第5話
岩井さんは一度息を吐き出して、目を伏せた。黙考の時間を黙って待つ。それさえ圧力になるのかもしれない。だが、だからって邪魔したってどうしようもないし、急かすなんて以ての外だ。
「もう、察してるんでしょ?」
目を伏せたまま落とされた音は湿っている。断罪されるのを待っているかのような。そんな姿勢でいる岩井さんにどういえば、気を楽にしてやれるのか。
その沈黙の間に、岩井さんは確信を得てしまったようだ。その気配を読めば、小細工をしないほうがいいだろうと気を改める。ある種、やけくそと近いものであったかもしれない。
「ごめん」
「ううん。事故だから。私のほうこそ、ごめんなさい」
「どうして?」
ぎゅっと眉を顰めた。
この件において岩井さんが謝罪するのであれば、逃げ出した一点に尽きる。宝石結晶病のことで俺に謝罪することなんてひとつだってない。それはどのシチュエーションであっても、間違いなくないのだ。
「気を遣わせたでしょ? 今日、一日中落ち着かなさそうにしてたから」
岩井さんも俺を気にしていたことは分かっていた。
ただ、それは、自分の症状が俺にバレてしまったのか。そういう不安が上位にあってのことだと思っていた。よもや、こちらを気遣っての行動だったとは。いや、それは見ていたことで気がついた副次結果でしかないのかもしれない。
「それは否定しない」
否定したところで嘘だなんてバレバレだ。
嘘も方便だとは思う。たとえば、ここで岩井さんが何としても病気のことを隠したくて嘘をついたとしても、俺はそれを否定したりはしない。それがどれだけ無茶苦茶な論理だろうと何だろうと騙された振りくらいする。その嘘だって平気でつく。それほどナイーブなことだ。
だけど、岩井さんが分かっていることを空惚けても無意味だろう。元気づけられるなら話は別だが、不安にしかしない。それが分かっているから、俺は正直に打ち明ける他になかった。
「どうしたらいいのか悩んでたんだ」
「どうしたらって? 灰塚君が何かしなきゃってことはないと思うけど」
多分、岩井さんに嫌味のつもりはない。純粋な疑問なのだろう。ぱちくりと瞬く栗色には曇りがなかった。それにしたって辛辣ではあるけれど。まったくもってその通りなのだから苦い。
「知らん顔するかどうかってことだよ」
考えなかったわけではなかった。一番簡単なやり方だ。元より岩井さんに逃げられていたのだから、そこに胡座をかいて、うやむやにする。そうすれば、時間の流れに邂逅は薄れるはずだと。考えないわけもなかった。
けれど、そうして流れに身を任せて辿り着く先に待っているものは、岩井さんの死だ。そんなものは、目覚めが悪い。
自分本位ではあるけれど、誰だってそう思うだろう。知っておきながら、何もしない。その気後れは、誰だって持つ。そして、その挽回はタイミングを逃せば永遠に訪れることはない。後味の悪さはひとしおだ。それが分かっているから、知らん振りなんてできなかった。
……自分のためばっかりだ。
「……ごめんね」
「なんで? この場合、俺が謝るんじゃないか? 知らん振りできなくてごめん。知られたくなかったよな」
自分勝手さに虫唾が走る。こんなもの、単に黙っていられなかっただけだ。都合のいい真人間めいた釈明を組み立てて、人情があるような振りをして、結局自分が可愛いだけだった。
「それでも、もう、今まで通りは無理だと思う」
どれだけ頑張っても、岩井さんの存在を消すことはできない。それは最期を迎えてもなお、俺の記憶に岩井さんは残り続ける。赤い煌めきを忘れることはない。そこには好悪も何もない純然たる事実だった。
けれど、言葉選びを間違えたのだと気がついたのは、岩井さんの強ばった笑みを見たときだ。自分の迂闊っぷりに泣きたくなった。
「ごめんね。怖かったよね。気持ち悪いよね」
宝石結晶病の原因は不明。空気感染はしない。
けれど、対処法も予防法も判明していない病気だ。そんな未詳な症状のうち、空気感染しないということだけに全幅の信頼が置けるわけもなかった。信じていないわけではないのだろう。だが、信じきるには他の面での信用がない。
だから、周囲で宝石結晶病の人間が出てしまえば、もしかしたら自分もと思ってしまう。そうした忌避感は、ひどく簡素に気持ち悪さとして表に出た。怖さもある。
簡潔に言えば、差別が生まれていた。
岩井さんがそれに晒されたことがあるのかは知らない。それでも、俺の発言ひとつで、一瞬でその着想に至るほどには卑屈になっている。
気持ち悪い。
心の中で復唱して、愕然とした。縮こまっている岩井さんをまじまじと見つめる。ちっともこちらを見ない。その態度に、胸が痛んだ。
気持ち悪い? どこが? 何がだ。
「……綺麗だったよ」
ぽろっと零れた音に、岩井さんが威勢良く顔を上げた。細まっていく目には、猜疑心が走っていく。
そして、自分の発言を省みて、どっと冷や汗が噴き出た。視線が下がる。
「いや、ちが……違わないけど、貶めようとか、その、そういう意味はない。病気の進行を褒めているわけじゃないんだ。そういうつもりはまったくない。綺麗、って言うのは、その……本当に、綺麗だと思ったんだ。ちょっとしか見えなかったけど、決して気持ち悪いだなんて思わないよ。今まで通りに行かないっていうのは、今日みたいに気にせずにはいられないってことで、悪い意味はないんだ。恐れてなんてないよ」
最後の一言は、強がりであったかもしれない。
岩井さん自身を恐れてはいないけれど、宝石結晶病によってこの子はいずれ死ぬのだという現実には恐れを抱いている。それでも、目いっぱい強がって、貶しているわけではないと主張した。
目を見る勇気はない。その視線の先に、ぽつりと雫が落ちてくる。臓腑が凍って、ゆっくりと顔を上げて視界を広げた。
岩井さんの瞳からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。
「い、わい、さん。ごめん。悪かった、よ。ごめんなさい」
スムーズに言葉が出てこない。どこが岩井さんの心に傷を作ったのか。それが分からない。
やはり、綺麗は問題があっただろうか。どんなに違うんだと主張したって、岩井さんが傷付いてしまえばそれはそれだ。とにかく、謝罪するしかない。他にどうしようもない動転から、手がわきわきと宙を引っ掻いた。無様なジェスチャーだ。
その間にも、岩井さんの涙は止まらない。眼鏡を外して目元を擦っても、落ち着く気配はなかった。
「岩井さん、本当にごめん。申し訳ない。ごめんなさい。すみません」
もっとまともなことを言えないものか。馬鹿みたいに謝罪を重ねた。
岩井さんは涙を拭いながら、ぶんぶんと首を左右に振る。一体何が違うというのか。こんなに泣いているのに。
俺はどうしたら、と昨日の夜からまったく進歩のない言葉が脳に固着されて、ろくな回路は働きやしない。
「ちがうの」
岩井さんがしゃくり上げながら声を上げる。俺は宙に手を漂わせたまま、様子を見ていることしかできなかった。不甲斐ない。
「ちがうの、うれしいの」
「……え?」
そりゃ、褒め言葉のつもりだった。だから、岩井さんがそのまま受け取ってくれるのなら、それに越したことはない。けれど、こうも感銘を受けるとも思えなかった。
俺は唖然としたまま、岩井さんを見つめる。ポーズは情けないままだった。
「嬉しいっていうか、ほっとしたの……ずっと、みんな、可哀想だって言うから」
「可哀想……」
間違ってはいない。宝石化は即ちそのまま余命宣告だ。たったの十六年の人生に幕が下りる。有り体にまとめてしまえば、可哀想という感想になるのも頷けた。
「もちろん、心配とかそういうのだって分かってるし、嫌な気分になるわけじゃない。でも、どんなに言っても、宝石なんだよ? 綺麗だよ、宝石だもん。ふとした瞬間に思うときがあるの。もちろん、いつだってそう思えるわけじゃないけど、ふとしたときに綺麗だなって思うことがある。でも、そんなの認めちゃダメだって思ってた。みんな心配してくれているのに、私が気楽にそんなことを思っちゃいけないって」
捲し立てるというのとは違う。語調は緩やかだった。けれど、一単語ずつが滑らかに進んでいく。胸に置いておいた思いの丈をぶつけるかのようだった。
「今の私を否定されているような気がすることもあったよ」
ほろほろと零れ落ちる。
死の宣告だ。すべてを許容できるものでもないだろう。けれど、飲み込むしかない。そうして、飲み下している自分の姿を、他人からは容認されない。その心情はいかばかりだろうか。きっと、想像よりも多くのものを抱え込んでいるはずだ。
俺はやっぱりまともなことができなかった。
「……でも、灰塚君は綺麗って言ってくれるんだね」
「綺麗だよ」
それだけは間違いない。瞼の裏にチラつく赤い光は、今まで見たどんな宝石よりも美しいものだった。
「ありがとう……ありがとう、灰塚君」
感極まったのか。落ち着いていた涙が再び競り上がってきたようだ。岩井さんは両手を目に押し当てるようにして、鼻を啜る。何だか、こちらまで胸がいっぱいになった。
「俺のほうこそ、ありがとう」
「ありがとう?」
潤んだままの瞳が不思議そうにこちらを見る。傾げた首に連動して、ショートカットが揺れた。
「何もできないと思ってたから、役に立てたなら、よかった」
「嬉しいよ。バレたのが、灰塚君でよかった」
「秘密にするから」
そもそも、人との関係をよそに口外することはあるもんじゃない。だから、わざわざ宣誓するなんて無粋だ。だが、こればかりは言っておかなければならないような気がした。
岩井さんはその一言に、ふわりと力を抜く。これですべてが解決するわけじゃない。それでも、こちらも肩の荷が下りた。
岩井さんは目元から手を下ろす。降りきっていない中途半端さが心許なさを示しているように見えた。目元が赤くなっている。その相好が崩れた。
「ありがとう、灰塚君」
やはり、どんなことがあろうとも、赤色は消えていかない。
一片の曇りもなく、綺麗だった。
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