第10話

「俺のように能天気だったら、岩井さんも苦労しないのにね」

「能天気ではないでしょ」


 すぱんと切り落とされて驚く。お人好しと能天気はイコールではないかもしれない。だからと言って、こんなふうに即断されるものでもない。俺は目を瞬いてしまった。


「だって、本当に何も考えてなかったら、支えただけで終わってると思う」

「……ただ気にしたがりなだけだ。野次馬根性で見過ごせなかった」

「露悪的に言うことないと思うけど」

「正直に言えば、俺のせいでどうこうなったりとか、知ってしまったことで岩井さんがどう思うかとか、そういう自己弁護のために動いただけだから、褒められたことじゃないんだ」

「そうして秘密にしてくれるって言ってくれたことは、私にとっては上等だったよ」


 やはり、岩井さんは俺に甘い。幻滅したっていいし、適当に流したっていいはずだ。にもかかわらず、俺を認めてくれる。

 もちろん、人情があれば否定はしない。そういうものだろう。それでも、こうして口にして上等という評価をくれることは、俺にとっては格別なものだった。

 自分の不手際を許されたような気持ちになる。それに甘える気はないが、情が湧くものだ。ただでさえ、意識させられて感情を傾けていたのだから、新たに湧いてしまっては取り返しはつきそうにもなかった。


「結果論だけど、岩井さんに辛いことがないなら、それで」


 着地点はそこしかない。それが何よりも重要なことだ。繰り返しになるが、それでも譲れない地点をずらすつもりはなかった。どれだけ自分のことが中心でも、守るべきものを易々と手放すつもりはない。その体裁くらいは保っていられた。


「灰塚君って本当に人が良いよね」

「岩井さんには負けるよ」


 最後の一線を守っているのと、全面的に受容してくれているの。比べるまでもなく、岩井さんのほうが人が良い。とはいえ、本格的に比較のしようもないことで言い合っても仕方がないことだ。お互いに苦笑いを交わし合う。

 岩井さんは空気を入れ換えるように、ぱんと手を叩いた。


「私の現状はこんな感じです」


 朗らかに締める内容ではない。他に適切な態度があるかと言われると困るが、しめやかに終わるものだ。それを許さない流れになったのは、お互いを褒め合う謎の時間を挟んだからだろう。

 何にせよ、確認したかったことは確認できた。状況を知らないよりは、知っているほうがいい。それで何かが変わるとは言えないけれど、俺の心情としてケリがついた。

 少しすれば、また何ができるか。どうすればいいのか。そんな埒も明かない問題を勝手に作り出すだろうけれど。その判断を下すに至る情報を手に入れることはできた。


「教えてくれてありがとう」

「ううん。助けてもらったから」

「あれくらいなら、どうってことはないよ」


 確かに様子を見ていたが、偶然に違いはない。ヒーローのようにかっこいいものではなかった。気張って手を貸したわけではない。岩井さんの元に一直線へ飛び出したわけでもないし、手間はなかった。


「頼もしいね」

「そんなんじゃないよ」

「灰塚君って自己評価、おかしいよねぇ」


 そんなことをしみじみと言われても困惑する。岩井さんの中での評価が存外に高いだけだ。病気のことで眼鏡に色が入り過ぎている。岩井さんにとって大事なことは認めるが、だからと言ってこうまで高評価だとあんばいが悪かった。


「岩井さんが俺をよく見てくれてるだけだよ。今のところ、ろくなことはできていないし」

「広めたりしないし、騒いだりしないし、綺麗だって言ってくれるし、病状を聞いても引かないし、それってすごくありがたいことだよ。何かをしてくれることがすべてってわけじゃないから」


 悶々としていただけだ。二の足を踏んでいた。それが岩井さんにはちょうどよかったのだろう。先走らなくてよかったと胸を撫で下ろすが、あくまでも結果論でしかない。

 俺はふーっと息を吐き出して、意識を整えた。岩井さんは何もしないことを評価してくれるが、俺としてはもう素知らぬ顔はできないのだ。

 そのことは伝えておくべだと腹を決めた。これで嫌がられれば、それで話は終わり。ちゃんとけじめはつけておかないと、俺はまたぞろ無駄に考え込む日々を過ごすだけだ。

 これもまた、自己本位な行動でしかない。


「もし、力になれることがあるなら、手伝いたいと思うのは邪魔かな?」


 覚悟はしたが、口にするとなると狼狽えた。及び腰なのが、音域からバレていたかもしれない。岩井さんは一瞬目を見張ってから、目を細めてくれた。


「そんなこと思わないよ。でも、責任は感じなくていいからね?」


 責任。そんな大層なものだろうか。もっと、単純な。庇護欲。そんな立派なものでもないかもしれない。もっともっと、しごく当たり前な。目の前で倒れそうになっている人がいれば手を差し出すような。今日やったことと大差のない感情の緩さで。


「ただ、気になってしまうだけだよ」


 それだけだ。本当に。

 俺は一度知ったことをスルーできるほど器用じゃない。そして、岩井さんの抱えている病気は不治の病だ。いずれ、亡くなってしまう。それが分かっていて、スルーできるわけもなかった。

 同情でしかないのかもしれない。それでも、気になって仕方がなくて、気持ちが傾いて仕方がなかった。


「関わるのを、許してくれないか」


 口にすると、痛烈に聞こえる。不必要に意味深にも。求めていることの大きさが、眼前に迫ってくるようだった。潰れそうになるのを堪えて、真っ直ぐに岩井さんを見つめる。

 これがまた、意味に深みを出していることに気がついたのは、後になってからのことだった。


「……仲良くしてくれるってこと?」

「ああ。俺が手伝えることなら、何でも言ってくれ」


 どう聞いていたって、追い縋っているようにしか聞こえない。しかし、夢中になっていた俺には、言葉の響きなどを省みる視野など持っていなかった。実直しか持ち得ないのだから、それはいいことだっただろう。

 そこまでの発言をして、岩井さんはようやく考えるような素振りを見せる。仲良く、までに気負いは見当たらなかった。

 そこに間が開くと、焦りが浮かび上がってくる。心音がうるさい。自分の呼吸が乱れているのを体内で感じる。握り締めていた手のひらに、爪が食い込む感覚がした。

 目を伏せて考え込んでいる岩井さんの頭を見下ろす。沈黙が怖かったが、逸らすことも怖くてできなかった。しばらくしてから、岩井さんは瞳を持ち上げてくる。その瞳は揺らいでいて、眉尻が下がっていた。

 何を言われるのか。ポジティブなこととは思えずに、心臓が冷える。蠢く唇の緊張感が伝わってきて、ますます身が竦んだ。

 そこまで甚大な話ではなかった。他人と言葉の重さが釣り合っていないことは往々にしてある。しかし、それにしても、という感触は拭えない。

 病気について語っていたときよりも、よっぽど緊張しているのだ。怖じ気づくのも当然だろう。


「何でも?」


 確認されると、誇大なことに気付かされた。

 岩井さんがそれほど大仰なことを言うとも思えない。だが、この緊迫感を思えば、何を言い出してもおかしくなかった。

 だからって、自分から言い出しておいて日和るつもりはない。俺は一拍を置いて、覚悟を飲み下すかのように深く頷いた。

 それを確認してから、岩井さんは深呼吸する。動作のひとつひとつが、心臓を締め付けて、動悸を速くした。

 岩井さんの細い指が、胸の前で組まれる。お願いのポーズに息を呑んだ。腕が寄せられたことによって、胸の山が高くなる。変なところが目に入っていたのは、緊張感の余波であったかもしれない。

 すぅと深く息を吸い込んだ岩井さんが、脇目も振らずに俺を見つめる。栗色の瞳に僅かな赤を感じ取ったのは気のせい以外の何ものでもない。だが、それほどまでに熱い眼差しだった。


「付き合ってくれる?」


 脳の回転に言葉が挟まれてがちんと止まる。愕然とした俺に、岩井さんの顔が真っ赤に染まった。それは彼女の持つ宝石に近い紅で、綺麗だった。


「ちがっ、違わないけど、本当じゃなくていいの! 一度でもいいから恋人っぽいことがしてみたいの」

「え?」

「もう、できないから!」


 勢いで述べられたが、その切なさは並外れている。目を剥いてしまったのは、見え見えだっただろう。

 岩井さんも、言ってしまったとばかりに口を噤んで目を逸らした。

 やり残したことをやる。それは前向きに最期に向かっているとも言えるが、悲しいことでもあった。しかも、その手伝いを求めている。

 いくら何でもと言っても、付き合わせてしまうという感覚はあるのだろう。横を向いた岩井さんは身を縮めていた。後悔がひしひしと伝わってくる。

 そうして様子を眺めているうちに、少しずつ脳の稼働が戻ってきた。深い息が漏れたのは、稼働し始めたがゆえの熱の放出だったのかもしれない。

 しかし、岩井さんにしてみれば、ため息にも聞こえたのだろう。肩が震えるのを見て、正式に覚悟が決まった。


「俺でいいのか?」


 ばっと岩井さんがこちらを見る。

 そっちが言い始めたんだろう、と言うのはあまりにも酷だろう。俺だって、ダメ元で尋ねてみたことが円滑に通ってしまったら驚きは隠せない。


「ほんとうに?」


 呆然とした声は気弱で頼りなかった。その小さな音が、耳朶に粒立って残る。

 それでなくても、気になっていた。意識せずにいられない存在だ。その感覚が急激に引き上げられていく。庇護欲に近いものが、体内に吹き荒れていた。


「俺だって、一度もそういうことをしたことがないから、どれだけ頼りになるか分からないけどそれでもよければ」


 岩井さんが求めていることを叶えられる自信はない。

 だが、初めに手助けを申し出たのは俺だ。それに、悪事を持ちかけられているわけじゃない。付き合う。面映ゆさはあるけれど、無謀な発案とは取れなかった。

 岩井さんの顔色が、次第に明るくなっていく。


「灰塚君なら心配ないと思う」

「じゃあ、よろしくお願いします?」

「こちらこそ、よろしくお願いします。受けてくれてありがとう」


 詰めなきゃいけないことは山のようにあるはずだ。軽々しく進めるには、問題はあるのかもしれない。

 それでも、岩井さんが求めるものに答えることは、自分のわだかまりを消化するのにも好都合だった。

 だって、俺は、きっと受けなくても気にせずにはいられないのだ。そばにいることを望むかどうかは棚に上げるとしても、他の誰かと一緒にいる姿であろうとも何だろうとも囚われる。それはもう、この一週間で思い知らされた。だから、俺は頷くしかない。

 それにとろりと笑った岩井さんの微笑みは温柔で眩しかった。

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