34.怒声

その声が聞こえてきたのは、店内の一番奥のボックス席からだった。

若い男の人たちが騒ぐ声。今の一言は、その中から急に飛び出してきたものだ。


酔っているのか興奮しているのか、ただのファミレスだというのにその声は大きく響いた。近くの家族連れの会話も、一瞬止む。理美ちゃんは背中を向けているので、死角になっている席だ。


「・・・・・・感じわる。馬っ鹿じゃないの」


理美ちゃんが、視線だけ振り向いて、吐き捨てるようにつぶやく。

わたしも同感だ。けれどもともと大きな声に耐性のないわたしは、嫌悪感よりも怖さのほうがまさって、とっさに硬く握りこんでしまった拳を見下ろしていた。


さっきの大声以来、とりあえず喧騒はいったん収まっていた。

けれど一度耳に入ってしまうと、聞きたくもないのに、会話の端々を拾ってしまう。

「せっかく俺が」「自己中」「何様」。前の学校で聞いていたようなセリフがことごとく繰り返され、胃の辺りが生暖かくなる。


「琴、大丈夫? 顔色悪いよ?」


「大・・・・・・丈夫・・・・・・」


どこからどう見ても大丈夫じゃないだろうことは、自分でも分かる。

けど、こんなことくらいで理美ちゃんとの楽しい時間を放り出したくない。

目の前のほとんど手をつけていないピザやドリンクも、もったいないし。

そんなことを思っていると、こちらの思いを読み取ったかのように、理美ちゃんが言った。


「こんなとこ、無理している必要ないから。場所変えよ。出られそう?」


頷こうとして、胸まで苦しくなっていることに気づく。

こんなに時間が経っているのに。あいつらじゃないのに。

わたしはまだ、こんなところで怯えたままだったんだ―――。


「ごめんね・・・・・・」


顔が上げられない。泣きはしなかったけれど、ほとんどそれに近いものを目の奥に感じながら、そんな言葉を口にしていた。弱くて、ごめん。忘れられなくて、ごめん。

腰を浮かせかけた理美ちゃんは、かぶりを振って、ささやいた。


「バーカ。わたしはどんな琴でも、好きなんだよ」


差しだされた手。どんなわたしでも、好き―――。


(会えて。会えてよかった・・・・・・)


その手を取ろうとした、そのときだった。


「ほんっと、マジムカつくわ! 中退のくせによ!」


再び、場が凍り付く。周りの空気と不相応に、怒声を茶化す声が続く。


「まーJKで中退って、どうみてもわけありだわなー。なんかやったんか?」


「知るかよ。あーでもちょい陰キャっぽいから、いじめられでもしたんじゃね?」


「でもまあ、偉いんじゃね? また高校入って、バイトもしてんだろ?」


「ババアの介護とかで、ちょくちょく穴開けるけどな」


心臓の鼓動で、肋骨が砕けそうになった。

これ、もしかしてわたしの・・・・・・。


同じことを理美ちゃんも思ったらしく、険しい表情で、目だけで後ろの様子をうかがっている。

「やば、幸薄ーっ!」と、後ろで別の男の人の声が上がる。


見たくなかった。けれど、見ないわけにはいかなかった。

遠くのボックス席を、理美ちゃん越しに見やる。裸眼だけどうっすら見えたのは、バイト先で見る赤坂さんによく似た雰囲気の、黒シャツの背中だった。

肋骨が、みしみしと音を立てる。

理美ちゃんの顔が、遠くにかすむ。


「あ、オレ酒追加すんわ。お前、どーする?」


「金ねぇからって、こんなところで酔っぱらってんじゃねーよ」


「うるせぇ。お姉さんお姉さん、こっちビール追加!」


近くを通りかかった店員さんを呼び止める横顔は、まぎれもなく赤坂さんのものだった。


胃の中のものがこみ上げてきて、とっさに口を押える。

理美ちゃんが慌てた様子でハンカチを取り出し、こちらに差しだす。

「あいつなの?」と小さく訊かれて、やっとの思いで頷く。

理美ちゃんは、大きく息を吐いた。


「立てる?」と訊かれたけれど、脚が震えて動かないし、視界はにじんだ涙でだんだんとかすんでくる。こんな様子で立ち上がって、あの人たちにばれたくない。

我慢しなくちゃ。わたしがここで、今だけ我慢していれば。

そうすれば、やりすごせる。なかったことにだって―――。


幸い、赤坂さんたちの話題はすぐに他のものに移ったようで、そこから漏れ聞こえてくるのは競馬やバイクの話に変わっていた。生暖かい泥のような胃の中身を、わたしはなんとか元の場所に収めた。

それでも普通の呼吸を取り戻すまでには時間がかかり、ひゅうひゅうと喘息のような吐息が口から洩れる。テーブルの下で握りしめた手。そのとき理美ちゃんが、その手を握った。


「大丈夫だから、琴。わたしがついてる」


視線を戻すと、まっすぐにわたしを見返す理美ちゃんがいた。

目が合うと同時に、流れ込んでくる理美ちゃんの体温。手のぬくもり。


「あいつらの下卑た発想に付き合う必要なんてない。琴には大事なおばあちゃんも、りんちゃんも、先生たちもいる。琴が頑張ったから、ここまでこれたんだよ。あんなやつらには、一生分からない。分からせたくもない」


そう一気に言った後、理美ちゃんはぽつんとつぶやいた。


「琴は、わたしの自慢だよ」


(もうそれ、ずるい・・・・・・。ずるいよ、理美ちゃん)


まぶたが、震える。きっと、この握られた手も。


(こんなところで、泣かせないでよ・・・・・・)


声をあげることはできない。けれど、こらえきれず落ちた涙が、テーブルにぽたぽたと落ちて雫となる。「あーあ、もう」と、理美ちゃんが苦笑いしている。


「琴、気持ち受け取ってくれるのはありがたいけどさ。続きは別のとこにしよ」


「うん・・・・・・。ありがとう」


「よし。琴、先に行きな。ついでに今日は、わたしのオゴリ」


「え、いいの?」


「お疲れ会って、言ったじゃん」


「そうだっけ」


「そうだよ」


丸めた伝票で、頭を軽く叩かれる。

なんてことないやりとりなのに、さっきまで巣食っていたよどんだ塊は、わたしの身体からだいぶ遠い場所に行っていた。


(場所を変えよう。そうだ、今日はこんな日じゃない・・・・・・)


頼んで手つかずの料理はもったいないけど、だって、もっともったいない。

友田さんのことをめぐっての通話以来。

せっかく忙しい理美ちゃんと、久しぶりに会えたのに。


ポシェットから取り出しかけた財布をしまう。

今日は甘えてばかりな気がするけど、ここはもう少しだけ、甘えさせてもらおう。

立ち上がったわたしをかばうように、理美ちゃんが後から立ち上がってついてくる。

背中に感じる優しさが、ただ嬉しかった。

立ち上がって、会計カウンターまで進んでいく。


「っていうかさ、この際さっさと手出せばいいだけじゃね、俺!」


進んでいた脚が、凍りつく。声は先ほどよりは小さいけれど、調子よく言い放ったのは、明らかにまた、赤坂さんの声だった。

後ろの理美ちゃんも、立ち止まっている。


「お前さぁ―――、こんなとこで酔ってんじゃねぇよ」と、相槌を打つ相手の人の声。呆れているようにも、笑っているようにも聞こえる。それに応えるように、少し大きくなった赤坂さんの声が、ここまで響いた。


「マジ、あいつもしかしたらメンヘラかもしんねーじゃん? 陰キャでメンヘラなんさ、終わってんじゃん、もう。俺が付き合ってやるってんだったら、ありがてーじゃん。ラインも交換しねえなんて、マジ調子乗ってるって、あのブス」


その瞬間、忘れていた言葉が頭にこだました。


『あんた、キモイよ』


わたしをわらい続けた、冴島の歪な笑顔。薄笑いを浮かべる、周囲の取り巻き。


とんとわたしの身体が倒されて、レジカウンター前のソファに置かれた。

一瞬何が起きたか分からなかった。座らされたんだと、遅れて気がついた。

そしてそこに、理美ちゃんがいないことも。


(あれ・・・・・・理美ちゃん、どこに・・・・・・?)


そう思ったほんの少し後。

奥のほうからバンッと凄まじい音がして、「ざけんじゃねえよ!!」と叫ぶ声がそれに続いた。


それは理美ちゃんの、聞いたことのない声だった。
















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