第2話
部活も入っていなければ、バイトもしていない。平々凡々よりも何もない高校生活を送っている俺の放課後は、人が見れば味気ないものだろう。これといった目的もなく散歩で寄り道したり、図書室に寄ったり、そんな程度の刺激しかない。穏当な日々だ。
今日も今日とて、呑気なテンポで図書室に向かった。図書室はがらんとしている。利用者が少な過ぎて閉館してしまうのではないか。そんな不安を抱くほどに、いつだってひとけがなかった。
個人的には、それが気に入って寄り道している。だから、構わないのだけれど、いつものことながら静けさには不安を抱いたりもした。
とはいえ、所詮は悠長な危惧でしかない。すぐに忘れ去って、俺は図書室の本棚の間をゆったりと歩いた。これといった目的があるわけでもない。気になった表紙の本をなんとなく眺めて終わるときもある。
俺は別に読書家ってわけじゃなかった。ただ、読む習慣がないわけでもない。どちらかと言えば、好きなだけだった。熱中するような物事はあまりない。今まで、そうしたものに巡り会えたことはなかった。平淡な日常だろう。しかし、これはこれで満足していた。
宝石結晶病による弊害か。世間も平穏を求めている。静かな毎日が尊いとされるようなものが世間には溢れていた。俺もそこに並んで埋没している。
ふらふらと歩いていたところに人影を知覚して、足を止めた。人がいることが稀なうえに、遭遇することも少ない。そのうえ、相手はクラスメイトだ。
二つ斜め前。比較的真面目で物静かな女の子。それほど知っている間柄でもない。少なくとも、クラスでは目立たない女子だ。
だからってわけでもないが、距離を取りたくなる。あちらも本棚に夢中でこちらに気がついていないし、邪魔するのも忍びない。即座に打ち立てた言い訳に準じて、踵を返そうとした。
そのときだ。彼女がふらりと姿勢を崩したのは。
それを無視するほど人でなしに落ちるつもりはなかった。というよりも、見捨てるほどの勇気がなかったというのかもしれない。
俺は咄嗟に手を出して、彼女の肩を持って支えた。不格好だっただろう。さまにはなっていなかったはずだ。それでも、彼女が倒れるのを阻止できたのだから上等だった。
「大丈夫?」
「あ、うん。はい」
俺を見上げてくる瞳が見開かれている。返事はほぼ反射だろう。何を言っているのか自覚がなさそうだった。
「立てるか?」
俺に体重を預けたままの彼女に声をかけると、ばっと身を離そうとした。しかし身体がついていかなかったようだ。たたらを踏むように膝を折りそうになっている彼女を、再度支える。
そのときに触れた二の腕がやけに硬い。硬い……?
すぐには思考が繋がらなかった。その硬さが人体を離れているなんて、即時に理解できない。
俺の思考が結論に到達するより先に、彼女は素早く俺から身を離した。
自分の二の腕を抱いた彼女の顔色は相当に悪い。青白いを通り越して、紙っぺらのように白くなっていた。唇の血色も悪い。瞳が恐怖に怯んでいる。
危機意識がちかちかと脳内で明滅していた。
「
クラスメイトだ。名前は分かる。会話をしたことはないけれど。絞り出した声は、微かに掠れていた。そのときになって、俺だって状況に恐れを抱いていることに気がつく。
ダメだろ。人のことを恐れるなんて不躾だ。
その慄いた感情が岩井さんには届いていたのか。それとも、そんなものとは無関係にいっぱいいっぱいだったのか。俺の呼びかけなど耳にもかけず、岩井さんはだっと現場を駆け出した。その走り出しの足元が僅かにもつれている。
「ちょっと!」
危なっかしさに声が出たが、岩井さんは足を止めなかった。脱兎で逃げていく。掴まえる隙も何もあったもんじゃなかった。
掴まえたところで、何もできなかっただろうけれど。けれど、何か言わなければならなかったのではないか。そんな不安が胸中に渦巻いていた。
触れた肌の感覚が、手のひらに吸い付くように残っている。硬い肌。本を取ろうと背伸びをしただけで倒れる平衡感覚のズレ。走り出しの足元のおぼつかなさ。過剰な反応。どれを取っても、浮かんだ答えが離れていかない。
宝石結晶病。
そっぽを向いて授業を受けていた。胡散臭い覚悟という言葉が宙に浮いている。岩井さんは何を考えて、あの授業を受けていたのだろうか。俺はその日眠るまで、肌の感触が拭えなかった。
それは恐怖だっただろうか。うつるかもしれないだなんて、物騒なことを考えていたわけじゃない。そうした嫌悪感らかくる恐怖ではなかった。どちらかといえば、身近にいる宝石結晶病に対峙する自分の行動不足に対してだったかもしれない。
あんな態度を取ってしまえば、岩井さんもあんな顔色になるだろう。なんてヘタを打ったのか。失礼なことをした。その焦りだけがからからと心の中で回り続けている。
かといって、改めて声をかけていいものか。その疑問に足が縫い付けられて、翌日からもどう動いたらいいのか目処が立たなかった。
今まで他人事のように考えていたせいだ。岩井さんとは会話もしたことがないのだから、他人と言えばそれまでかもしれない。けれど、クラスメイトだ。
触れ合える相手であって、何なら実際に触れた相手だった。その距離感にいる相手が宝石結晶病。その事実に心が揺らぐ。
まさか、という思いが拭えなかった。
嘘だと思っていたわけじゃないし、現実だと思っていなかったわけでもない。親密な関係にはいなかったが、校内にそういう子がいると耳にしたことはあった。けれど、これほどの身近に患者がいたことがない。
つまり、岩井さんは時期に亡くなるのだ。それも長くても三年以内に。
二の腕は硬くなっていた。けれど、支えた肩や背中は紛れもなく人間のそれだった。その柔らかく暖かい肉体が結晶化してしまう。その現実に、ぞっとした。
ああして身体が硬直していき、もっと運動ができなくなっていく。もつれたように逃げていく足元の危うさが切実に迫ってきて、心臓が竦んだ。
それから、と思う。
岩井さんのスカートは膝丈だった。他の生徒に比べれば長めで、生真面目さを加速させているものだ。それを翻して逃げていく。その太腿辺り。その辺りがきらりと光って見えたものは、見間違えではなかったのだろう。
一瞬のことだった。だから、確証が持てない。俺は他に宝石結晶病の人間を見たことがないのだから。
……それは恐怖から逃げたい一心の言い訳に過ぎないだろう。あの感触を手にしておいて。岩井さんの反応を目の当たりにしておいて。それを確証できないと遠ざけるのは、そういうことでしかない。
惨めさが嫌になる。目を閉じていても、赤い輝きが消えていかない。指に触れた硬い感触がこびりついて離れなかった。今までは気にしたこともないクラスメイト。それを今、猛烈に意識しているのも、病気のことを知ったからだ。その事実が、また息苦しい。
あんな顔をして隠しておきたいであろう秘密だ。それを知って初めて、他人に興味を抱くのだから。挙げ句の果てに、無関係でありながら、身勝手に病気への恐怖なんてものを感じている。それは岩井さんが感じているものの千分の一にも満たないだろうに。
同情かもしれない。同情でしかないだろう。そんなものは失礼極まりない。
何の事情も知らなければ、岩井さんの個性だって何も知らないのだ。せめて、同情するのであれば、その辺りまで知ってからするものだろう。こんな同情は、可哀想だと愚弄するものだ。
信じられない。自分が罹患した際に、覚悟なんて決まるものか。教師の話にそんなことを思ったものだ。実際には、それよりもずっと状況は悪い。偏見や恐怖が先で、相手を慮ってやれなかった。
俺が気にしているのは、岩井さんの症状についてではない。岩井さんに対する接し方について。そんな自分本位なものだ。罪悪感が芽生える。そんなものを抱いていることすらも、上から目線で嫌な胸中だ。すぐにでも捨て去りたい。
けれども、硬質な手触りと煌めきが消えることはなかった。衝撃が身体を支配して、他のことが考えられない。
強烈なまでに、岩井さんの姿が焼きついて離れなかった。
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