第8話

「えっと、まずは、灰塚君はどれくらい知っている?」

「そこから?」


 半端に聞くつもりはなかった。それでも、基礎が過ぎる。


「一応? 何か勘違いされてたら、せっかく伝えても意味がなくない?」

「それはそうだけど……どの程度を理解として伝えたらいいのか迷うよ。分かっていないことが多いし」

「余命は?」


 触れずに済むのであれば、触れたくない部分だった。目を逸らし続けるわけにはいかないだろう。けれど、初手で触れるには重い。意を決しているだろう岩井さんに、答える以外の道は残されていなかった


「最長で三年だろ?」

「私は症状を自覚してからもうすぐ一年経つ」


 どくりと心臓が竦む。

 三分の一。元から、余命のカウントダウンが始まっているのは分かりきっていた。その思考があったからこそ、悩みの種になっていたと言ってもいい。

 それでも、本人の口からそれを聞かされると、迫力が違う。見えていたはずの現実が迫ってくるようだった。


「それで、腕と足だけ?」


 打ちのめされている。衝撃はあった。ただ、それを表にして、岩井さんを不快にしたくはない。土壇場で踏ん張る力が残っていたことに感謝を捧げた。


「太腿と、二の腕。それから、聴力と視力が落ちてきてるかな」


 はっとして、岩井さんの顔を見つめる。今度は冷静さを捻り出せておらず、申し訳なかった。目が合った岩井さんは苦々しい顔になる。


「眼鏡は前からだから、そこまで大変な症状がでてるわけじゃないよ」

「……ごめん」

「ううん。でも、このまま行くともっと視力が落ちて失明するんだって」

「聴覚も?」

「そうだね。最後には聞こえなくなるって言われてる」

「触覚はどうなんだ? 宝石化しているところの感覚は落ちていないの?」


 会話はできていた。だが、冷静とはほど遠い。流れに身を任せながら、平常を保とうともがいているだけだ。正常ではなくて、崖っぷちに立っているようなギリギリ感があった。


「落ちてるかな。どっちかっていうと、硬くなっていく違和感のほうが強くて、触覚が落ちたって感じはあんまりしない。人肌じゃない感じ。灰塚君は触ったし、分かるでしょ?」

「まぁ」


 曖昧な相槌になるのは、大手を振って意見できることではないからだ。それに、一瞬だったのだから、生々しく覚えているというのは、都合が悪い。


「……覚えてる?」

「触ったことを覚えてるかどうかを聞くなよ。……覚えてるけど」


 忘れるはずもなかった。硬質な感覚は、手のひらに吸い付くように覚えている。つい同じような硬さのものを探して手を彷徨わせてしまうような。それほどまでに、鮮明に刻み込まれていた。


「触る?」

「恥じらいを持っている子だと思っていたけど?」


 いくら病気に関わることといえど、大胆な発言をしている自覚はあるのか。そう促せば、岩井さんの頬に微かに白桃色が刷けた。

 反応を目にして初めて、自分の発言を振り返る。岩井さんも岩井さんだが、俺も俺だ。


「そんなつもりじゃないもん! 灰塚君って、意外と意地悪なの?」

「岩井さんは意外と軽率だな」

「違うってば」


 不貞腐れて、唇を尖らせる。そんな顔、初めて見た。そりゃ、今まで交流がなかったのだから、当然だけれど。けれど、真新しい表情が体内に蓄積していくようだった。


「じゃあ、どういうつもりだよ」

「綺麗だって言ってくれたから」


 セクハラするつもりはない。その確固たる意志で尋ねた問いが、すこんと打ち返された。真っ直ぐにこちらを見てくる岩井さんの瞳は真剣だ。


「だから、灰塚君なら触られてもいいかなと思ったの。知りたいんでしょ?」


 甘言を否定一辺倒で退けられない。

 触れたい。異性に持つ感情として、それは気まずいものだ。知りたい。患者への好奇心として、満たしたいものだ。ぐらぐらと感情が揺さぶられる。


「……本当に、いいの?」


 自分の詰めの甘さ。根性のなさに辟易する。

 それでも、気になった。ここで聞かなきゃ、俺はずっと気にし続けるだろう。それだけは、今日までの意識を思えば確実だ。断言できてしまう虚しさはあるが、そんな状況に陥りたくなかった。

 結局、岩井さんに迷惑をかけかねない。


「灰塚君なら、いいよ」


 言いながら、細い指先がネクタイへ伸びる。ごくりと生唾を飲み込んでいる間に、しゅるしゅると抜き取られ、カーディガンが脱がれた。

 ブレザーのジャケットよりもカーディガンのほうが、裾がめくれる心配はいらないし、だぼついていても不自然ではない。

 宝石化したからといって、体躯に劇的な変化が訪れるわけではないらしい。だが、身体を隠したい心理としては変わりないはずだ。俺は一年前の岩井さんを知らないから、ただの憶測でしかないけれど。それほど遠くない気がした。

 岩井さんはワイシャツ姿になると、そのボタンも外そうとする。ぎょっとして身を逸らし、がたりと椅子が怪音を立てた。

 岩井さんがボタンに手をかけたまま、こちらを見上げてくる。シャツの隙間から覗く白い鎖骨のラインが網膜を焼いていた。


「おまえ、それ」


 ああ、お前は不遜に過ぎる。俺たちはぞんざいな扱いをするほどに仲が良いわけでもないのに。そんな些末な言葉遣いひとつにこだわったのは、現実逃避込みであったかもしれない。

 岩井さんは長い睫毛を重ね合わせる。くるりと丸い栗色の瞳は疑問に満ちていた。


「シャツは、めくるだけで、いいんじゃないか」


 喉は水分を失って、滑からな発言を妨げる。どうにか絞り出した俺に、岩井さんは苦い顔になった。


「みすぼらしいかもしれないけど、二の腕だから。めくるのにも限界があるよ」

「みすぼらしいっていうか瑞々しいだろ?! 自分が女だって忘れてるわけじゃないだろうな?」


 図書室で上げる声量ではなかっただろう。臨界点を超えた混乱が跳ねた。その勢いに紛れて、とんでもないことを口走ったことはなかったことにしてしまいたい。


「わっ! 忘れてないよ?! 大丈夫! シャツを着てるから。透けて見えたら困るし! 私、痴女じゃないから! いくら何でも脱がないよ!!」

「あ、ああ……ごめん」


 俺が何を想像したのか。それが分かったのだろう岩井さんの声音も跳ねる。対策を採っていることくらい、考えれば分かったはずだ。俺は平謝りするしかない。

 岩井さんはかけていたボタンから手を離して、こちらに背を向ける。俺が意識させてしまったのだから、俺が悪い。バツの悪い思いで、ワイシャツが取り払われるのから目を逸らして待った。窓の外に視線を流していたのは、いかにもわざとらしかっただろう。

 Tシャツ姿になった岩井さんが、そろりとこちらに向き直った。目付きが剣呑なことには、見て見ぬ振りをする。直視するのは躊躇われた。だが、そっぽを向いているほうが失礼で、具合も悪い。

 岩井さんが息を整えて、シャツの袖をめくる。捲り上げられた袖の下。顔を出した宝石の輝きに目を眇める。艶々とした赤。あの日見たものが、そこに存在している。服越しに触れた硬い宝石。肉体が変化していると思うと、胸が引き絞られる。

 けれど、陽の光に輝く色味は、やっぱり綺麗だった。


「……どうかな?」


 一度開いた唇が閉じられてから、怖々と開かれる。俺が呆然としているからか。表情は強ばって、眉毛が垂れ下がっていた。


「触れても?」


 先に言い出したのは岩井さんだ。俺が本当に触れるかどうかは分からなかっただろう。俺だって、自分から申告するとは思っていなかった。

 けれど、眼前に差し出されると、途端に衝動が抑えきれなくなる。我が事ながら、こんな免疫のない行動を取るとは意外でしかない。

 岩井さんはゆっくりと顎を引いてくれる。こちらもゆっくりと手を伸ばして、その宝石に触れた。

 恐ろしさがなかったわけじゃない。それは病気に対するものではなく、俺の行動ひとつで岩井さんの心を傷付けかねないことに対してだ。宝石に傷をつけることも恐れていたかもしれない。

 これほど美しいのだから。穢してはならない。


「綺麗だね」


 ほうっと零れた感想は、普遍的で無念だ。俺の語彙では毛頭表現しきれない。

 石榴の断面のような瑞々しさ。陽の光を集めたような美しさ。どう伝えればいいのか。もっと宝石について学んでいればよかった。


「恥ずかしいよ」


 宝石化した部分だけを凝視していた。言葉に視界が広がって、岩井さんと近い場所にいることに今更ながら気がつく。宝石に目が眩んで引き寄せられていた。

 岩井さんの頬が桃色に染まっているのに気がついて、手を引いた。


「ごめん」

「謝らなくてもいいけど、率直に褒めるんだもん。照れるよ」


 宝石を隠さずにはにかむ岩井さんが眩しい。


「綺麗なものは綺麗だろ」

「ありがとう」


 人によっては、きっと気分を害す。だが、岩井さんがそうならないことは分かっているから、俺は開き直って言い切った。

 岩井さんは微笑みながら、袖を元に戻す。残念にも思ったし、同時に安堵もした。

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