桓玄18 爵位昇降

○晋書


皇位僭称にあたり、桓玄かんげんは大赦を下し、永始えいしと改元。天下の爵位を二級進め、その中でも孝悌に優れたもの、農地開墾に功績あったものについては三級進める、と公表。また寡婦や孤児で自力の生活が難しいものに対しては五斛の恩賜を下す、としたが、全てが空手形として終わった。


さて、こうした詔勅を発布せん、としたとき、はじめ元号を建始けんしと定めようとしていた。ここに尚書右丞しょうしょうじょう王悠之おうゆうしが言う。

「建始は司馬倫しばりんの定めた元号で、不吉です」

このため永始えいしと改められたのだが、これはこれで漢末、王莽おうもうが初めて権力を握った年の年号であった。桓玄政権のその後がどのような命運をたどるかが、この上なく示された事例であったと言える。


また桓玄は、書を下して言う。

「前政権の帝を格別の待遇とするのは、古来よりの定めである。故に漢でも魏でも同じような対応が取られた。晉氏しんしはいま天命の推移を喜んで受け入れ、朕に皇位を譲った。ならば朕も古のしきたりに従い、晋氏に良き地を与えることとする。よって南康なんこう郡の平固縣へいこけん司馬徳宗しばとくそう殿を平固王へいこおうとして封じ、彼の地にあっての旗や暦については、引き続き晋代のものを用いることを特別に認可する」


こうして安帝は尋陽じんように移住となった。これは陳留王ちんりゅうおう曹奐そうかんぎょうの宮殿に住まうことを許可されたことに倣った措置である。また皇后の王神愛おうしんあい零陵君れいりょうくんに、,琅邪王ろうやおう司馬徳文しばとくぶん石陽縣公せきようけんこうに、武陵王ぶりょうおう司馬遵しばじゅん彭澤縣侯ほうたくけんこうにそれぞれ降格とした。


対して自身の父である桓温かんおん宣武皇帝せんぶこうていと追尊、その廟を太廟たいびょうと呼び、その正妻であった南康公主なんこうこうしゅ司馬南弟しばなんてい宣皇后せんこうごうとした。子の桓昇かんしょう豫章郡王よしょうぐんおうとし、叔父である桓雲かんうんの孫の桓放之かんほうし甯都縣王ねいとけんおうに、桓豁かんかつの孫の桓稚玉かんちぎょく臨沅縣王りんがんけんおうに、桓豁の次子である桓石康かんせきこう右將軍うしょうぐん武陵郡王ぶりょうぐんおうに、桓秘かんひの子である桓蔚かんうつ醴陵縣王ほうりょうけんおうにした。

桓沖かんちゅうには太傳たいふ宣城郡王せんじょうぐんおうが追贈され、殊禮しゅれい、他の人臣とは隔絶した、皇帝にも近き存在としての祭祀が行われることは司馬懿しばいの弟、司馬孚しばふがそのように扱われた故事に依った。爵位は孫の桓胤かんいんに与えられ、かつ桓胤は吏部尚書りぶしょうしょとされた。桓沖の次子である桓謙かんけん揚州刺史ようしゅうしし新安郡王しんあんぐんおうとし、桓謙の弟である桓脩かんしゅう撫軍大將軍ぶぐんだいしょうぐん安成郡王あんせいぐんおうとした。

桓玄の兄たちについては、桓歆かんいん臨賀縣王りんがけんおうに、桓禕かんい富陽縣王ふようけんおうに。また桓偉かんいには侍中じちゅう大將軍だいしょうぐん義興郡王ぎこうぐんおうを追贈の上、子の桓浚かんしゅんに爵位を継がせ輔國將軍ほこくしょうぐんとした。また桓浚の弟の桓邈かんばく西昌縣王せいしょうけんおうとした。

王謐おうひつ武昌公ぶしょうこう、班劍二十人とし、卞範之べんはんし臨汝公りんじょこう殷仲文いんちゅうぶん東興公とうこうこう馮該ふうがい魚復侯ぎょふくこうとした。


東晋時代の大功臣たちを祀る爵位については以下の措置が取られた。

始安郡公しあんぐんこう温嶠おんきょう)は縣公に降格。長沙郡公ちょうさぐんこう陶侃とうかん)は臨湘縣公りんしょうけんこうに、盧陵郡公ろりょうぐんこう謝安しゃあん)は巴丘縣公はきゅうけんこうに。ともに食邑は千戶である。

康樂こうらく謝玄しゃげん)、武昌ぶしょう南昌なんしょう郗鑒ちかん)、望蔡ぼうさい謝琰しゃえん)、建興けんこう卞壺べんこん)、永脩えいしゅう桓伊かんい)、觀陽かんよう応詹おうせん)の各県公県侯は百戶に降封。ただし爵位はもとのままとした。

また四征将軍、四鎮将軍についてはそれぞれの功績に基づいた昇格がなされた。


相國しょうこく左長史さちょうし王綏おうすい中書令ちゅうしょれいとし、桓謙の母である庾氏ゆしについては特に宣城太妃せんじょうたいひとして殊禮が加えられ、輦乘さんじょう、特別な輿が与えられた。


桓溫の墓を永崇陵えいすうりょうと名付け、守衛四十人を配備した。



○魏書

クソ元号☆ だけ拾っている。




於是大赦,改元永始,賜天下爵二級,孝悌力田人三級,鰥寡孤獨不能自存者穀人五斛。其賞賜之制,徒設空文,無其實也。初出偽詔,改年為建始,右丞王悠之曰:「建始,趙王倫偽號也。」又改為永始,復是王莽始執權之歲,其兆號不祥,冥符僭逆如此。又下書曰:「夫三恪作賓,有自來矣。爰暨漢魏,咸建疆宇。晉氏欽若歷數,禪位於朕躬,宜則是古訓,授茲茅土。以南康之平固縣奉晉帝為平固王,車旗正朔一如舊典。」遷帝居尋陽,即陳留王處鄴宮故事。降永安皇后為零陵君,琅邪王為石陽縣公,武陵王遵為彭澤縣侯。追尊其父溫宣武皇帝,廟稱太廟,南康公主為宣皇后。封子升為豫章郡王,叔父雲孫放之為甯都縣王,豁孫稚玉為臨沅縣王,豁次子石康為右將軍、武陵郡王,秘子蔚為醴陵縣王,贈沖太傳、宣城郡王,加殊禮,依晉安平王故事,以孫胤襲爵,為吏部尚書,沖次子謙為揚州刺史、新安郡王,謙弟脩為撫軍大將軍、安成郡王,兄歆臨賀縣王,禕富陽縣王,贈偉侍中、大將軍、義興郡王,以子浚襲爵,為輔國將軍,浚弟邈西昌縣王。封王謐為武昌公,班劍二十人,卞範之為臨汝公,殷仲文為東興公,馮該為魚復侯。又降始安郡公為縣公,長沙為臨湘縣公,盧陵為巴丘縣公,各千戶。其康樂、武昌、南昌、望蔡、建興、永脩、觀陽皆降封百戶,公侯之號如故。又普進諸征鎮軍號各有差。以相國左長史王綏為中書令。崇桓謙母庾氏為宣城太妃,加殊禮,給以輦乘。號溫墓曰永崇陵,置守衛四十人。

(晋書99-18)


十二月,德宗禪位於玄,大赦所部,稱永始元年。初欲改年為建始,左丞王納之曰:「建始者,晉趙王倫之號也。」於是易為永始,復同王莽始貴之年。

(魏書97-12)




王導(始興)、庾亮(永昌)については据え置かれた、ってことでいいんでしょかね。この二人が漏れてんのがすっげー気になります。って始興は王嘏おうかがいるからまあ分かるんですが、庾亮の爵位継承がわからん。二十五史補編

https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E5%8A%9F%E8%87%A3%E4%B8%96%E8%A1%A8

にもいなかったし。むう。


※小川茂樹様よりのご指摘を頂戴しました。庾亮は永昌県公を固辞し、死後の追贈も弟の庾冰によって固辞されていそうだ、とのことです。


ちなみに桓沖の妻、庾氏が重んじられてるのは、桓温死後この夫妻が桓玄の育ての親代わりになったためです。世説新語でもなにげに登場してます。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054889277737


庾氏の封爵は謎が多い……

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