麗だと思うこともある、と。この言葉に嘘はない。ひとつの嘘もなく、真意を詳らかにしている。
常に綺麗だなんて思っているわけがないのだ。そんな綺麗事で片付けられているわけもない。自分を蝕むものを、いつだって容認できているわけがない。矛盾を孕んで、飲み込んで、綺麗と思うことさえ苦しむような。
差別的な思考に陥るのは、周囲ばかりではない。当人ですら、自分が無機物に変化していく。肉体が壊れていく。それを侮蔑的に思うことは往々にしてあるだろう。そして、そんな箇所に気安く触れられたくないのは想像に容易かった。
だから、あの距離感。頭を預けはするが、身体は近付け過ぎない。俺からずっと遠のいていられるわけではないにしても、ギリギリを保っていたいのだろう。
俺はそれを無視して、肩から二の腕にぶつかるように身を寄せた。
「和君……」
弱々しい声音は、沈んでいる。困らせるのは本意ではない。けれど、だからってこの溝をそのままにしておくのも本意ではなかった。
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