別れ 1
久しぶりに会うラルフは、相変わらず洒脱で、変な方向におしゃれだった。たとえば首に巻いた紫色のスカーフは金色の髪と全く合っていなかったし、暑い国なのになぜ羊毛のベストを着ているのか、謎でしかない。
それでも、彼がせいいっぱいのおしゃれをしていることは、なんとなく、理解できた。まるでクジャクのように飾り立て、彼は俺に会いに来た……。
狭い宿を出て、俺はラルフを浜辺へ誘った。遠浅の海岸は、きれいな砂浜だった。海は穏やかに広がり、ゆるやかな青い波が押し寄せては引き、引いては押し寄せてくる。
滑らかな砂の上を、ラルフと二人、さくさくと歩いて行く。
ラルフは無言だった。俺も、何から話していいかわからない。ただひたすら、細かい砂の上を歩く。
「気にしているようだから言うが、ユベール将軍の送致先は
バーンは、古くからのアンゲルの保養地だ。田園地帯に湧き出る温泉は、特に傷の治りに効果があるといわれている。
ラルフは言わなかったが、この地が選ばれたことは、彼のお陰だということは、すぐにわかった。彼の従姉妹か誰かが、外務大臣と結婚しているのだ。
俺は立ち止まった。後からついてくる形になっていたラルフを振り返った。
「ありがとう、ラルフ。君にお礼を言わなくちゃならないことがたくさんある。オハラ
ふんと、ラルフが鼻を鳴らした。
「なぜ君が礼を? 俺はユートパクス軍に恩を売っただけだ」
「シャルワーヌが怪我をした時、まっ先に頭に浮かんだのは、ラルフ、君のことだった。他は、何も考えられなかった」
「俺を頼ってくれて嬉しい」
「違う。違うんだ、ラルフ……」
ティオンで、前世の記憶を取り戻したことを、俺は話した。
ラルフは平静だった。どうやら彼は、予見していたようだ。
「やっぱりオーディン・マークスか。彼との会見が、君に悪影響を与えたのだな。だから、転生の際に、記憶を失ってしまったのだ。君を、大使にしなければよかった」
俺が話し終わるとラルフは唇を噛んだ。なぜか用心深げに続けた。
「記憶を失うほど辛い思いを、君にさせてしまった」
「いいや、違うんだ。オーディンは言った。もし俺が……」
声が裏返った。
「もし俺が、シャルワーヌに近づくようなことがあれば、彼を殺すと」
一瞬の間があった。
すぐにラルフが沈黙を埋める。
「ジウ王子の姿で再会してすぐ、オーディンはシャルワーヌを愛していると君は言ったな。そして、自分は彼の恋敵だと」
ソンブル大陸を脱出するオーディン一味に拉致された時のことだ。助けに来てくれたラルフに、そんな話をしたことを思い出した。
でもそれは、
「記憶を取り戻してわかったろう? オーディンが嫉妬し、憎んでいたのは、最初からジウではなかった。君だ、エドガルド」
船倉に囚われた俺の前でオーディンが言い放った言葉が蘇る。
……「だが君(ジウ)は、あの男によく似ている。その反抗的な態度や眼差し……恋敵であるところまで、そっくり相似形を保っている」
「あの男というのは、エドガルド、君だ。ジウなんかじゃない。オーディンは君を、君だけを警戒していた。なぜだと思う?」
「なぜって……」
俺はひどく混乱していた。ラルフの意図がわからない。
疲れたように、ラルフは、自分の問いの答えを口にした。
「シャルワーヌが本当に愛しているのは、君だということだ」
シャルワーヌが俺を。
オーディンではなく、俺を?
全身が、かっと火照った。
今までシャルワーヌの気持なんか、考えたこともなかった。いや、彼はオーディンに夢中だと決めつけていたのだ。
こんな風にラルフから、彼の気持ちを教えられるなんて!
全てを打ち明け、懺悔しなければならないと、痛切に思った。その結果、ラルフから嫌われても仕方がない。それだけのことを、俺は彼にしてきたのだから。
「俺は随分、君を傷つけた。エイクレで俺は言ったよな。……か、体だけの関係ならいいと。それはつまり……」
「君が愛していたのは、シャルワーヌだったということだ。わかっていたよ、そんなこと」
「許してほしい、ラルフ」
「許す? なぜ? 君こそ怒っていないのか? 俺は君の無知を利用し、シャルワーヌに代わって君の恋人に成りすました」
ラルフの顔は慙愧に歪んでいた。俺は驚いた。お気楽なラルフが、こんな顔をするなんて……。
「怒ってなんかいない。怒るわけがない。俺だって君が好きだった、ラルフ。ただ……」
「君には
言葉を濁した俺の先を、ラルフが続けた。胸が抉られるほど辛い。ラルフを拒絶しなければならないことが、死ぬほど苦しい。
でも、そうしなければならない。だって、嘘は吐けない。俺はシャルワーヌを愛している。
青い眼差しが、食い入るように俺を見つめている。
「まだ俺のことを好きと言ってくれるのか。それじゃ、君は俺を許してくれるんだな。ジウに転移した君の混乱を利用し、君の恋人になりすましたこの俺を」
その声は震えていた。どうしてラルフは、俺が怒っているなどと思ったのだろう。どうしてこんなにも自分を責め、俺の許しを乞おうとするのか。
「許すとか……そんなの、考えなくていい。いつだって君は公正だった。だからシャルワーヌと紳士同盟なんか結んで、お互いに牽制し合った」
「エドガルド……」
何か言いかけ、ラルフが口を鎖す。
謝らなければ。強く俺は思った。
「悪いのは俺の方だ。俺は君の好意を利用した。最後の最後まで、君を頼った」
「君は俺を好きだと言ったばかりじゃないか。ジウに転移してからは、本気で俺に恋してくれていた。そうだろ?」
「ごめん、ラルフ。許してほしい」
「……なぜ? なぜ謝る?」
好きかと問われ、謝罪する……これほど残酷な拒絶が、この世にあるだろうか? だが俺がそのことに気がついたのは、随分後になってからのことだ。
青い目が僅かに黒ずみ、絶望に沈んでいった。間近でそれをつぶさに見つめ、息が詰まるほどの苦痛に押しつぶされそうになった。
もうこれ以上は無理だ。こうして、穏やかな海辺を二人で歩くのは。
ラルフの側で呼吸を続けるのは!
不意にラルフが立ち止まった。
「御覧、エドガルド。この浜の砂は、星の形をしている」
屈みこみ、彼は砂を掬った。掌に載せ俺の目の前に付き出す。
小さな粒からは、確かに、不規則な5つの棘が突き出ていた。
「希望を持ってもいいか? 君は、リオン号に帰って来るよな?」
「ごめん、ラルフ。リオン号にはもう戻れない」
指の間から、さらさらと砂が零れ落ちた。彼は立ち上がり、ぱんぱんと両手を打ち合わせ、残った砂を払い落とした。
「バーンへ行きたいのなら、船を出そう。さすがに軍艦というわけにはいかないが」
わざとらしく吹っ切れたように装っている。
「アンゲルへは行かない。俺は、ユートパクスへ行く」
帰る、とは言えなかった。あそこは今、王ではない別の政体が政権を牛耳っている。
ラルフの顔が驚愕に歪んだ。
「ユートパクスへ? 気は確かか?」
ユートパクスは今、亡命貴族への取り締まりが一層の厳しさを増している。捕まれば即、処刑だ。
それは、首席大臣となったオーディンが、最初に打ち出した施策だった。
「わかっているのか、エドガルド。オーディンが本当に殺したいのは、君だ。前世の君の死を、彼は確認していない。どこかで生きていると思っているのだ。事実、君は、今、ここで生きている」
「そうだな。だから、戦うのだよ」
「戦う?」
「ユートパクスの西の海岸では、王党派が住民と結びついて、大規模な蜂起を起こしている。そこへ、加勢に行こうと思う」
ラルフはぎょっとした顔になった。
「何を言う。西海岸の蜂起軍は、武器も少なく、兵士と言ったら戦闘経験のない農民ばかりなんだぞ? そこへ行こうとするなんて……死ににいくようなものだ」
「俺の運が強いのは知っているよな?」
「運が強い奴が死んだりするものか!」
普段の落ち着きをすっかり忘れ、ラルフが大声を出した。
「行ってはいけない。君のその体はジウだ。元通りの頑健な体ではない。か弱いジウなんだぞ!」
「一度死んだんだ。うまくやるさ、今度こそ」
「西の海岸部では、戦死者に加え、餓死者や病死者の数もうなぎ上りに増えている。そこへ行こうなんて……」
言葉を詰まらせた。
「もう二度と、君を失うのはいやだ。身を切られるほどの苦痛と悲しみは、金輪際、味わいたくない」
乾いた目を見開いたまま、砂漠の真ん中に突っ立っているラルフの姿を思い浮かべた。ヴィレルが話してくれた。俺を弔った後、彼はものも食べず、ただやせ細っていったのだという。
「今度は死なない。誓うよ、ラルフ。自分を大切にする」
「信じられるか。君は絶対、無理をする。食事を忘れて堡塁を造営し、戦いに邁進するに違いない。エイクレでそうであったように。だが、何度でも言おう。今の君の体はエドガルドではない。弱いジウなんだ」
「わかってるって。無理はしない。それよりラルフ。最後の頼みがある」
「最後なんて言うな!」
強い語調だった。本気で怒っている声だ。でも本当に、これでおしまいにしなければ。
ラルフを頼るのは嫌だった。申し訳なさすぎる。けれどこれは、俺一人の問題じゃない。
「ムメール族の
「ああ、イサクとかいう、若い男だろ? つい最近、代替わりした」
さすがに情報が早い。
「彼は俺を助けてくれた。その結果、タルキア軍のキャプテン・アガの怒りを買う結果になってしまって」
詳しい話をするつもりはない。
「彼には恩がある。イサクは、自分と部族の身は自分で守れると言っているが、もし彼の力が及ばない場合は、手助けをしてやってほしい」
「いくら俺だって万能ではないぞ」
ラルフは不機嫌だった。詳細を聞かせてもらえない上に、簡単に寝返る仲間、というか、いっそ敵を助けるよう頼まれたのだから、当然だろう。
「ちょっとだけ、アガに耳打ちしてくれればいいんだ。イサクは俺の友人だ。そのイサクを害すれば、カンダーナ皇帝の……」
言いかけて、ためらった。好意を振り切り、逃亡同様にいなくなってしまった俺を、タルキアの皇帝は許してくれるだろうか……。
そのためらいを、ラルフは正確に掬い取ったようだ。肩を竦め、吐き捨てるようにつぶやいた。
「気にすることはない。何があったか知らないが、皇帝は怒っていないと言っていた」
不意に、ティオンでの日々が脳裏によみがえった。色鮮やかな花、青い空に飛び去っていく南国の鳥、不思議な調べ、俺にだけ聞かせてくれた、低い歌声……。
皇帝が赦してくれたことに、腹の底から安堵した。
「キャプテン・アガが、イサクと彼の一族を害そうとしたら、俺の名前を出して、こう言ってくれ。皇帝は、それを決してお許しにならないだろう、と」
深い吐息とともに、ラルフは吐き捨てた。
「だから君をティオンへなんか、やりたくなかったんだ……」
そういえば、最後までラルフは、俺がティオンへ行くことに反対していた。最終的にはヴィレルも加勢して、しぶしぶ折れたのだった。
「皇帝は、何もなさらなかったよ。君が考えているようなことは」
「わかってるって」
諦めたように言ってから、きっと俺を見据えた。
「そのムメール族の件は引き受けよう。だが繰り返すようだが、この件を、君の最後の頼みにするつもりはないからな」
「感謝する。どうかイサクを頼む」
俺だ。俺がしっかりすればいいのだ。ラルフに迷惑を掛けないように、もう二度と、彼の手を煩わせることのないように。
「一番いいのは、君が俺と一緒に残って、キャプテン・アガに直接そう言うことだが……」
青い目に痛々しい傷を浮かべ、ラルフはまだ、説得を続けようとする。そんな彼を、俺は遮った。
「もう決めたんだ。俺は、王党派の蜂起軍に参加する」
「そりゃ、俺としては……、なあ、エドガルド。やっぱり君はバーンへ行け。ユベール将軍のそばについていてやるがいい」
そう言う声は、幽かに震えていた。それがラルフにとってどんなに辛い譲歩か、俺には痛いほどよくわかった。シャルワーヌの側に行け、などと口にすることは。
「俺はもう二度と、彼とは会わない」
「なんだって?」
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Ⅱ章「ジウの嫉妬」にございます
https://kakuyomu.jp/works/16817330665612772654/episodes/16817330666978471042
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