第4話
どうしたらいいものか。
考えることはずっと同じだ。変化も進歩もしていなかった。このままでは精神の安寧が得られない。
どうにかしなければ。
岩井さんに声をかけるタイミングが掴めなかった。どうやって声をかけるつもりなのかも、考えがまとまらない。そうこうしているうちに放課後になったのは、幸いだったのだろう。
時間は早かったかのようで、気まずさは計り知れない。とんでもない疲労感があった。明日からも同じように時間を過ごすかと思うと、とても耐えられそうにもない。
とはいえ、放課後だ。今日中に何かを改善することなど叶いそうにもない。深いため息が零れ落ちた。教室にはもう誰も残っていない。この時間まで待ってしまったのは、岩井さんが残ってくれないだろうかと一欠片の期待があったからだ。
その状況になったからと言って、動けたかどうかは分からない。正直、不動であった公算のほうが大きいだろう。それができていたのならば、声をかけて呼び出すなり、手段はいくらだってあったのだから。
そう。何も声をかけたからと言って、その場で肝要な話を切り出す必要はない。呼び出すのもそれはそれで、憶測を呼ぶかもしれないが。膠着した状態から抜け出したいのであれば、その程度の疑義は飲み込めばいい。
それを岩井さんにも強要してしまうのは申し訳ないが、向こうだって昨日の惨事をそのままにしておきたくはないだろう。でなければ、視界の端に相手を置いたりはしない。双方向であるから、おいそれといかなくなっている。
呼吸のひとつひとつが、ため息になった。そうしてどれだけ息を抜いても、感情や思考はひとつも散ってはいてくれない。どうしたものか、という言葉は頭蓋骨にへばりついてしまっていた。
どうして、昨日に限って……と思ったところで、限ってのことかも分からずにため息を飲み込んだ。
今まで岩井さんが図書室に顔を出していたのかすら覚えていない。昨日のあの瞬間まで、存在を認識していなかった。ひどい話だ。今となっては、覚えようとしなくても、忘れられないと言うのに。
でも、そうか。図書室か。いるかもしれない。いたところで動けるのか。疑念は拭えていないし、ヘタレが存分に活きる気しかしていない。
それでも、今日中抱え続けた不安定な日々をこれから先も過ごし続けるなんてのは地獄だ。勘弁して欲しい。
自分だけが知ってしまったことを、どこかに発散したかった。でも、どこにも告げることはできない。告げられるのであれば、岩井さん本人だけだ。迷惑極まりないだろうけれど。けれど、この不透明な状態を解消するには、本人への凸しかない。
当初から詰んでいたのだ。それほどに繊細なことなのに、繊細な行動を取ろうとするだけ首を絞める。突撃できるかどうかはさておき、動き出そうと鞄を持って立ち上がった。
図書室までは、そう遠くない。第一声に頭を捻っているうちに、あっという間に辿り着く。良い案なんて出てこなかった。浅薄な頭を掻き回してみても、何も出てこない。
そっと扉を開けば、図書室はいつも通りの静謐さを保っていた。緊張感が競り上がってきて、忍び足で室内に入る。逃げ出さなかっただけマシだといいとこ探しをしている自分には、ほとほと呆れた。
病気と病人。それと対峙することに怯んでいるどころか、自分の感情にすら怯んでいる。すべてにおいて後手後手で、見苦しさが身に沁みた。
まだここに、岩井さんがいると決まったわけではない。緊張していたって、どうにもならない。長く吐き出した息が図書室の床に降り積もる。そこに埋もれていたって、何ひとつ解決しない。
俺はそろそろと室内を徘徊し始めた。いつも通りと言えばいつも通りだ。けれど、いつもよりも緩慢な足取りになってしまうのを止められない。どうしたって付き纏う違和感が、動きを鈍くしていた。
見つからなければいい。そうした悪足掻きが胸底で暴れる。そのくせ、怖いものみたさのように、足は動き続けていた。矛盾と躊躇がしつこい臭いのようにまとわりついて離れない。黒い靄に包まれているような陰鬱さがあった。何度目になるかも分からない吐息を混ぜ込みながら、図書室の空気を掻き乱す。
そうして、図書室の奥。いくつか用意されている一人席の端っこ。身を隠すように人の気配があった。
昨日までの俺ならば、それが誰かなんて識別することはできなかっただろう。今となっては、その姿は記憶にも瞼にも刻み込まれていた。
スカートの長さ。足の揃え具合。姿勢。ショートカットの襟足。そのすべての要素が岩井さんを象っている。
ごくりと飲み込んだ生唾の音が、静まり返った図書室に異様に響いた。その物音にビビって停止してしまったこちらと同じように、岩井さんの手も止まる。
ひやりと滲んだ汗に運動神経が働くよりも先に、岩井さんがこちらを振り返った。栗色の猫目と眼鏡越しに目が合う。時間が止まった。呼吸すらも忘れたように、石化し合う。その時間は、岩井さんの血の色がさーっと引いてしまったことで動き出した。
「ま、待って」
このままだと、昨日の二の舞いになる。思わず出した声は、上擦っていた。岩井さんはビクビクとこちらの様子を窺ってくる。
「……な、んですか?」
敬語の距離感が痛い。
だが、今日まで話したことのない相手だ。間違っているわけではない。ただ、昨日の今日であるがゆえに、些細なことを敏感に察知し過ぎている。
「ごめん。脅かすつもりはなかったんだ。そんなに緊張しないでくれ」
一足飛びに核心を突く勇気はなかった。
だが、話し合いのテーブルに着かせなければ、何も前進しない。ひとまずは、驚かせたことを謝罪する。一日中様子を見ていたという、ストーカーのような状態だったことへの謝罪は、あんまりにもあんまりなので、口を閉じておいた。
岩井さんは胸元を押さえながら、息を吐き出す。少しは気を落ち着けられたようだ。
「近付いても?」
こんな了承を取るのもどうかと思う。変質者か? だが、ひとつひとつクリアしなければ、身動きが取れない。
僅かでも、岩井さんの不安を刺激したくなかった。それは本当に岩井さんのことを思っているのか。自分が悪役になりたくないだけなのか。どちらにしても、慎重に事を進める以外にできることはない。少なくとも、俺にはそうした前置きのようなものが必要だった。
こくんと頷いた岩井さんに胸を撫で下ろして、そばに近付く。一人席ではあるが、隣同士はさほど離れていない。そこに腰を下ろした。沈黙が落ちる。
こっちが踏み込まなきゃならないのは分かっていた。しかし、口内がカラカラに乾いていて、言葉が喉に張り付いている。ひりついて、口が開かない。
お互いに視線を外して、拳を握り締めたまま硬直する。早く、と焦燥感だけが募った。
その沈黙を破ったのは、ぎしりと椅子が軋む音だ。音に肩を竦めて顔を上げると、スカートの太腿部分を握り締めた岩井さんがいた。
「……昨日は、ごめんなさい。助けてくれたのに、逃げてしまって」
「俺のほうこそ、急に顔を出してビビらせてごめん」
思えば、いくら転びそうになったからといって、横合いから男が突然出てくる。それは病気のことがなくったって、ビビって当然だ。逃げられるのはたまったもんじゃないが、それでもおかしくはない。
それに、輪を掛けて、というものだ。その輪の部分に手を掛けなければ、近付いた意味がない。お互いに、気にかかっている部分は他にあった。
「……あのっ」
スカートを握り締めている指先が真っ白になってしまっている。あまりに強く握り込んでいるものだから、スカートの丈が引っ張られていた。困るほどではない、だろう。多分。普通なら。けれど、岩井さんにはそこに隠したいものがあるはずだ。
「岩井さん」
遮ったつもりはない。言い淀んでいたところに滑らせた。はっとしたように顔が持ち上がってくる。弱々しい顔をしているのに、唇だけは引き結ばれていた。痛切が伝わってくるようだ。
「そんなに緊張しないでいいよ。俺は、君のことをどうこうしようなんて思ってない」
直截に宝石結晶病について切り出すことはできなかった。その結果、曖昧になってしまったことで、何とも意味深な言い回しになる。下心があるような響きに、我ながらたじろいだ。
「あ、いや、ごめん。えっと……」
しどろもどろになると、余計に立場を悪くする。居心地が悪い。こんな態度をされても、岩井さんも困るはずだ。
「……あの、私」
岩井さんは多分、俺が慌てふためいている理由に気がついているのだろう。俺の仕草に言及することはなく、何度も口を開こうとしていた。俺も相当焦っているが、岩井さんも同じくらい焦りまくっている。
それに気がついたら、いくらか冷静さが戻ってきた。どれだけ言っても、いくらか、でしかないけれど。けれど、そのいくらかで上っ面を取り繕える余白が出てきただけマシだった。
「岩井さん、言いたくないのなら、言わなくていいよ」
秘密に気がついている。その宣言にも取れたはずだ。
岩井さんにしてみれば、恐ろしかったかもしれない。それでも、彼女が望まない暴露をする前に止めるには、そう言う以外を思いつかなかった。
このまま秘密裏に進むのであれば、俺はそれを受け止めるだけだ。状況を打開したいとは思っているが、岩井さんの秘密を暴きたいわけじゃない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます