第三章
第11話
岩井さんの降りる駅は俺の使っている駅よりひとつ先だ。
送ろうかと言ったが、大変だよとナチュラルに返された。そのうちね、と続いたので、送り届けることに否はないのだろう。気を遣ってくれていると分かるので、そのうちに叶えようと決めていた。
登下校が一緒とは行かなかったが、放課後は図書室デートになっている。とはいえ、無言でページを捲っていることを、恋人らしい振る舞いかと言われると疑問は残るが。告白紛いをした席に二人並んで座って、穏やかな時間を過ごすのは悪くない。
岩井さんの残り少ない時間を優雅に使っている気はする。そりゃ、常に生き急ぐような生活をしなきゃいけないわけじゃない。そこまで切羽詰まってはいないだろう。それでも、時々我に返ったように思うことはあった。
これは俺の問題なので、胸に仕舞い込んでいるけれど。
「
付き合うことにしてから、呼び方を変えた。
何をすればいいのか分からなかった俺たちの安直な形だけの用意だ。実体が伴っているとは言い難い。慣れないことのほうが多かった。
「どうした?」
本から顔を上げると、岩井さん……くるみがこちらへ身体を向けている。席は隣だ。足がぶつかりそうな気がして、心なしか身体が逸れそうになる。
付き合う。恋人ということで関係を始めようとしたが、今のところはただの友人だ。本当じゃなくてもいいと言っていたくるみが、どれほどを求めているのか分からないからこそ、余計に。
「和君は何かしたいことある?」
「どうしたんだよ、急に」
擦り合わせをすることは多い。そうでもなければ、恋人としての行動が取れなかった。実際には違うという枷があるからだろう。
「ずっと考えてたんだよね」
言いながら、くるみが机の上に閉じている本の表紙を撫でた。何かの恋愛指南書やエッセイなどでもない。小説だ。
何を参考にしているのか。素っ頓狂なことを言い始められたらどうしたものか、と迷いが生じた。
「青春ラブコメっぽいのを読んでたの」
「何かしたいことがあったの?」
「そりゃ、いっぱいあるよ。私から言い出したんだもん」
「だったら、それをこなしていけばいいだろ? 何か問題があるか?」
「彼氏のしたいことをしてみたいってのもひとつなんだけど」
「それはなかなか難儀なことだな」
所謂、バケットリスト。そういうふうに、くるみのしたいことをやっていくのだと読んでいた。しかし、実際にはこうして手探りをしている。
もちろん、自分のやりたいことを優先しているのかもしれない。だが、これには多少の気遣いも含まれているのではないか。まだまだ間合いは読めない。
「彼女とやりたいことないの?」
「……あんまり考えたことないな」
彼女が欲しいと思ったことはある。だが、何をしたいかと言われると想像力が欠落していた。
……そう言い切るには、語弊があるか。
一番に思いつくのは、友人とは分かりやすく違うスキンシップのことだ。下世話ではあるが。深く踏み入らなくても、手を繋ぐやらハグやら。いかにも、な想像をすることはできる。
だが、デートプランなどの具体性を求められると、とんと思い浮かばない。
「本当に?」
ことりと首を傾げて、覗き込むように見つめられる。探るような瞳は、下心を見透かされるようで苦々しい。からかい混じりなのかを読むには、まだ距離が縮まっていなかった。
「あんまりからかわないでよ」
「だって、和君なすがままなんだもん。ちょっとはリードしてくれてもよくない? 私だってそういうの体験してみたい」
「悪かった。じゃあ、くるみが行きたい場所はあるか?」
「話が戻ってると思うんだけど」
むぅと唇を尖らせる。話していくにつれて、表情豊かなくるみに魅せられていた。教室では変わらず大人しい印象が先に立つ。それが二人になると、お茶目度が上がった。自分だけに見せてくれる表情だなんて、ほだされなきゃ嘘だ。
だからって、自分の欲望をすぐさま提出できるかと言われると話は別だけれど。
「……じゃあ、デートする?」
「これもデートのつもりだったけど、違った?」
窺うように問われる。上目になっていることには、気がついていないらしい。こういう細かな仕草を、子どものころにどんぐりを集めたように収集していた。
「違わないけど、休みの日に一日中。体力、持つか?」
「そういうプランを考えてくれる?」
甘えるのが上手い。自分がチョロいだけか。
小鳥のように首を傾げてくる健気さが胸に迫る。首の傾きにさらさらと流れる短髪も、いずれ宝石化するのだ。そのために、短髪にしたのだという。硬度の高い宝石の場合、宝石化すると毛先が重くなるらしい。その状態でぶつけたりこけたりすれば、破壊される。そうした危惧を持っているよりは、と思いきって髪を切ったと言っていた。
からりと笑っていたから、過剰な気遣いをするつもりはない。ただ、今まで普通にできていたことを切り捨てる。そういったことが必要な病気なのだ、と思い知らされた。
俺は多分、今してるよりもずっと、重い覚悟をしていかなければならない。これからも、くるみの彼氏として振る舞う気があるなら。学ぶべきこともあるだろう。
不透明だから分からない。なんて拙劣さでは、いつか痛恨事を犯す。俺の失策でくるみを傷付けたくはなかった。
過保護になっているかもしれない。自分が考え過ぎている自覚はある。だからこそ、基準はくるみがどう思うかという部分に固定していた。それならば、行動が揺らぐことも少ない。受け身になっているとも言えるが。
「俺ができる限りは」
「じゃあ、お願いします」
「はい。任されました」
こうした改まった手続きをいちいちするものなのだろうか。今までついたことのない立場を求められても、スムーズにはいかなかった。その素人っぷりは、くるみだって変わらない。
「あ、でもね、それとは別に行きたいところもあるの」
ぱっと表情が煌めく。不器用であっても何でも、くるみが楽しげにするのであれば構わなかった。ほだされ方が手に負えない。
「放課後デートしよう?」
「これもデートなんじゃなかったか?」
掘り返したのは、追ってデートを持ちかけられたことに心臓が跳ねたのを誤魔化すためだったかもしれない。
「寄り道してみたいの」
そんな俺の些少な動揺などつゆ知らず、くるみは話を進める。
ふんわりと浮かんだ声は、聞いていてムズムズした。役ではある。けれど、俺と寄り道したいと上機嫌に漏らすのだ。ほだされる要因しかない。俺がチョロいだけではないと強弁したかった。
「門限には間に合うの?」
くるみの門限は十九時。部活もバイトもしていない高校生として、微妙なラインだろう。通学時間は二十分ほどなのだから、何もなければ十分な時間だ。ただ、放課後に遊ぼうと思うと、わりとギリギリになる。
だが、くるみを遅くまでフリーで遊ばせる勇気はないらしい。そりゃ、そうだろう。俺だって、そう思う。
もし、夜に何かあったら。
宝石結晶病が杞憂すべき危機は、病気の進行と同時に、それが世間の元に晒されることがある。どんな目に遭うのか。忌避され、助け出されるかどうかの不安すらあるのだ。
世間に膾炙しているからこその差別だろう。そんな状態にある子を自由にさせるおぞましさはよく分かった。
それに、くるみは普通に可愛い。そういう意味での心配もあるだろう。これは学校から駅まで。俺が降りるまでの電車の中で。くるみが集める視線で感受させられていた。
「私の最寄り駅のそばにカラオケがあるの。そこなら一時間だけでも、十分遊べるかなって……ダメかな?」
「カラオケか」
「ハニトーが有名なところ。女子たちでわいわい入ったことはあるけど、こうなってからは行ってないし、彼氏と入ってみたい」
女子たちと彼氏と。そこにある差分とは何だろう。
イチャつくとか? 咄嗟に浮かんだ身も蓋もない事柄には、頭を抱えそうになった。行動に移せばカラオケに行くことに懊悩していることになるので、そんな真似をするつもりはなかったが。
「分かったよ。ハニートーストを食べに行くってことで」
「歌うでしょ?」
「俺はいいよ。くるみは歌えばいい」
「もしかして、苦手だった? だったら、拒否していいんだよ?」
「歌うことが主軸じゃないんだろ?」
恋人と遊びに行く。カラオケでハニートーストを食べて、二人きりで過ごす。要点はそこのはずだ。
恋人らしいラブソングを歌って欲しかった、というのなら不足はあるだろうけど。
……ないよな? とくるみの様子を窺う。今日まで、れっきとした恋人らしい振る舞いを求められることはなかった。単に男子とやってみたかった。その範疇に収まっている。ついぞ、そのフェーズを抜けようと言うのだろうか。
心音が奇っ怪な脈を奏でた。
「そうだけど、イエスマンにならなくってもいいんだよ?」
「別に嫌じゃないよ。どうしても避けたいことは言うし」
「遠慮はなしだからね。最期だから、って同情しないでよ」
「分かってるよ」
同情していないとは言えない。憐れんでもいるかもしれない。だが、カラオケに行くだけのことに、変な情を寄せるつもりはなかった。苦笑しながらも頷く。
くるみだって、俺がまったくもって同情していないとは思っていないのか。苦い顔で笑った。
「じゃあ、明日はカラオケね」
「ああ」
「約束」
同情の件に絡むのが上策でないことは、お互いに理解している。
雑多な感情に囚われ続けて、時間を消費するのはもったいない。見て見ぬ振りと呼ぶだろう。後回しにしているだけに過ぎないとも。だが、その点において俺たちの意見は一致していた。
くるみは苦さを隠して、小指を差し出して笑ってくる。こっぱずかしさを飲み込んで、白くて華奢な指先を絡め取った。
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