四.

トレーニングウエアを着て隣に座る船河は、七十半ばとは思えないしっかりとした体格をしていた。にもかかわらず、早くに仕事を引退した船河の気持ちを外川は考えた。「失意」という言葉が彼の頭に浮かんだ。

「外川さん。今日は、どうしてこんなところに?」

船河の気持ちを考えていたところに声をかけられ、外川は一瞬、戸惑った。それから、スーパーのチラシの件を話した。

「今回は、かなり厳しく言ったんですが、どこまで伝わったか分かりません。また、同じことが起こるのは、ある程度覚悟しているんです」

外川はそう言って苦笑した。

すると船河が言った。

「仕事のことでちゃんと話が出来るのは立派なことです」

「船河さんも、看板を製作していた時には、打ち合わせから始まり、依頼主の無理な注文への対応など、沢山の話し合いをされてきたはずです。それに比べれば、私なんて」

「いえ、私は何も話しませんでした。全部、妻に任せていました」

「全部って言っても、どうしても、実際に看板を作っていた船河さんじゃないと分からないことがあったはずです。だから、全部っていうのは大袈裟じゃないですか?」

「確かにそうですね。実際に看板を作る過程で生じた問題については、私が依頼主と話し合っていました。でも、それ以外のことについては、全部、妻に任せていました」

「どうしてですか?」

「看板描きの仕事に集中したかったからです。というのは建前で、看板描き以外の仕事には興味がなかった。あるいは、面倒で関わりたくなかったというのが本音です。元々は、私は無口でもなかったんです。話をするのが面倒で黙っている内に、そんな風になっていました」

外川は、理路整然と話す船河を見て、確かに自分が思っていた無口な老人とは違うと思った。それに心身ともに、これだけしっかりとしている船河は、老人とも呼べないと思った。

外川は船河に尋ねた。

「実際に、船河さんと亡くなられた奥様が一緒に働いていた時のことを知らないので、何とも言えませんが、お二人の間では、それが、役割分担になっていたのではないんですか?」

「私はそう思っていました。でも、息子が高校を卒業する前に言いました。面倒なことは全部、妻にやらせて、自分は格好の良いところだけをやっている私の跡は継がないと。その時、私は、初めて、気づきました。そして、反論できませんでした。何故なら、息子の言う通りだと思ったからです。そして、息子は家を出て行きました。妻は息子の言ったことをどう思っていたのでしょうか? 何も言わないまま、数年後に病気で死にました。私は一人になりました。でも、私は、元々、一人だったのかもしれません」


公園で船河の話を聞いてから、二週間ほど経った。その間、看板の仕事の依頼がなかったので『船河看板』に行くことはなかった。でも、外川は船河のことを考えていた。船河も、おそらく亡くなった彼の妻も、一人息子の幸浩も、皆、とても真面目なのだと思った。真面目すぎて深刻になる人たちなのだと思った。


そして、今、外川は、仕事の依頼はないが、『船河看板』に向かって歩いていた。外川は思い出していた。前のデザイン事務所で、仕事とプライベートを混同して、最終的に、ダメになった自分を。あれは失敗だった。でも、外川は生来、陽性の人間で、その性格は自分の長所だと思っていた。それに対して、船河は、真面目で陰性なのだ。死んだ妻も、家を出て行った息子も、もう戻って来ない。息子はいずれ、和解の意味も込めて、孫の顔を見せに来るとか、そんなことで家に帰って来るだろう。ただ、看板屋を継ぐことはない。だから、悩んでも仕方がないのだ。でも、船河は立ち止まっていた。これから、外川は、船河を前に進ませようと思い、『船河看板』に向かっていた。


『船河看板』に着くと、外川は、すぐ高桐を連れて、事務所の椅子に座っている船河のところに行った。そして、外川は船河に言った。

「幸浩さんが跡を継いでいれば、高桐君は独立できたはずでした。でも、彼は独立を諦めました。船河さん。高桐君を独立させてやってください。そのために、船河さんが看板の仕事に復帰してください」

高桐は驚いて外川の顔を見た。

作業場から、市本が事務所に飛んできた。

船河の近くに座って電卓を叩いていた市本の妻も驚いて顔を上げた。

船河は、外川を睨みつけるようにして黙っていた。

みんな、船河が怒っているのではないかと不安に思った。

それから長い沈黙の後、船河は言った。

「四年のブランクがあるから、暫くリハビリ期間が必要です」

外川は笑顔で言った。

「大丈夫ですよ。船河さんは心身ともに健康ですから」


その後、船河は僅かの“リハビリ期間”を経て、仕事に復帰した。

高桐は独立して、『高桐看板』を開いた。

一人の若者が『船河看板』に就職した。高校を卒業したばかりの若者だった。船河は、若者に看板の描き方を教えた。これまでとは違い、自らの看板描きとしての思い出話や、市本や高桐の修業時代の懐かしい話もするようになった。若者は、興味深く船河の話を聞いた。

ある日、外川が、船河に会いに行くと船河は言った。

「初めて、一人じゃないと思えるようになりました」

その言葉を聞いて、外川は、故郷に帰って来て良かったと思った。


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ある老人の孤独 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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