第5話
頬に何かが触れた感覚がして、意識は一気に浮上する。強い雨の音が聞こえる。
毛布に包まれた感触と、近くに誰かがいる気配がして、手だけで周りのものを探った。
けれど手はすぐに誰かの大きな手に受け止められて、再び毛布の中に戻される。もう一度やってみても、また手は毛布の中に戻され、そうして出せないように毛布が迫って来た。
目を瞑ったままでは辺りの様子が掴めなくなってしまった私は、眉間に皺を寄せた。
「んー」
身体をもぞもぞ動かしても、手は出ない。毛布がぐるぐる巻きされているかのように、固定されているようだった。
「うー」
むずがる赤ん坊のように首を竦める。浮上していた意識は、時折、微睡の中に沈んだ。
「う゛ーっ」
目を開けたいのに、上手く開けられない。周りの事が無性に知りたいのに、周りの事を探れない。なんだかすごく不自由に感じて、毛布の中でもぞもぞと動き回る。
そうしていると、ぱっと瞼の向こう側が明るくなった。
それで一気に意識が覚醒する。それまで少しも開けなかった瞼が、簡単に持ち上がった。
「ぅ、あれ?」
見慣れた天井、天井から釣り下がる照明とそこから垂れ下がるスイッチの紐。そうしてスイッチの紐に手を掛けて、今まさに電気を付けたのであろうサングラス越しの金の瞳がこちらを覗いていた。
「起きたか」
「お、はよう?」
「おはよう」
起きあがろうとしてみると、身体が上手く動かせない。それは身体の重い怠さのせいもあったけれど、物理的にも動かせなくて、唯一動かせる首だけで自身の身体を見ると、毛布で簀巻きにされていた。
「凄い簀巻き。川に捨てられちゃいそうな簀巻き」
「お前さんがあいも変わらず寝相が凄まじいんでな。最初は下半身だけ簀巻きだったんだが、ついさっき遂に全身まで及んだよ」
身体に体力が無いのに何であんなに転がれるんだ、とイプシロンは大量の疑問符を頭に浮かべていた。どうやらいつものようにベッドの中を動き回り、挙げ句の果てには転がり落ちたらしい。まるで記憶には無いけれど、床の上で目が覚める事の多い私は、ベッドの上に留まらせる事に苦労したらしいイプシロンに愛想笑いをした。
簀巻きを取ってもらって、上半身だけ起き上がる。大熱が出た後のように、身体は重い。
「あれって夢じゃ無いんだ」
「夢の方が良かったか?」
「いや、そりゃあ平和に越した事無いし」
「悪いが、現実だ」
「そっかぁ」
じゃあ、しょうがないか、と呟くと、イプシロンは何だか変な顔をした。
「どうしたの?」
「いや、戦士に対する感情とお前さんに対する感情がないまぜになっただけだ。気にするな」
「そっか?」
意味はよく分からなかったけれど、気にするなと言われたので、気にしない事にした。
その時、扉がノックされる音が響く。
「はーい」
返事をすると、扉が開き、母が顔を出す。
「あら、千陽起きたのね」
手にはお盆を抱えた母は、イプシロン用と千陽が起きた用に飲み物を運んで来たらしい。部屋の中に入り、ベッド脇の勉強机にコップに入った飲み物とペットボトルの飲み物を置く。
その横姿をじっと見つめていると、視線に気がついた母が首を傾げる。
「どうしたの?」
「お母さん、手、握っても良い?」
「あら、良いわよ」
はい、と出された手を握る。普通の女性よりも少し幅広くて厚い母の手は、いつも通り暖かくて、幼い頃から握っていた手だった。
両手で抱えるようにして握った手を顔の前に持ってきて、そこに顔を埋める。
怖かった。あの時、瓦礫に潰されそうになったあの時、怖かった。もうずっと会っていないような気がして、母の手を強く握る。
「どうしたの? 何かあった?」
優しい声が降り注ぐ。きっと今までの事全部話しても、母は受け止めてくれるのだろうな、と漠然と思う。
「ううん、何でも無い。ただお母さんに会いたかったなってだけ」
それでも、全部話してしまったら心配をかけてしまうから、何も言わない事にした。母が知らなくても、イプシロンは知っている。自分を大事にしてくれる人で、そうして秘密を知ってくれている人が一人でも居るのなら、それで良いと思った。
母は、黙っている私をただ優しく撫でた。もしかしたら隠し事をしていると分かっているのかも知れなかったが、それでもそれ以上は聞いてこなかった。
顔を上げると、二人が何か言いたげに、言葉も無く視線を交わしていた。首を傾げていると、母は微笑み、また私の頭を撫でる。
「イプシロンさんに聞いたわ。合流した後、疲れて眠ってしまったって。勉強会、かなりハードだったのね」
母は私の頭を撫で終えると、また夕ご飯の時間になったら呼びに来ると言い置いて、離れて行った。
「イプシロンさんもご飯食べて行って下さいね」
扉が閉まり、階段から降りる足音が遠ざかっていく。
「イプニイ、黙っててくれたんだね」
「あー、まあ、結果的にそう言う話になった」
「そっか」
ありがとう、と返せば、また彼は変な顔をした。
「お前さんは」
「うん?」
「お前さんはこれから戦う事になる」
「うん」
「こちらが勝手に決めた話だ。人間を滅ぼそうとする彼方側と、ただ滅ぼすだけでは哀れだからと最後の希望として残されたお前さんの力。力は代償を食う。使い過ぎれば、それ以前に戦士として戦っていれば命の危険がある可能性が高い」
「思ってたけど、やっぱめっちゃ危ないじゃん。びびるわ」
勢いと考えなしと覚悟、あとは好みすぎるあまりその顔をされたら弱いって顔で戦士になったけれど、どうやらかなり危ないらしい事が再確認された。分かってはいた事だが、改めて言われてしまうと少しだけびびる。
「悪いな。だがもう決まった事だ、諦めてくれ」
「強引すぎない?」
「神なんてそんなもんだ」
「イプニイも神なの?」
別に謎の正体が知りたいとか、命が助かった時の絡繰を知りたいとか、そう言う訳ではなかったけれど、なんとなく聞いてみる。本当になんとなくだ。答えてくれなくても、何の問題も疑いもない。イプシロンがこちらの味方なのだと言っていたから、それだけで良かった。
「どう思う?」
「いや、ううん。宿題手伝ってくれるから神様みたいな時もあるし、対戦ゲームで物理で妨害する時あるから悪魔みたいな時もあるな、とは思う。後、煙草吸った後にすっごい酒焼けの声であ゛ーって声出すのはちょっとおじさん臭いなって思う」
「おう、突然のちくちく言葉やめろ」
「あはは、まあニイが味方なら何だって良いや。これからも一緒に居てくれるなら、神様でも悪魔でもおじさんでも、何でも良いよ」
「そうか」
息を吐き出すように言った口元は引き締まっていたけれど、サングラスの奥の瞳が柔らかく細まっていた。
イプシロンの腕が伸びて、指先が前髪をはらう。
「俺が必ずお前さんを生かす。だから、運のない事に身勝手な神に選ばれたと笑って蹴散らしてくれ」
笑って蹴散らせるだろうか、自信としては五分五分だった。でも、イプシロンの声がどこか懇願するような声だったから、好きな顔が困ったように眉間に皺を寄せていたから。
「任された」
私はブイサインをして、何も考えずに安請け合いをしたのだ。
灯りを消した部屋の中、窓際に佇めば、胸元のペンダントが月の光を吸い込んで、きらりと光った。
それを持ち上げて光に翳す。赤い石が透けて、淡く光を放っていた。
どこかで見た花の色。イプシロンが私の色だと言った色。希望にも絶望にもなりうる色。
光が石の中で屈折して、部屋の中に星の灯りを灯す。
それをぼんやり見ながら、ふと思い出した。指輪の力によって髪色が変わったあの時、あの時染まった色はそう、赤い石と同じ色だった。
希望の色、戦士の私の髪の色、私の赤色。そうして、あの夜降って来た星の色。
希望になるのだと決めている。彼の希望になりたいのだ。けして約束は違えず、彼が喜ぶ姿になりたいのだ。彼の隣に居たいのだ。
怖いけれど、痛いのは嫌だけれど、一緒に居られなくなるのはもっと嫌だった。
「強い希望の戦士になるからね」
ペンダントに語りかけて、そっとそれを仕舞った。
星の叫びに木霊する赤 九十九 @chimaira
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