第二章

第6話

 結局、何が変わったのかと詰められると、状態を共有したことで懸念事項がひとつ減っただけに過ぎない。

 病気であると明言されたことで、得られた安堵はある。自分の感覚に迷いを抱き続ける時間はなくなった。もちろん、その段階よりも先を気にしていたが、根本が間違っているという事態はなくなったのだ。

 岩井さんが宝石結晶病を患っている。それを秘密にしているということ。それが明確になった。それから、俺が知っていることを岩井さんが公認してくれている。それだけだ。

 これから先、どうするつもりなのか。

 そんな話は一切せずに、最初の一歩で満足して解散してしまった。そのため、患者にどうやって接するべきなのか。接していいのか。今まで通りにできないとは言ったものの、具体的な擦り合わせができていない。その悩みは何ひとつ解決しないままでいた。

 そして、あの会話で一息吐いてしまったがゆえに、再開のタイミングを完全に逸している。日数が経てば経つだけ、余計に逸らしていた。

 初日の心労に比べれば、それは細やかに気になる程度で済んではいる。それでも、岩井さんを意識せずにいられないことに変わりはないのだけれど。けれど、欠如はしていた。

 そして、岩井さんが意識しているのかどうかは分からなくなっている。気に留めてはいるのかもしれない。だが、ちょっと会話をするクラスメイトくらいの立ち位置だ。

 恐らく、俺よりも割り切っているのだろう。俺が黙っている。岩井さんにしてみれば、それが確定してしまえば俺に用件はない。

 俺だって、本来ならないはずなのだ。なくしてしまえばいい。気になるのは、俺の問題でしかない。そんなものだから、一週間などあっという間に消費する。

 岩井さんは、すっかり日常を取り戻しているようだった。そうした推測ができるくらいに、俺は岩井さんを気にかけて生活している。気をつけないと、そのうち近藤くらいには探りを受けかねない。それくらいには気にしている自覚があった。

 これをスルーできてしまう岩井さんは、実は鈍感なのでは? と疑問が浮かぶ。あの翌日に俺の視線に敏感だったのは、ひとえに事件の後であっただけに過ぎないのかもしれない。

 それはそれで大丈夫なのか。うっかりしていそうで怖い。そうして心配しているから、意識が取り除けなかった。


「お前、やっぱり何かあったの?」


 あの日からそう状態は変わっていない。つまり、ずっと考え込んだりぼーっとしたりそわそわしたりしているものだから、近藤が疑問を呈しても仕方がないというものだ。責めるのもお門違いで、俺は苦笑を零すことしかできなかった。


「まぁ、ちょっと」

「話せないことか?」

「人のことなんだよ」


 近藤とはそこまで距離が近いわけじゃない。こう言えば、不用意にくちばしを突っ込んでくる相手じゃないことは分かっていた。


「それは灰塚が気にしなきゃいけないことなのか」


 思いの外心配してくれているのが気取れて、気持ちが弛んだ。明かすつもりはないが、気持ちはありがたかった。


「そんなに気にしなくていいのかもしれないけど、割り切れないから困ってるんだよ」

「人がいいんだな、灰塚は」

「……そういうわけでもないけど」


 そう言われると、苦虫を噛み潰しそうになる。

 はたして、この意識は善意だけで成り立っているのか。自分本位の感覚は、抜けきっていない。

 知っているのに、何もせずに怪我をさせたり、破壊させたり、そうさせることに怯えている。自分の罪悪感や喪失感を埋めるためだけに、心配しているような気もしていた。

 そこまで自分本位だと信じたくはない。けれど、その疑念が拭えない。人が良いなどと言われると後ろめたかった。


「そうか? だったら、一週間も悩まないと思うけどな。まぁ、ほどほどにな」


 近藤はさっぱりしている。引き際が良いので、適度な心配で助かった。変に付き纏われると岩井さんにも迷惑がかかる。それだけは避けたかった。

 そういう意味で言えば、近藤の距離感は本当にありがたい。相槌を打って話は終わった。

 この感情もこれくらいさっぱりと切り上げられればいいのに。そう思う反面、切り捨てられるわけがないだろうという主張が大音声で脳内に響き続けている。その声があまりに大きいものだから、他の考えが浮かばないことにしてしまいたい。

 はぁと落としたため息では問題は何ひとつ解消されないが、あの日から癖に成り果てていた。






 いくら気になっていても、それが恒常的になってくれば、徐々に意識していることへの意識が薄れてくる。

 岩井さんを見ることが日常になってくると、そこまで大変な心境でもなくなってきていた。相変わらず、誰かに見つかったらからかわれるなり嫌がられるなりしそうだが。

 今のところは、岩井さんと目が合っても微笑まれるだけだ。岩井さんが気にしていないのなればいいのでは? そう居直ると、本当に意識していることへの意識が薄れてくるものだ。

 それでも、このままでいいわけじゃない。その警鐘はあった。いくら岩井さんが認知しているとしても、盗み見ていることに変わりはない。人としてマズいだろう。

 いっそのこと、仲良くでもなってしまったほうがよっぽど健全だ。だが、そのチャンスを掴める気はしない。普通に会話する機会すら見逃しているのに、そんなアグレッシブな機会を作れるわけもなかった。

 だから、中途半端。その距離感を保ち続けている。僅かな気まずさはあるが、現状維持。そこに甘えていた。

 時効までこうしているつもりか。それが嫌だから、図書室にまで会いに行ったというのに。

 そのころからすれば、岩井さんとの共通認識ができた変化がある。その面では、時効への抵抗感も薄れていた。だから、中途半端になっているのだろう。

 そうして、どっちつかずの生活していた。どこかで引っ掛かりはあったが、平坦にはなっている。しかし、引っ掛かりを覚えていたことは、いい方向への影響を及ぼした。

 それは教室でのことだ。

 岩井さんが今、宝石化しているのは腕と太腿だろう。それ以外の進行は知らないが、それでも十分に無機物に変化している。図書室での行動を思えば、運動神経が危ういところはあった。

 そんな状態で日常を送っているのだ。そりゃ、不測の事態なんていくらだってありえる。学校なんて複数人が活動しているような場所では尚のことだ。

 とんと他のクラスメイトとぶつかる。それほど強くもなかったように見えた。ぶつかったほうの女子もすぐに


「あ、ごめん」


 と軽い謝罪で済ませて行ってしまうような。そんな接触でしかなかった。その子を薄情だとは思わない。

 しかし、たたらを踏んだ岩井さんには大打撃だったようだ。ふらりと揺れたスカートの裾に、俺は身体が動いていた。近くにいたのは偶然だが、手を出せたのは意識していたからだっただろう。

 気がついたときには、肩を支える俺を岩井さんがぱちくりと見上げていた。


「大丈夫か?」

「灰塚君。ありがとう」

「どういたしまして。気をつけて」


 俺の言う注意は、他人が言うより重いだろう。それを理解して危機感を煽ろうと目論んだわけではない。気をつけて欲しいと願っているのは、本心だった。


「うん。ありがとう。助かったよ」


 繰り返されるお礼に含まれた行間くらいは読める。

 これは常に気にしているから、すぐに発想が回るというだけの話だろうけれど。けれど、病気が明るみに出なかったことも含んでいる。そう信じられた。

 倒れ込んでしまったら、太腿を目撃される可能性は高い。俺に目撃されてしまっているから、何か対応策を講じているかもしれないが。それでも、不穏な状態になりたくはないだろう。そうでなくとも、スカートがめくれるような状態は女子として避けたいだろうが。


「本当にありがとう」


 もう一度。繰り返される感謝に、俺はとんとんと支えていた肩を叩く。


「気にしなくていいから。岩井さんが無事でよかったよ。それじゃ、移動するから」


 捲し立てて去ってしまったのは、これ以上感謝されても困るからだ。大袈裟に過ぎる。だから、と理由を編み出していたが、要は困って逃げ出したに過ぎない。

 どれだけ考えていても、いざとなったらどうしていいか分からない。それに変わりはなかった。みっともないが、大過をしでかす前に離れるのが得策だろう。

 そう思うと、交流を持つのも問題が生じるのかもしれないと達した。だからと言って、ゼロにはできないのでどうしようもないが。

 教室を出る瞬間に視線を流すと、岩井さんは胸元を押さえて息を吐いていた。

 宝石結晶病の人間が、普通に暮らすのは難しいのかもしれない。いつどこでバレるか分かったもんじゃないのだ。岩井さんの日々の不安は、俺が思っているよりも強いものなのかもしれない。

 当たり前のように生活している。それを見てきたが、時折スローな動きをしているのも知っていた。だからこそ、俺はずっと視線を逸らしきれないでいたのだ。

 岩井さんは、いつまで通学できるのだろうか。分不相応にも、見守っていたいと思う。これはきっと、庇護欲だ。今までにこんな感情を抱いたことがない。だから、行動も分からないし、対応法も分からなかった。

 くまなく後手に回っているのに、感情だけが先走っている。空回りとはこういうことを言うのだろう。渋味を飲み下すことしかできなかった。

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