桓玄17 簒奪詔勅

○晋書


十一月、桓玄かんげんは皇帝直々の命令を捏造、加其冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂儛八佾,設鐘虡宮縣、要は自らの宮殿出入り、宮中の服装その他をすべて皇帝に準じるものとさせた。妃を王后、世子を太子とし、娘や孫についても爵位称号を救霊に基づき与えた。また楚王朝の朝臣を太宰だざいの僚佐とし、詔勅を捏造して王謐おうひつ兼太保けんたいほ領司徒りょうしととし、皇帝の玉璽を桓玄に「譲らせた」。更に安帝に圧力をかけ禅譲の旨宗廟に報告をさせ、永安宮えいあんきゅうに移し、晉の神主じんしゅ琅邪廟ろうやびょうに移した。


さて、桓玄は安帝が自ら詔勅を書けないのではないか、ともなれば玉璽の獲得も難しいのではないか、と懸念し、臨川王りんせんおうの司馬寶に圧力をかけ安帝に自ら詔勅を書くよう迫らせ、そして玉璽を奪い取った。桓玄が正殿前に赴くと玉璽が現れる。それを見て桓玄は大いに喜ぶのだった。


百官が姑孰にて桓玄に皇帝に即位するよう改めて要望、ここでも桓玄は一度辞退を言いだしたが、朝臣からは更に強い要望が提出され、「その熱意に負けて」桓玄は城の南七里のところに郊を立て登壇し、篡位を玄牡の犠牲を献じつつ天に述べた。多くの官僚がそこに居並ぶも儀礼式辞の周知が行き渡っていなかったため萬歲の斉唱すらなく、また帝の諱が代わることもなかった。


以下が天皇后帝に告げられた表明文である。

「晉帝は天運の推移を歓喜し、天命に従い、皇位をこの桓玄に譲り渡すこととされた。およそ天が人の世に及ぼす作用として新たなる帝王が興るものであるが、それは決して前の帝が政を怠っていたというわけではなく、ただ大いなる徳のみが人主の証である以上、天の意思として人主の系統がひとつに収斂していくのが必然であるためである。聖人がふたり並び立ったとき、どちらもが人主、と言うわけにもゆかぬ。賢からざるものとて主がはっきり決まらぬと言うのもありえぬ話と気付こう。故に五帝の間で皇統は入れ替わったし、夏殷周かいんしゅうの皇統交代も発生している。かんの例を見ても、またその著しき功績のゆえである。

 しんがこの建康けんこうで中興を果たしてより、多くの事件があった。海西公かいせいこうの乱政により帝位はほぼ移りかけたものの、簡文帝かんぶんていを経て孝武帝こうぶていの世に至り、再び政道が正されるにあたっては大禹だいうのごとき明察の功なくば成り立たず、そのまま胡族の侵略を被っていたのやも知れぬ。

 しかしその孝武帝の末年、君と子との道は霧消し、多くの乱が積み重なった。そして安帝が即位すればその禍は王国宝おうこくほう孫恩そんおんという形を伴い士庶にまで及び、修めるべき人としての規範はいよいよ失われた。

 この桓玄、その身を草澤の間に置き、当時の朝廷より見放されておりながらも、こうした乱政に対して義憤を抱かずにおれなかったのである。ゆえに袖を振り奮い立ち、この誤った流れを正すものを支援せんとした。とは言えその功が成ったのはみな我が仰ぐべき父、桓温が子のために残した資産のゆえである。この桓玄になんの功があろうか!

 いま天命が移り変わりなんとするとして、みながこうして我を至尊の椅子に押し上げんとする。ならばこの寡昧の身なれど我が先公の大徳に倣い、天命を改め、諸王の上に立ち、五帝以来の尊位を継承せざるを得まい。畏れ多くも、この座に押し上げられたと言うことを由来に自らの徳を推定するよりほかない。朝に夕にこのことを深くわきまえ直し、決して擲つことのなきようにせねばならぬ。何よりも君主の座とは久しく空にすべきでなく、神主への祭祀とは久しく欠かしてはならぬものである。

 こうしたことから、敢えて古より定められた大礼を略式にて行い、良き日を選び出し、この身を壇上に上げ、禅譲の意思を承った。そして承りしことを上帝へと告げ、人々よりの望みを幾久しく実現せんことを誓い、あわせて萬邦を神霊の祝福がもとに置かんとすることを誓うものである」


更に書を下し、言う。

「天、地、人が育み合うのは、天人の功を為し遂げた所以。世の政がひとりの天子のもとに収斂するのは、天の取り決めが占いという形にて示されるところ。帝王が新たに立つのは、およそひとの知り得ぬ深淵にその理由がある。

 三皇五帝の時代以降、その統治時期の長さに差違があり、またそれぞれの帝王の出生地も様々でこそあったが、帝王のもとに政が帰する、という意味ではみな等しい。朕の父たる宣武王せんぶおう桓温かんおん様の聖德はいと高く、大いに王業の基をお築きになった。その天命は徐々に王のもとに流れ込みはじめていた。すなわち朕が天命を授かるさだめは既に桓温様の時代より定まっていたのだ、と言える。しかし途中に多くの試練があり、そうした試練をはねのけきること叶わず、大いなる国難にあたりその手柄のほとんどを軍務に注がざるを得なかった。海西公の乱政に行き当たり、艱難に溺れる晋氏を助け出し、一度はお国を立て直すことに成功した。しかしそうした桓温様の死後、晋氏はさらなる多難に晒され、その国運は衰える一方であった。こうしたことから堯が舜に禅譲したように、また漢の献帝が魏の曹丕に禅譲したように、天命が朕の身に挙ったのだ、と認識している。我が徳が帝位にふさわしきものとは到底思えず幾度となく即位を辞退したものであるが、ついには古よりの取り決めに従い、南郊の壇上に登り、燎火を焚き、天命を受諾する旨報告申し上げた。この祝福を深く思い、億兆もの民とともにここに新たなるよき時代を切り拓きたく思う」




十一月,玄矯制加其冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂儛八佾,設鐘虡宮縣,妃為王后,世子為太子,其女及孫爵命之號皆如舊制。玄乃多斥朝臣為太宰僚佐,又矯詔使王謐兼太保,領司徒,奉皇帝璽禪位於己。又諷帝以禪位告廟,出居永安宮,移晉神主於琅邪廟。

初,玄恐帝不肯為手詔,又慮璽不可得,逼臨川王寶請帝自為手詔,因奪取璽。比臨軒,璽已久出,玄甚喜。百官到姑孰勸玄僭偽位,玄偽讓,朝臣固請,玄乃于城南七里立郊,登壇篡位,以玄牡告天,百僚陪列,而儀注不備,忘稱萬歲,又不易帝諱。榜為文告天皇后帝云:「晉帝欽若景運,敬順明命,以命于玄。夫天工人代,帝王所以興,匪君莫治,惟德司其元,故承天理物,必由一統。並聖不可以二君,非賢不可以無主,故世換五帝,鼎遷三代。爰暨漢魏,咸歸勳烈。晉自中葉,仍世多故,海西之亂,皇祚殆移,九代廓寧之功,升明黜陟之勳,微禹之德,左衽將及。太元之末,君子道消,積釁基亂。鐘于隆安,禍延士庶,理絕人倫。玄雖身在草澤,見棄時班,義情理感,胡能無慨!投袂克清之勞,阿衡撥亂之績,皆仰憑先德遺愛之利,玄何功焉!

屬當理運之會,猥集樂推之數,以寡昧之身踵下武之重,膺革泰之始,托王公之上,誠仰藉洪基,德漸有由。夕惕祗懷,罔知攸厝。君位不可以久虛,人神不可以乏饗,是用敢不奉以欽恭大禮,敬簡良辰,升壇受禪,告類上帝,以永綏眾望,式孚萬邦,惟明靈是饗。」乃下書曰:「夫三才相資,天人所以成功,理由一統,貞夫所以司契,帝王之興,其源深矣。自三五已降,世代參差,雖所由或殊,其歸一也。朕皇考宣武王聖德高邈,誕啟洪基,景命攸歸,理貫自昔。中間屯險,弗克負荷,仰瞻巨集業,殆若綴旒。藉否終之運,遇時來之會,用獲除奸救溺,拯拔人倫。晉氏以多難薦臻,歷數唯既,典章唐虞之准,述遵漢魏之則,用集天祿於朕躬。惟德不敏,辭不獲命,稽若令典,遂升壇燎於南郊,受終於文祖。思覃斯慶,願與億兆聿茲更始。」


(晋書99-17)




変にダラダラやるのもだるいのでおもくそトバし訳をして終わりにしました。まー確度四割くらいだと思って流し読みしてください。ただひとつわかるのは、このへんの詔勅の流れがやっぱり劉裕への禅譲詔勅、劉裕の即位詔勅とほとんど同じだ、ってことですね。そりゃまあ東晋衰退~滅亡までの事績が共通な以上同じことしか書けないわけですが。


そしてこの中で注目しておきたいのが、改めて「この禅譲は堯から舜への、漢献から魏文へのものと同質のものだよ」と強調しているところ。ここには結局のところ「おい北魏ほくぎてめーはこうした正式の手順ふんでねえで皇帝位名乗ってんだぞやーいてめーの母ちゃん賀蘭氏がらんしー!」的アレがあるのだと認識して問題がないのでしょう。


そういった虎の威を借りなくても十分に恐い狼なほうがよっぽど政体として強そうですけどねえ。まああっちは魔王なので強くてもご勘弁願いたいところではありますが。

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