第7話
岩井さんが視界の中にいなければ、かつての平穏な日々でしかない。放課後など自由もいいところだ。
岩井さんは、あれから図書室に現れることはない。もしかすると訪れているのかもしれないが、俺が遭遇することはなかった。
あの翌日は、岩井さんも俺を待とうとしていたのかもしれない。その事実に気がついたのは、今日までちっとも会えなかったというのに、今日に限って岩井さんが現れたからだ。
それも本棚の間を探すように彷徨い歩いていた。本を探す動作とは違う。本棚に寄ることのない岩井さんが、こちらへ近付いてきた。
そうして俺を見つけるや否や、表情を明るくする。用があると言っているようなものだった。
「やっぱりここにいた」
ニコニコと寄ってくる。まるで懐いているかのような言動に、胸が締め付けられた。
自分の存在は爆弾だ。取り扱いようによっては、秘密をバラしかねないものなのだから、そう思われていても仕方がない。
必要以上に関わらない理由は、それもあるのではないか。そんなふうに思っていたのに、近付いてくる無邪気さには、そんな様子は見当たらない。仲良くしてくれるのは嬉しいが、そうされる理由はいまいち見つからなかった。
分かることは、岩井さんがお人好しだということだけだ。
「俺に用事?」
そんなものがあるだろうか。脳みそはぐるっと回ったが、中身は伴わなかった。多分、この一週間弱で脳みそは蒸発でもしたのだろう。でなければ、特定のエラーを吐き続けている。
岩井さんの前では、ろくすっぽ働かなかった。
「今日のこと、話しておこうと思って」
「今日のこと?」
白を切ろうなんて思ったわけじゃない。俺にそんな技術は備わっていなかった。自分の行動を忘れるほど鳥頭でもないが、そのときは回路が繋がっていなかったのだ。
やはり、岩井さんの前で俺の脳は使い物にならない。
「助けてくれたでしょ?」
「ああ……え、それだけ?」
「私にとっては重大項目だったけど?」
「俺だって、易いことだとは思ってないよ」
「お礼はどうしたらいい?」
岩井さんにしてみれば、それほどのことなのだろう。想像は働いたが、改まった謝礼など求めていない。
首を横に振ると、岩井さんは困り顔になった。意図が通じないわけじゃないだろう。返答に混乱しているのだ。何がそれほど参ることがあるのか。
そこにどれだけ重要度が割かれていると言っても、起こしたアクションの度合いはどうしたって軽い。
俺は手荒に飛び出して、他の誰かを突き飛ばしてまで、岩井さんを助けたわけではないのだ。
ただ、流されるままに。見ていたから気がついた。だから、支えた。シンプルに階段を踏んだだけだ。それ以上も以下もなく、いくら何でもこうも拘泥されなくてはならないことではない。
それとも、岩井さんの中での重さはそんなものではないのか。均衡の違いに眩暈がしそうだった。
「必要ないよ。言葉だけで十分だ」
それ以上を望むべくもない。だというのに、岩井さんはますます困惑顔になっていく。何がそれほど困ることがあるのか。表情が読めても感情は読めない。ただ見つめているだけの人間に、そんな判別力がつくわけもなかった。
「ダメなのか?」
「だって、本当に助かったの。私だって、誰彼構わず見られたくはないし、知られたくはないから」
「そりゃ、そうだろうけど……たまたまだ。気にしないでくれ」
「……そんなに感謝されるの嫌なの?」
「そんな特殊な感性は持ってない」
「じゃあ、素直に言ってくれればいいのに」
「だから、言葉で十分だって言ってるだろ。岩井さんこそ、どうしたって感謝しないと気が済まないのか?」
「済まない」
「どういう感性なんだ」
困惑はこちらも同じだ。むしろ、こっちのほうが上回っていると言ってもいいくらいだろう。奇妙な顔つきで顔を見合わせていた。何の時間なのか。
「……迷惑かな? 私と話すの嫌?」
眉を顰める。
「それは否定しなかったか? 嫌だなんて思わない。綺麗だって」
口にしたはずだ。今更、躊躇う理由もない。
しかし、岩井さんは僅かに目を伏せて頬を染める。そうされることで、文脈の意味深さに気がついた。
綺麗と評しているのは宝石だ。だが、こうして岩井さん個人に対して零せば、その容姿を褒め称えているように聞こえる。それだって、間違ってはいない。岩井さんだって宝石に負けず劣らず綺麗だ。
けれど、それを伝えることの気恥ずかしさはある。ワンテンポを置いて、耳の裏が熱くなってきた。
「岩井さんと話すのは嫌いじゃないよ。言うほど話してないから、説得力なんて欠片もないだろうけど。でも、嫌いじゃない。だからこそ、感謝とかそういうやり取り以外の会話がいいよ」
屁理屈を捏ねている。うやむやにして感謝を遠ざけようとしているのは明白だっただろう。岩井さんにだって、透けていたはずだ。それでも、頑なさを解く一助にはなったらしい。
「だから、変に気にしなくていいよ。俺が気になるから手を出しただけだし」
「……分かった。灰塚君が気にしていないなら、気にしないようにする」
腑に落ちたって顔ではない。それでも、収めてくれたことにほっとした。
岩井さんにとって大事なことなのだろうということだけは脳内に留めておく。だからって、手助けしないわけでも、感謝を求めるわけでもないけれど。
「良かった……調子、よくないのか?」
聞くべきか。聞かざるべきか。逡巡はあった。だが、ここで触れないほうが妙だ。話を逸らして会話を進める術があったならば、その道を選んだだろう。俺にそんな技量はない。
「……そうだね。調子が悪いって言うより、運動能力が落ちるほどに進行してるって感じかな」
善し悪し程度の踏み込みのつもりだった。それよりも具体的な状態が寄越されるとは予想外だ。
病気のことをどう受け止めたらいいのか。そんなことをずっと考えていた。こうして耳にすると、自然に聞き入れられている。案ずるより産むが易しだ。
「どれくらい経つんだ?」
「……ちょっと座ろうか?」
「そうだね」
通路の立ち話で済ませていい話ではない。
俺はこくりと頷いて、そばの窓際の机へと移動した。机は六人掛けだが人はいないので、贅沢に使う。向かい合うだろうと思っていたが、岩井さんは隣に腰を下ろした。
落ち着かない気持ちになるのは、患者だからではなく女性だからだ。普段とは違う意識をしていることを唐突に理解して、苦いものがこみ上げる。
普段だって、その因子がゼロだったのか。否定しきれない。言葉は悪いが、野郎だったなら。俺はこうも混迷したのか分からなかった。意味のない仮定ではあるが、多少は関係している。
姿勢を正すと、深刻な話であるような気持ちになった。探り合う間合いがある。先手を打ったのは、岩井さんだ。
俺はいつでも後攻にしかなれないらしい。
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