青の間



 夕食後、エドガルドの姿が見えないことに、ラルフは気がついた。外洋にいたラルフは、しばらく彼に会っていない。

 更なる酒を勧めるシャルキュ太守を断ると、太守はにやりと笑った。


「宮殿の青の間へ行ってみるがいい」


 要塞の背後は、街になっていた。最も要塞に近接して、太守の宮殿がある。宮殿の一室を、ラルフとエドガルドは与えられていた。

 青の間は、エドガルドの部屋だ。


 窓辺の、広い大理石の上にエドガルドは座っていた。両足を窓枠に乗せ、片膝を抱えるようにして外を見ている。


「エドガルド」


ラルフが呼ぶと物憂げな目を向けた。


「君か、ラルフ。何か用か?」

「用がなきゃ、来ちゃいけないのか?」

「そうでもないが」


 はっきりしない口調だった。どうやら彼も、シャルキュ太守に散々に飲まされたらしい。


「君に……感謝しないといけないな」

珍しく殊勝なことを口にする。

「感謝?」

「うん。タルキア兵だ。やつら、俺の言うことはさっぱり聞かなかったくせに、君が帰ってきた途端、従順になりやがって」

「それはあれだ。俺の持ってきた武器弾薬のお陰だ。あれで勝算がついたんだろ」

「その上俺は、ユートパクスとの交渉に失敗した」


 アンゲル海軍の提案した休戦協定は、ユートパクス軍から拒否された。その大使役が、エドガルドだった。


「失敗ではない。交渉決裂は、織り込み済みだ」

ラルフが言うと、深いため息をエドガルドが吐いた。

「俺はどうしたって、君に敵わない」

ラルフは呆れた。

「敵わないって、俺をライバルかなんかだと思っていたのか? 違うぞ。ライバルなんかじゃない。俺は君の生涯の伴侶で、」


「ラルフ。君は、父上と母上に大事にされて育った。俺とは違う。自分を粗末にするな」

「……」

 打って変わった強い語調に、ラルフは続きを呑みこんでしまった。

「そういえば、俺は君のことは、何も知らない。ご家族とか、生い立ちとか」


 エドガルドについて知っているのは、貴族であることを除けば、シテ(ユートパクスの首都)の士官学校で、オーディン・マークスの同窓生だったことくらいだ。


「俺の母は、俺を産む時に亡くなった。愛する妻の命を奪って生まれてきた俺を、父は許せなかった。彼は、俺の養育を放棄した」

「だってそれは、君のせいじゃない!」


ラルフは憤ったが、エドガルドは肩を竦めただけだった。


「赤子だった俺は、伯父に引き取られた。後は、他の地方貴族と同じだ。八歳になると寄宿制の幼年学校に入り、それから首都シテの士官学校で学ばせてもらった。そんなに悪い人生じゃなかったよ」

「……」


 つまりエドガルドは、両親の愛を知らずに育ったのだ。悪い人生ではなかったというが、恐らくろくに伯父の家に帰ることもなかったろう。


「エドガルド、君の出身地は?」

「シュエル地方だ」

「シュエル!」


 革命政府への大規模蜂起のあった場所だ。シュエルのシュール港で、ラルフはエドガルドと出会った。

 自分の出身地の内乱だというのに、あの時彼は、淡々としていた。王党派の死刑囚を救うことしか考えていなかった。

 もっと言えば、王に忠誠を尽くすことしか……。


 エドガルドにとって王とは、失った肉親の代替なのかもしれないと、ラルフは思った。あの醜く太ったブルコンデ18世が、彼にとっての父親代わりだとしたら……。

 思わず彼は、エドガルドを抱きしめていた。


「温かいな、君の腕の中は」


 いつものような、ぴしゃりとした拒絶はなかった。代わりにぼんやりとした声が返した。

 やっぱり酔っているのだと、ラルフは思った。そして、シャルキュ太守の意気な計らいに乗ることにした。


 だってもう、待てない。随分自分は、我慢を重ねてきた。


 広い窓枠に押し倒した。素直に、エドガルドはされるがままになっている。

 許された気になり、ラルフは胸の紐をほどき始めた。だがユートパクス貴族の衣類についた紐は、ラルフには繊細過ぎた。途中で気を変え、胴衣を裾から繰り上げた。

 待ちきれなかったのだ。


 現れた白い肌に吸い付いた。首筋にかじりつき、吸い上げる。

 小さなうめき声が聞こえた。


 さらに勇を得て、両胸に取り掛かろうとした手を、静かに押しのけられた。


「言ったろ。君は大切に育てられた。自分を大事にしなければならない」

「言ってることがさっぱりわからない。君を愛することのどこが、自分を粗末にすることになるんだ?」

怒りに任せてラルフは叫んだ。

「ラルフ」

静かな声が制した。

「俺には好きな人がいる。君には応えられない」

「好きな、ひと?」


 鉄の塊で殴られたような気がした。


「それは……シャルワーヌ・ユベールのことか?」

「知っていたのか」

「君の通行証に署名をしたやつだ。東の国境越えの時……」

「ああ、あれは、君に渡したんだっけな」

「すぐにわかった。君は彼を愛しているって」

「そんなに露骨だったか?」

「いいや。けど……」


 彼について語る時の、あの冷たい声。その冷淡な無関心さには、逆に肉親の間に垣間見えるような遠慮のない親密さが垣間見えた。


「残念ながらエドガルド。シャルワーヌ・ユベールは、革命軍の将校だ。君は、二度と再び彼に巡り会うことはない」

「わかってる。次に会う時は、お互い、殺し合う時だ」


 その声の細い響きにぞっとした。悲しみを削ぎ落したような声は、あまりに虚無で、うつろだったから。

 だが、ラルフはそこに、勝機を見出した。だって自分は、王党派の味方だ。最後の最後まで、エドガルドのそばにいられる。


 卑怯だとは思わなかった。エドガルドを手放したシャルワーヌが悪い。


「俺は一生、君の側にいる。革命軍の将校のことなんか忘れろ」

「さっきも言ったように、このやり方は、君には全くふさわしくない。だが、体だけでいいというのなら、」

愚図愚図と続けるエドガルドを、ラルフは途中で遮った。

「馬鹿を言え。君は全部俺のものだ!」


 窓枠に乗せたままでは、さすがに不安だった。行為が見られることを恐れたのではない。一糸まとわぬエドガルドを、万が一にも、他人の目に晒すことが耐えられなかったのだ。

 下半身を床に引きずり下ろした。彼が座っていた大理石の上に上半身を這わせ、外から見えないようにした。


 反射的に抗うその背を抑えつけ、両手を後ろで捩じり上げる。


 うめき声が聞こえた。それがさらに、嗜虐心を煽った。有無を言わせず、ズボンを、下穿きごと引きずり下ろす。

 慌ただしく動いていた手が止まった。


 「なんだ? 何もしないのか?」


 うつ伏せ、くぐもった声が問うた。半裸のエドガルドから目を離せない自分を、ラルフは恥じた。


「すまない。これは、君に負担を与えすぎる……」


 彼は、自分は紳士だと思っていた。どんな時でも紳士たるべく、教育を受けてきた。その自分が、こんな風にするなんて……愛する人を。

 低い笑い声が聞こえた。


「君が紳士だというのなら、ラルフ。大理石の上は、さすがに冷たい。寝台へ連れて行ってくれ」


 抱き上げようとすると、笑って躱された。一人でさっさと歩き出そうとするから、すかさず捕まえて、キスをした。


 深まるキスによろめきながら部屋を横切り、二人で寝台の上に倒れ込んだ。


 自分の下にうつ伏せになった彼の首筋に、赤い噛み痕が残っているのに気づき、ラルフは深い満足を覚えた。

 同時に、恋する人の体に痕をつけてしまったことに罪悪感を覚えた。


 「なあ。容れないの?」


 エドガルドが甘えたように体を摺り寄せてくる。


「言ったろ。あれは君の負担になる」

「負担? ならないよ」


自分の体なのに、無関心にエドガルドが言う。


「なるよ。しばらく足腰が立たなくなる」

「大丈夫。俺は慣れてるから」


エドガルドが言い、ラルフはむっとした。


「知ってるぞ。君は不眠不休で半月堡の造営を指揮してたんだろ? 暑い日中も、作業を続けていたって、工兵隊長のシモンズが言っていた。ただでさえ、相当、消耗している筈だ」

「こんな時に、他の男の名を出すな!」


 思いがけない反撃だった。それで、男同士のセックスには慣れてると言ったエドガルドを、ラルフは少しだけ許す気になった。


「それに今日は、何の用意もしていない」


 そう言うと、エドガルドはにやりと笑い、半身を起こした。

 ベッドヘッドに据え付けられていた棚の、引き戸を横に滑らせる。

 しばらくごそごそやっていたが、小さな小瓶を取り出した。


「あった」

「呆れた。用意していたのか?」

「いいや。シャルキュ太守が教えてくれた」

「君こそ、こんな時に他の男の名を……まさか、」


不安がラルフの胸に込み上げた。シャルキュ太守は60歳を越えているが、それは何の保証にもならない。


「うん。誘われた」

「さ、誘われた?」

「一度だけ」

「一度?」

「二度だ」

「本当にそれだけ?」

「ごめん、三回。でも全部断った」

「当たり前だ!」


 ラルフは飛び起きた。エドガルドの手から、複雑にくびれた形の小瓶を奪うと、中身を手の上に開けた。

 薔薇の香気が立ち登った。


「本当に大丈夫か? 俺は君を傷つけたくない」

 最後の問いのつもりだった。

「今止めたら、永遠に許さない」

 それは困ると、ラルフは思った。


 エドガルドの腰が揺れている。白い肌が、美しく赤味を帯びて汗で濡れている。

 薔薇の芳香が、エドガルド自身の仄かな香りと混ざり合い、官能的な香気となってラルフの嗅覚を直撃した。

 くらくらした。


 「なあ」


 耳元で小さな声が囁いた。さっきまでの横柄さとは違って猫がねだるような声だ。

 これがあの誇り高きエドガルドかと思うと、眩暈がする思いだった。


「なあ、来いよ」

 ラルフは理性をかなぐり捨てた。

「体だけなんかじゃない」

 耳たぶに噛みついてそう囁いた




 ……。


 「こうして二人はめでたく結ばれ、」

「ちょっと待て」


 うっとりと虚空を見つめるラルフを、俺は遮った。


「なんだ? また、記憶に違いでもあるのか?」

「いやその、初めては確かにその通りだが……」


 俺には好きな人がいる? それが、シャルワーヌ・ユベールだと?

 承服しがたい。第一、転生した時点で俺には、彼の記憶は全くなかった。

 俺の最後の恋人は、ラルフ・リールだ。

 ラルフは口を尖らせた。


「初めても何も、最初で最後だろ。君と関係を持ったのは、生涯ただ一回きりだ。それからすぐにユートパクス軍がエイクレに進軍してきて……」

 ラルフの声が低く煙った。

「君は死んだ」


「シャルワーヌとは会ったこともなかった。ラルフ。俺の恋人は君だった」

「なんだと?」

ラルフの声が尖る。

 怯まず伝える。

「体だけの関係だなんて思ったことは一度もない。君は俺の大切な人だ」

「だが君は……」


 ……。





 工兵隊長シモンズが言っていたことは本当だった。

 エドガルドは疲れ切っていた。二回目を受け容れてくれたのは、恐らく彼の限界だったのだろう。


 精も根も尽き果てたという風に、エドガルドは眠っていた。その彼をすっぽりと腕の中に納め、ラルフは目を見開いていた。


 疲れているのはラルフも同じだ。アンゲルからここまで、ほぼ眠らずに船を走らせてきた。彼自身、限界ぎりぎりのところにいた。


 けれど眠れなかった。

 エドガルド。

 あれだけ憧れ、欲しかった男が腕の中にいるのだ。どうして眠ることなどできよう。


 今彼は背を向け、枕にしがみつくようにして眠っている。ぴったりと寄り添い、その背をラルフが抱いている。同じ方向を向いた二人の体は、重なったスプーンのようだ。


 背中のくぼみをそっと押すと、小さなため息が聞こえた。もぞもぞと動き、エドガルドはうつ伏せになってしまった。重なり合った体が離れていく。


 ラルフは彼ににじり寄った。背中の上から手を回し、抱き締めようとする。


 ……やっぱり俺は紳士だ。


 ラルフは思った。

 エドガルドは立派な仕事をした。擁壁を修理し、ラルフの船が攻撃しやすいように、外側に半月堡を築いた。その上、壁の内側にも仕掛けがしてあるらしい。


 これだけの仕事を成し遂げた恋人を(もうこの際恋人でいいだろうとラルフは思った)、やっとありついたおいしい眠りからよび覚ますなどという冷酷なことができるだろうか。


 ましてラルフはだ。


 エドガルドには休息が必要だ。それはわかってる。やりすぎは体に毒だ。その上ユートパクス軍はすぐそこまで迫ってきている……。


 ラルフは目を閉じた。瞼の内側に、エドガルドの体の幻影が見えた。捻った腰、ほんのりと汗ばんだ肌、みずみずしい双丘。


「ダメだ」

叫んでラルフは飛び起きた。

「紳士なんかくそくらえだ! 俺は野獣に一票入れる!」


「……何?」


 下から寝ぼけた声が聞こえた。構わず両手で彼の腰を掴み、持ち上げる。うつ伏せたまま、ずるずると上半身が引きずられてきた。


 3度目には、エドガルドの協力は要らなかった。ぐいぐい突き進み、ラルフは容赦なく彼を責め立てる。

 歯止めが利かなかった。滅茶苦茶に動き始める。ただひたすら、自分の快楽の為に。


 ……恋人失格かも。


 ぼんやりと脳裏を過ったが、動き始めた体は止まらない。

 全然満足できない。

 エドガルドが欲しい。ずっと手元に置いておきたい。

 こわしてしまったら、彼は自分のものになるだろうか。どこへもいかないだろうか。


 強引に後頭部を掴んで後ろを振り向かせた。ラルフを見つめる彼の目には、涙がいっぱいにたまっていた。その目でうっとりとラルフを見つめ、エドガルドは微笑んだ。


 全てのためらいが吹っ飛んだ。顔を後ろにねじ向けさせた無理な態勢のまま、ラルフは愛しい男の唇にキスをした。

 すうーっと一筋、涙がこぼれ落ちた。


 頭の中がカッと熱くなった。

 我を忘れ、ラルフは夢中で動いた。


「ああっ! シャルワーヌ!」

「え?」


 止まらなかった。エドガルドとラルフは、同時に達した。


 ……。


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