紳士同盟
自分の記憶が今のエドガルドに残っていないと指摘され、シャルワーヌは黙り込んでしまった。その彼に、ラルフはさらに追い打ちをかける。
「いずれにしろ彼は貴方には渡しません。今度こそ、最初から私のものにするんだ」
「最初から?」
「いえ、こっちの話」
ラルフは、エドガルドとシャルワーヌの関係をある程度知っている。もちろん、エドガルドは詳しく語らないから、詳しいことはわからない。ただ、二人が相思相愛の恋仲であったことは、悔しいけど、身をもって理解している。
けれど、シャルワーヌは違う。彼が知っているのはただ、エドガルドが死の寸前まで、ラルフの傍らで共に戦っていたということだけだ。勘の鋭い彼は、それで全てを察したようだが。
猜疑に満ちた眼差しがラルフを睨んでいる。
「俺だってむざむざ、彼を君に渡すつもりはない。いいか。18歳になるまで手を出すなよ」
威嚇するように歯を剥き出している。ラルフはむっとした。
「私がそんな鬼畜のような真似をするものですか。貴方こそ、彼に手出しをしたら、ただじゃおきませんからね」
「手出し? どうやって? 彼は、君の船にいるんだぞ」
そういう声には、どこか余裕があった。ラルフは薄笑いを浮かべた。
「18歳になる前に、彼を攫うつもりででもいるんですか?」
「ふん。卑怯なアンゲル人に、手の内を晒すような真似をするものか」
「お手並み拝見というところですね」
再び二人は睨み合った。
「俺は誓う」
改まった声でシャルワーヌが言う。
「エドガルドには絶対、手を出さない。彼が18歳になるまで。だから、君も、俺と同じように誓って欲しい」
今までとは打って変わった真摯な態度だった。ラルフは目を見開いた。
「彼は君の船にいる。君の方が圧倒的に有利だ。だがそれは、彼の前世からの繋がりで、俺にはどうしようもない。俺は……」
悔しそうに歯噛みした。一瞬だった。すぐに、全てを洗い落としたような静謐な表情に戻った。
「俺は、エドガルドの判断の邪魔はしない。だが、今の彼は、ジウの体に宿っている。弱くて脆い、異国の王子だ。ジウは、俺の庇護下にいた。今は違うが。つまり自ら君の元に……ああっ!」
静謐な表情は一瞬で消え失せ、髪を掻き毟り始めた。どうやら自分が言いたいことがわからなくなってしまったようだ。
「わかりました。私もあなたと同じことを誓いましょう」
彼の意を汲み取り、ラルフは提案する。
「ここはひとつ、紳士同盟といきましょう」
「紳士同盟?」
「彼が18歳になるまで、貴方は彼に手を出さない。もちろん私も、彼には触れない」
成人するまでは、性的な交渉は控えてくれというのは、そもそもは、エドガルドからラルフへ出された要望だ。恋人間の取り決めだから、シャルワーヌは関係ない。彼は、全くの部外者、門の外、第三者だ。
エドガルドは、前世からの恋人は、ラルフだけだと思っている。だから、シャルワーヌのことなぞ相手にする必要はない。エドガルドに近づかないように警戒していれば、それでいい。
そうは言ってもシャルワーヌは、執念深い男だ。ちゃらんぽらんなようでいて一途で、思い詰めると何をしでかすかわからない突拍子のなさ、とういうか、非常識が、この男にはある。
「紳士同盟」は、だから悪い選択ではない。ラルフと同盟を結んでいたら、彼もまた、同じ鎖に縛られることになる。エドガルドに手が出せなくなる。少なくとも、18歳の誕生日まで、エドガルドは安全だ。言い換えれば、ラルフが彼の成長を見守っている間、シャルワーヌもまた、手を出せないということになる。
ラルフはじっくりと相手を見た。浅黒い肌の、頬に傷のある将軍が、ラルフと同じ瞳の強さで見つめ返している。
「いいだろう」
右手を出してきた。すぐに握り返す。剣だこのある、がっしりとした手だった。
しっかりと手と手を握り合ったまま、目を合わせる。濃い色の瞳と青い眼がぶつかり合う。
頭の上を舞っていたカモメが、猫のような声で鳴き交わしながら、洋上遠くへと飛び去っていった。
「俺は、男の手をいつまでも握っている習慣はないのでだが」
しばらくして、シャルワーヌが口を開いた。
「私だって同じです、たった一人を除いて」
「ああ?」
「握ったっていいでしょ、彼の手ぐらい」
「あんたなあ、」
深いため息をついた。期せずして、二人は同時に、相手を振り払うようにして手を離した。
「ワイズ将軍の命令で、俺は、早急にユートパクスへ帰らなくちゃならない。その前に、彼と二人きりで話をしたい」
シャルワーヌは、しきりと外套に手を擦りつけている。
「話す? 何を?」
瀟洒なハンカチーフで指を一本一本、丁寧に拭いながら、ラルフが問い返す。
「何だっていいだろ。個人的なことだ」
「道中御無事を祈りますよ。でも、エドガルドに会うのはダメです」
「しばらく彼に会えないんだぞ? 別れを告げるだけだ」
「へえ。別れをねえ」
「なんだその疑い深い眼差しは! エドガルドは奴隷じゃない。なら、会いに行くのも自由だよな?」
「この船は私の支配下にあります。勝手な行動は許しません」
「何を偉そうに。自分だけ彼の手を握りやがって」
「秒で振り払われました。わかるでしょ」
エドガルドの性格を考え、その情景が頭に浮かんだようだ。にやりとシャルワーヌは口元を歪めた。
「話すだけだ。だって今、紳士同盟を結んだばかりじゃないか。俺は、彼をあんたの船に置いていくんだぞ。あんたを信じているからだ」
しつこくシャルワーヌが食い下がる。ついにラルフも諦めた。
「まあ、いいでしょう。許可します」
シャルワーヌがエドガルドに何を話したがっているか、だいたい、予想がついた。エドガルドの転生後、自分が忘れ去られたことが耐えがたいのだ。
ラルフの部下のルグランや、亡命貴族の仲間たちは、エドガルドの記憶の欠落を補おうといろいろなことを試みてきた。ディスカッションはもちろん、記憶力向上に効果があるというバナナやチョコレートを食べさせたり(記憶力向上はちょっと違うのではないかとラルフは思った)、不意に物陰から脅かすということまでやっていた。
しかしいずれも効果はなかった。
もちろんラルフとしては、エドガルドには永遠に、シャルワーヌのことなど忘れていてもらいたい。だから、部下達のやっていることを、冷ややかに眺めていたものだ。
ラルフには、自信があった。ルグラン達がこれだけやってダメだったのだ。今更シャルワーヌが何をしようと、エドガルドが彼のことなど思い出すわけがない。
「許可する?」
きょとんとして鸚鵡返し、シャルワーヌはラルフを見つめた。反対されると思っていたらしい。
「私は海の男ですからね。懐が広いのです。彼の健やかな成長と、健全な育成の為にも、紳士同盟は守られねばなりません。あなたのことですよ?」
「もちろんだ。恩に着る」
短く告げると、シャルワーヌは、脱兎のように駆け出していった。どうやらラルフの気が変わらないうちに、エドガルドをつかまえようという腹らしい。
その背中が見えなくなってしまうと、ラルフは、がっくりと肩を落とした。張りつめていた気持ちが、急激に緩んでいく。
それまで必死で抑えていた慙愧の念が、どっと沸き出してきた。
……上ザイードで彼が剣舞を舞った時、俺は彼の剣先をよけた。
……シャルワーヌはよけなかった。
……アソムの剣に毒が塗ってあると知らされた時、俺は侍従を拘束していた手を放してしまった。
……シャルワーヌはがむしゃらに、エドガルドを庇った。
シャルワーヌは、彼のことを、ジウと呼んだり、エドガルドと呼んだり、自在に使い分けている。
ラルフはまた、リオン号で行われたタルキア大使との会議を思い出した。話し合いが始まってすぐ、シャルワーヌは、ウテナ国の保全を申し出た。あの時彼は、ジウの為に彼の祖国の安全を願ったのだ。
……どうしてあの男は、ジウの地続きでエドガルドを見ることができるのだろう。
ラルフにとって、エドガルドはどうしたってエドガルドだった。むしろ、今のジウの外見が怪訝なくらいだ。慣れの問題だとは思うのだが……。
しかし、ジウと呼んで欲しいというのは、エドガルドの最初の希望だったはずだ(*)。なし崩し的にラルフは、それを反故にし、エドガルドと呼んでしまっている。
シャルワーヌがジウであったエドガルドをごく自然に受け容れているらしい様子もまた、ラルフを落ち着かない気持ちにさせた。
彼に負けたのだろうか。
考え、ラルフは首を横に振った。
少なくとも自分は、オーディン・マークス、エドガルドを殺した男の愛人ではない。
【後書き】
*Ⅱ章「青の間」
https://kakuyomu.jp/works/16817330665612772654/episodes/16817330666947114109
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