第9話
「優しくしてくれて、ありがとう」
「どういうこと?」
反復される感謝に首を傾げる。優しいとは何か。俺が気遣いで褒めているとでも思っているのか。そんなわけがない。俺は本気だ。ぎゅっと眉間を寄せてしまった。
岩井さんはシャツの上から、自分の二の腕に触れる。
「感触がないから、力の具合は分からないんだ。けど、灰塚君が気を遣ってくれたのは分かるよ。だから、ありがとう」
「そりゃ、岩井さんの腕なんだから、乱暴には扱わないよ」
宝石じゃなくたって、女性の身体だ。鍛えた男の二の腕じゃないのだから、力自慢みたいに触れたりはしない。そんなのは常識だろう。
「灰塚君は善人だね」
「褒めてるか?」
そこまで善良な行いをしたつもりなど甚だない。岩井さんが真面目に言っているのは分かるが、全力で喜ぶにはハードルが低過ぎた。苦々しく尋ねると、岩井さんはやっぱり真面目に頷く。
「嬉しいからいいの」
釈然とはしないが、真っ正直に喜ばれてしまうとなす術はない。胸を打たれた。
「岩井さんは俺に甘いと思う」
「やっぱり?」
てへっと言うかのように、茶目っ気たっぷりに笑われて肩の力が抜ける。思うよりも華やかで、お茶目で可愛い。微笑ましくって笑いが零れた。
岩井さんも楽しそうにしている。こうしていると、余命宣告がなされているなんてちっとも思えない。
たった今、その証拠に触れていたのだ。もっとシリアスになってもいい。それだと言うのに、岩井さんは明るく振る舞っている。
これが本来の岩井さんなのか。そうではないのか。俺には判断がつかないので、空元気かどうかも分からない。元からこうならいいが、変に気を遣わせていないかはほんの少し気になった。
「そんなに甘やかさなくていいよ。俺は普通のつもりだし、くすぐったい」
「そう言われてもなぁ……灰塚君は、綺麗って言ってくれたから、その印象が強くって贔屓しちゃうんだよね。それくらい、本当に嬉しかったの」
ふにゃりと笑われてしまうと、それこそ腹の底がくすぐったくって仕方がない。好感度を稼いだのはよく分かったが、それにしてもという感情は否めなかった。俺の自己評価が低いのか。
「岩井さんを楽にしてあげられたのなら、良かった」
「触ってみて、どうだった?」
「本当に、無機物になるんだな」
改めて、手のひらを見下ろす。
自然な感触ではあったが、俺が触れたのは岩井さんの人体なのだ。驚きがじわじわと指先から伝わってくる。岩井さんの態度に気を取られていたが、遅れてやってくる実感はでかい。直で触れたことによって、生々しく記憶に刻印されたような気がした。
「半年したくらいかな? ちょっとずつ宝石化が始まって、今はこれで収まってるけど、ちょっとずつ広がってるの。スカートだけじゃそろそろ厳しいかもしれないから、タイツになるのも時間の問題」
空気はころころ変わるものらしい。というよりは、岩井さんが思うままであるのかもしれない。それとも、俺が翻弄されてころころ転がされているだけか。後者のほうが可能性が高そうなので、流れに反発することはやめておくことにした。
「それで、一年か」
「最近は、広がるのも早くなったような気がしてる」
「聴力と視力はどれくらいものなんだ?」
こうも自然に会話を続けられていることに、不思議な気持ちになる。会話は深刻なターンに突入している。もっと取り乱すのではないかと想像していた。
少なくとも、内側では動揺が暴れるものではないか。それだというのに、想像していたよりも、俺はずっと冷静でいられていた。自分の手を離れた冷静さを冷静さと判断するのはおこがましいだろう。場に飲み込まれているだけとも言えた。
「普通に話す分には問題がないけど、複数人で会話が被ったり……人混みになったりすると、聞き分けが難しくなってきたかなと思う。あと、まったく分からない単語をすらすら並べられると、理解が追いつかない」
「分からないことに理解が追いつかないのは誰でも同じじゃないかな」
「そうかな? 前はもう少し前後の文脈で感じ取れるものがあったような気がするんだよね」
比較した上での判断に、軽い返答はできない。岩井さんの感覚を否定したくもないし、下手な励ましもしたくなかった。結果として「そうか」と一聴すれば冷たいような返答しかできなかった。
しかし、俺への好感度が馬鹿高い岩井さんは、都合のいいように取ってくれたようだ。というよりも、感知力が高いのかもしれない。邪険にしたいわけではないのだから、岩井さんが察しがよくて助かった。
「視力も前よりずっと落ちたかな。あと、目がごろごろするような感じがする」
「……どこまでも宝石化するのか」
「そうらしい。私もまだ実感ないけどね」
岩井さんが、真っ白で柔らかい手のひらをひらひらと振る。それは、人であると主張するかのようだ。
「これからどんどん宝石になっていくんだろうね。瞳もガーネットになるのかな」
「がーねっと」
復唱の音は、阿呆のそれだった。
しかし、突如として出てきた名称が、すぐさま他のものと結びつきはしない。ただでさえ、頭の中が岩井さんのことで満杯なのだ。他のことへと分岐させる余裕はなかった。
「宝石化する先の宝石は、個人で違うの。私のはガーネット。赤くて綺麗だよね。日本語だと石榴石って言って、硬度は高いから、割れることはないだろうって。でも、肉体そのものっていうか骨? 肉片? が宝石化するまで……皮膚の宝石化の場合は、剥がれることがあるかもしれないから注意」
「……それは、怪我ってことか?」
「そうだね。普通に怪我」
「触って大丈夫だったのか?」
「二の腕はもうすっかり宝石化してるから」
そう言って、シャツの上から二の腕を握る。その握力は、それなりのように見えた。岩井さんの華奢の手のひらがどれだけの力を有しているのかは知らないが。それでも、粗野な手つきだったのは確かだ。
綺麗だと認めてはいるけれど、全容認しているわけではないのだろう。
「運動能力は、かなり落ちてるよな?」
「足がね」
ふらつくのを何度も見ている。岩井さんも自分の太腿を見下ろした。それに釣られるのはよろしくないだろう。男が女子高生のスカートをガン見するのだから、問題しかない。
「……このままの生活は、いつまでできるんだ?」
怖い問いかけだ。自分のことながら、どうしてこんなことが言えるのか。場の空気に流されていた。何より、知りたいと首を突っ込んだのは自分だ。今更、亀のように首を引っ込めて甲羅に閉じこもろうとは思わなかった。
「分からないけど……隠すのなら、そう時間は残ってないと思う」
際立って、悲嘆に暮れているわけではない。しかし、漂う死の臭いは侘しさとなってまとわりつく。
岩井さんが取り繕っているのに、俺がそれに負けるわけにもいかない。工夫のない。馬鹿みたい意地だっただろう。それでも、幾ばくかでも不安にさせる要素は取り除きたかった。
「隠し続けるつもりでいるの?」
「入院するまでは、隠し通したい」
「……嫌われたり、怖がられたり、したくないから?」
思わず、手に力が入る。クラスメイトが岩井さんに悪意を向けるとは限らない。だが、受け入れることもまた、難しいはずだ。非情というには、宝石結晶病は不透明に過ぎる。それが想像できるから、力みを取ることはできなかった。
「みんながみんな、灰塚君みたいじゃないから」
だったら、いいのに。
その行間はあからさまだっただろう。お人好し。そう言われているのだ。悪いことではない。だって、岩井さんは喜んでくれるから。けれど、素直に喜べないのは、みんなが違うだろうことが分かっているからだ。虚しい言葉だと分かっているからだった。
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