35.再度
「まずは、二人が無事でよかった」
ここは、5階の校長室。校長の富沢先生と、理美ちゃんとわたし。
そして田崎先生が同席して、一つの机をみんなで囲んでいる。
「はい・・・・・・」という意味で頷きはしたけれど、妙に実感がない。
隣に座る理美ちゃんは、何も答えない。
あの日。
理美ちゃんからの怒声を聞いた赤坂は、一瞬呆然としていた。けれど酔った勢いで「なんだてめえは!」と、理美ちゃんに掴みかかりかけた。
赤坂が近づくのに、理美ちゃんは動かない。殴られる。そう思った。
直後、床でガラスが割れる音がした。わたしたちの近くに座っていた、家族連れの人たち。一瞬遅れて、座っていた小さな男の子が、火がついたように泣きだした。
一瞬にして場が静まり返り、周囲からの、無言の非難の視線が赤坂を貫く。
さすがに居心地が悪くなったのか、赤坂の隣にいた男も、「帰ろうぜ」と赤坂に声をかけている。
理美ちゃんは
かがんで何か言っている横顔が、遠目に見える。謝っているのかもしれない。
赤坂たちが歩いてきた。歪んだ赤坂の顔が赤いのは、酔いのせいだけではないだろう。出口に向かう赤坂たちは、今度はレジカウンター前にいるわたしに近づいてきた。立ちすくむ。息ができない。
けれど赤坂はわたしのほうには来ず、代わりに伝票をすさまじい勢いでカウンターに叩きつけた。遅れて、アルバイトらしい大学生風の男の人が現れる。
周りが会計を済ませている間、破裂の前触れのように、赤坂の背中に力が入っていくのが分かった。拳は硬く、握りしめられている。
友人に引っ張られながら、赤坂が店を出ていく。
入口を開ける寸前、わたしのほうを振り返って言った。
「お前ら、次。覚えとけよ」
こちらに向かって黒く広がる、洞穴のような目だった。
※
「琴音は、バイト辞めるっていう話はした?」
田崎先生が、確認を取る。わたしは「はい」とだけ、返事した。
バイト先には、「祖母のことで忙しくなった」とだけ、伝えた。
本当のことを言ってしまってもいいけれど、赤坂がもしあの職場にまだ出入りするのであれば、刺激することになるかもしれない。安全策だった。
でも。
その「でも」を、富沢先生が口にした。
「三崎さんたちにも、話は聞いた。どうも、いろいろと評判の良くない男らしい」
普段はつかないため息をつき、富沢先生は続けた。
「新藤さんが聞いた通りなら、彼の大学はうちと、新藤さんの家の半ば中間地点だ。公共交通機関で乗り合わせ、跡をつけられる可能性もなくはない。そもそも彼は、新藤さんがうちの生徒だと知っている」
「三崎さん」というのは、ヤンキー組の女子の、リーダー格の子だ。
彼女たちの間では、赤坂の名は、悪い意味で知られていた。
見かけによらず粗暴で、粘着質。彼女たちの周りでも、脅迫じみた言葉を投げつけられた人がいるという。中には、いやがらせを受けた人もいるらしい。
「覚えとけよ」という、赤坂の言葉が蘇る。
「それは、通学は控えろということですか?」
部屋に入って、初めて理美ちゃんが言葉を発した。
視線は、まっすぐに富沢先生に向けられている。
富沢先生は、首を横に振った。
「選択肢には、ある。もちろん、君たちの意向を無視することはしない」
一呼吸置いて、富沢先生が続ける。
「私たちからすれば、二人には身の安全を確保してもらいたい。学校側としても、コースの修正をする用意はある」
けど、心配は他にもあると、富沢先生が続ける。
「二人の身の安全は、単に『登校』を避ければ保証できるのかというと、言ってしまえば、それは難しいと思う」
それは、確かにそうだ。わたしたちが出歩くのは何も、通学のときだけじゃない。
家に籠るでもしない限り、赤坂との接触のリスクをなくすことなんて、不可能だ。
「学校から、警察には相談している。けれど今の段階で、事件性はない。彼の言葉の内容が新藤さんから聞いた通りであれば、法的には脅迫行為には当たらない」
「覚えとけ」といった抽象的な内容では、「脅迫」と認められる可能性はかなり低いことを、改めて聞かされた。
そういうことになるだろうとは、少しだけ聞く前から思っていた。
わたしたちは、リスクを背負って外を歩くしかない、ということ。
実感はないけれど、遅れて吐き気のような、重いだるいものがお腹を満たしていく。
家族のこと、りんのこと、おばあちゃんのこと。いろんなことが、頭の中で映像になって浮かんでいく。
そして、わたしが言葉にならないままに思っていたことを、理美ちゃんが口にする。
「つまり、通学も危ないけど、通学に限らずそもそも外が危ないから、きりがない。最終的には、わたしたちで選んでということですか?」
いつもはない、やや棘を含んだ声色で理美ちゃんが言った。
「オンラインに切り替えることも、それを勧めることも考えた。僕は個人的には、リスクは少しでも減らしてほしい。学校側の事情などない。悪いけれど、一人の大人としての本音だ。けれど・・・・・・」
大人が、若い子の未来を決めつけることはできない。
それが、富沢先生の返事だった。
沈黙が、重い。
堪えるようなため息をついて、理美ちゃんは続ける。
「女ってだけで、けっきょくこっちが気を遣わないといけないんですね。ならけっきょく、わたしが最初から、黙ってればよかったんですよね」
表情を変えない理美ちゃんは、けれどたぶん、苛立っている。
わたしたちの身に降りかかった、理不尽に。そして何より。
わたしのためにとはいえ、怒りのままに行動した、自分自身にも。
違うよと、言いたかった。
理美ちゃんが言ってくれたことは、間違いなんかじゃない。
あんなかたちで馬鹿にされるのに、わたしはいつまでたっても耐えられない。
弱い自分が嫌いだ。けど、理美ちゃんは、そんなわたしを親友だって、そう言ってくれた。そして、本当に怒ってくれた。わたしのために。
帰ってきた理美ちゃんの身体が、かすかに震えていたのだって、わたしは覚えている。
そう伝えたいのに、言葉にすることができない。
思いを向ける先は、すぐ、目の前にあるのに。
「正解ではなかったかもしれない。けど、間違いだとは思ってないよ」
丸テーブルだけど位置的に富沢先生と理美ちゃんの間に座る、田崎先生が言った。
「理美の気持ちもわかる。だから、どうしようもなかったと思う。でもごめんね。無謀だとは思った。けど、理美のそういうところは、私も好きだから。聞いたとき、ああ、らしいなって思っちゃって、それで無事だって分かって死ぬほどほっとした」
「それ、褒めてるんですか?」
理美ちゃんが、尋ねる。ほんの少しだけ、声にとげがなくなっていた。
もしかすると、田崎先生の言葉に、少しだけほっとしたのかもしれない。
自分の身も守れないのに、出すぎたことを、危険なことをするからだ。わたしも、たぶん理美ちゃんも、そんなふうに怒られることを想像していたから。
富沢先生だって、なんとか力になりたいという気持ちは伝わった。
それは、理美ちゃんも同じだろう。
「褒めてはいるよ」と、田崎先生は少し微笑んだ。
「嘘つき」と理美ちゃんがつぶやくと、
「ホント」と、田崎先生が被せる。
まるで、姉妹のような安定感がある。
そういえば、理美ちゃんの担任は田崎先生だったと、今になって思い出した。
ほんの少し、さらに場の空気が穏やかになった気がした。
チャイムの音が、午後の時刻を告げる。気がつけば、長い時間をこの部屋で過ごしていた。
「けど」と、表情を直して、先生は言った。
「理美。もう一回、約束して。一人で抱え込まないで。あなたを、失いたくない。みんな、そう思ってる」
(もう、一回・・・・・・?)
そう言われた瞬間、理美ちゃんは田崎先生から目を逸らした。そのまま俯いた理美ちゃんの目は、ショートカットの髪に隠れて見えない。けど・・・・・・。
(泣いてる・・・・・・?)
握った拳に、涙は落ちていない。
けれどわたしには、理美ちゃんが声を殺して泣いているように見えた。
チャイムの最後の響きが、遠く流れていった。
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