第3話

 くわりと大口を開けて欠伸を漏らす。

 朝から眠気がまとわりついていた。寝不足の理由を他人に塗りたくろうなんていう気は更々ない。自業自得だ。それでも、脳を占めているのは、岩井さんのことだけだった。

 胸が軋むなんて、大それたことを言うつもりはない。それでも、教室に岩井さんの姿を見つけたときには、どきりと心臓が凍った。

 岩井さんはいつも通りに文庫本を開いている。大人しい姿が、周囲の目に留まらぬためなのではと余計な勘繰りをしている自分に嫌気が差した。

 俺は岩井さんがそうした行動を取るタイプなのか。日頃は何をしているのか。それを把握しているわけではないのだから、邪推以外の何ものでもなかった。

 いつまでも見ているわけにもいかない。視線が合ったとしても、俺にはなす術がなかった。仮に昨日のことを引き合いに出すとしても、教室のど真ん中でってわけにはいかない。

 そもそも、どう切り出すというのか。正面切って宝石結晶病なんだな、と突き出せるわけもない。昨日の岩井さんの様子を見れば、怯えさせることは明白だ。それは本意ではない。むしろ、昨日怯えさせたことを謝罪したくらいなのだ。

 そうすべきかどうかは、些か怪しい。俺は逃げられている側だ。支えただけであって、失態をしでかしたわけではない。それで謝罪を試みようという心理状況もズレている。

 普通なら、謝罪や感謝してくれてもいいんじゃないのか。そんな反発を岩井さんに抱いてもおかしくない側だ。しかし、昨日から今に至るまで、そんなことは微塵も考えなかった。

 そうした一般的なやり取りに、今回のことを落とし込むことができていない。特異な事例だと判別して、そこから動かせなかった。

 ハプニングであったのだから、特異に分類していたっておかしくはない。そこに後ろめたさに似た感情を抱くのは、岩井さんの病気が関わっているからだろう。病気を特殊に分けて、変に持ち上げている。その感覚が拭えなかった。

 だからこそ、声をかけるタイミングが分からないし、掴めない。どうしたらいいのか分からずに、暗礁に乗り上げていた。

 何もしなければいいのかもしれない。関わる必要はないはずだ。一時の邂逅にしか過ぎなかった。

 だから、このまま流してしまえばいい。まるきり忘れ去って、平穏を謳歌していればいいだけだ。何も自ら面倒事へ首を突っ込むことはない。そんなことは明々白々としていて、望んでもいなかった。

 岩井さんだって、望んではいないだろう。けれど、だからと言って、切り捨てることもできない。

 チラついて離れない輝きは、今もまだ瞼の裏に残っている。スカートの内側。そこに隠された結晶化してしまった太腿。そこへと目を向けてしまいそうになる。そんなの不審者でしかない。事情があろうがなかろうが、女子のスカート丈に目線を向けていて無事だなんてことはないだろう。

 しかし、視線を外したからと言って、岩井さんの姿が消え失せるわけではないのだ。二つ斜め前。視界には入ってくるものであるし、脳内に焼きついたものも消えない。

 忘れ去ろうとして忘れられるほど、鳥頭だったらどれだけ気が楽だったか。人間である以上、そんなことは不可能だ。交わってしまったものをゼロに戻すには、必ず余波が生じる。それでも、ゼロには戻りきらない。

 記憶から一人の人間を消去しきるなんてことは、できるはずもなかった。不可逆だ。できないことをうろうろと考え続けている不毛さといったらない。それでも、そこに縋りたくなるくらいには、すわりが悪かった。

 岩井さんとどう接したらいいのか分からない。むやみに気を遣いたくはなかった。病気だと知ったから。そんな理屈で近付きたくもないし、庇護しようなどと上位者のような立ち居振る舞いをしたくもない。

 どれだけ関わらずにいるとしても、クラスメイトだ。ふとした拍子に行動が目に入ることはあるだろう。

 そのときに、俺は澄ました顔でいられるのか。迷惑をかけない振る舞いができるのか。線を引いたような態度が取れるほど、自分に自信は持てなかった。俺は万能からはほど遠い。

 どうしたものか。

 埒の明かない繰り返しだ。ハムスターでもそろそろ飽きてもいい。犬だって自分の尻尾だと気がつくころだ。永久機関としてはウロボロスもいいところだった。


灰塚はいづか、お前何見てんの?」


 こちらを振り返ってプリントを差し出している近藤こんどうが、もう一方の手を目の前で振る。我に返った俺に、近藤は片眉を上げた。


「どうした? 大丈夫か?」

「ああ……ちょっと、寝不足なだけだよ」


 近藤とは仲が良いわけではない。前後のよしみで話をするって程度のクラスメイトだ。それでも、不審なほどに俺は分かりやすいらしい。嘘でもない返答をして、プリントを受け取った。

 その瞬間、二つ斜め前。岩井さんが後ろを振り向くタイミングで、視線が合った。ほんの一瞬でしかない。こっちもすぐにプリントを回すために後ろを向いたし、あちらもすぐにプリントを回して前を向いた。交錯は一瞬だ。目が合ったなんて、自意識過剰だとさえ思えるほどに。

 他人であったなら……もしくは、昨日の一件がなければ、気にも留めなかっただろう。それは恐らく、向こうも同じだ。

 戻った背中がこちらを振り向くような素振りを見せた。岩井さんが今までそんな態度を取ったことは一度だってない。その違和感を取り逃すほど、無縁ではいられなくなっていた。

 やはり、俺には岩井さんをスルーして生きていくなんてことは無理だ。この世に絶対なんてないと言うが、岩井さんがいずれ死んでしまうことは絶対だ。それから目を背けることもまた、絶対に無茶だった。

 一度でも認識してしまうと、それは無謀なことだと実感してしまう。それは、その日一日で痛感した。

 二つ斜め前。関わりはなかったはずだ。今までは、意識してなんかいなかった。しかし、意識があると何かと視界に入ることを知る。気持ちの持ちようで、気付きが一変していた。

 意外と視界に入っていて、目に留まる。そのうえ、今更だが、俺たちは選択授業が一緒だった。しかも、それは書道で、道具の準備のために特別教室内を移動する。

 出席番号順の席順は近くもないというのに、何かと近付くことがあった。硯を取ったり筆を洗ったり干したり、一定のラインで授業を受けていれば、行動は大きくズレない。そのため、教室に座っているよりも近付く機会が増える。

 俺だけが一方的に認知しているのなら、まだ影響力はなかったのかもしれない。しかし、当然ながら岩井さんだって、こちらへ一物を持っている。

 昨日、あれだけ派手に逃亡しているのだ。いくら岩井さんのことが分からないと言っても、出来事をまるっとなかったことにするほど大雑把な人間でないことは分かる。

 そんなものだから、ぎこちなさが漂った。正面衝突することはない。意識しているものだから、ぶつからないのだろう。それが分かるから、ぎこちなさはいや増した。互いに相手を意識しているのが、互いには透けて見える。

 他人にどう映っているかは知らないが、当事者であれば分かるものだ。視界の隅に相手を常に置いているような、絶妙な距離感。そうしておきながらも、接触することはない。

 これが甘酸っぱければ喜んだだろう。だが、そんな色鮮やかさはどこにもない。切迫するような、病状を窺うようなやり取りなのだ。

 岩井さんがどの面を意識しているのかは分からない。俺が気がついていることに確信を持っているのか。それとも、逃げ出したことなのか。誤魔化すためのタイミングを見計らっているのか。どの可能性にしても、お互いに相手を意識せずにはおれずにいる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る