32.あやまち

「それ、友田さんが言ったの・・・・・・?」


当たり前だ。分かり切っている。それなのに訊き返さずにいられなかった。

肺のあたりが、ぎゅっと締まる。


「一度だけ、なんだけどね・・・・・・」


理美ちゃんが、視線を落とす。グラスから滴る水滴を、打ち消すようになぞる。


「わたしも1年だったの。ゆかり・・・・・・友田さんか。彼女と知り会ったのが」


琴音と同じくらいの時期だったかなと、理美ちゃんは続けた。


「詳しくは言えないけど、友田さんは今と同じくらい、追いつめられててさ。で、わたしもそのくらいのとき、まだこの学校慣れてなくて、ていうか慣れる気がなくてさ。で、うろうろしてたら琴音と同じような出会い方して、友達になってた」


理美ちゃんが、グラスを傾ける。

わたしと同じような。

そう聞いて、踊り場の暗闇を思い出す。そこに蹲る、灰色の背中を。


「『助けよう』っていうつもりは、なかったんだよ。最初は」


理美ちゃんが、ゆっくりと話し始めた。


「だけどさ、いざ友達になってみて、相手が苦しんでると、放っておけないじゃん。原因とかあったらわたしじゃどうにもならないかもだけど、そばにいることはできるって、そう思ってたの」


なんとなく、分かる気がする。

実際、わたしはそうやって理美ちゃんに助けられたから。


でもそれがなぜ、「関わらないほうがいい」と言い切る関係になってしまったのか。

乾いた唇を湿らすように、今度はわたしがグラスのジュースに口を付けた。

わたしの内心の緊張に気づいたように、理美ちゃんが言った。


「大丈夫? 重い話になるけど、しんどくない?」


「大丈夫」


理美ちゃんは、わたしの過去を知っている。

もうすでにお腹の中心が引き絞られたように痛いけれど、「聞かせて」と言う。


頭の中では、初めて理美ちゃんが友田さんを「関わらないほうがいい」と言ったときのことが、浮かんでいた。通話越しだったけれど、言い切るのではなく、迷うような。語尾にほんの少しの、震えを感じたことを。


まだ理由は分からないけれど、結果的に理美ちゃんは、一度友達になった友田さんから離れてしまった。

それがどこまで自分の意志かは分からないけれど、今でも彼女はそれを気にしている。そんな気がした。


「・・・・・・本人がいないのに、こんな話するの、あんまり良くないんだけどね」


再びグラスを傾けて、とっくに中身がなくなっていることに気づいた理美ちゃんが苦笑する。


「それでも聞いてほしいっていうのは、わたしのワガママ。琴音になら、話したいし、話せるって、なんか思って。言い訳だけどさ」


慎重に。とても慎重に、理美ちゃんは言葉を選んでいく。


「なんて言えばいいのかな。あの頃さ、あの子だけじゃなかったんだ。わたしもあんまり、なんていうか、安定してなかった。そこにいるときは面倒だな、ってくらいにしか思ってなかったのに、いざ抜け出してみたら、周りのこと、怖くなって堪んないの。時間差で」


学校の話だ。理美ちゃんが前に少しだけ、「人間関係が煩わしかった」とか、そういうふうに言っていたことを思い出す。

てっきり、前の学校を辞めて自由になれたのだと思っていた。

けれど、学校を辞めてのその後の、そんなことを聞くのは、初めてのことだった。


「前に琴音が話してくれたことあるじゃんか。『フツウ』から外れて怖い、みたいな。わたしもだった。今じゃ、こんなのもありだよねって思ってるけど、あの頃は怖くてさ。怖くて、堪らなかった。何がっていうのは、琴音と同じか分からないけど、とにかくそういう思いはしてたわけ。でも警戒心だけは強いから、誰にも懐かないの」


可愛げないよねと、おどけるように笑ってみせる。

グラスの中で溶けた氷が、からんと音を立てる。


「ゆかりがどういう事情だったのかは、今もよく分からない。あの傷だけ見れば、十分だった。あの子もわたしも何かが怖くて、周りにも馴染めてなくて、先が見えなかった。何であの子だったんだろう、って思うことがあるけど、今でもよく分かんない。いつのまにか、隣にいたし、隣に行ってた。そんな感じ」


「静かだったから?」


ほとんど考えもなく言った言葉だった。

けれど、理美ちゃんは思いがけず「ああ・・・・・・」と、小さく息を吐いた。


「かもね。何だかんだいって、友達ってできると楽しくしてないと浮くし、いないとそれはそれで、まあ寂しかったりするし。そうだね。あのときのわたしには、あのくらいの温度の友達がちょうど良かった。たぶん、そういうことだと思う。こういうの、利己的っていうのかな。だとしたら、最初から悪かったんだ。わたし」


「何で・・・・・・?」


「中途半端だったんだよね。何もかも」


ベージュのソファー席に背を任せて、理美ちゃんが続ける。


「最初はね、そんなたいしたことじゃなかったの。『へこんだ』とか『失敗したー』とか。それがだんだん、『もうダメ』とか、『死にたい』とかになって、最後のほうは、『今から死ぬ』とか『ごめんね。さよなら』とか、そういうのが送られてくるようになって。実際、大変なことになりかけたこともあって。人ってさ。動揺してると、何も握れなくなるんだよね。スマホもさ、かけようとしても、震えて持てないの。持っても、落ちちゃうんだ。何回やっても」


そのときの感触を思い出すかのように、理美ちゃんは片手を撫でた。


「傍にいるとか、話を聞くだけじゃどうにもならないことって、あるんだなって。そんな当たり前のこと、初めて知った。油断してたんだよ。どっかでハッピーエンドの夢見てた。なんとかなるかもって、思っちゃってたんだよね」


疲れちゃったんだと、理美ちゃんが続けた。


「無責任だよね。自分から近づいといて、いざ助けを求められたら、やっぱりできませんってさ。でも、そこで早く正直になれてれば、まだ良かったのかもしれない。わたしは変な意地張って、友達を助けられない自分を見ないために、現実を無視して、自分だけあの子の傍にいようとした。だってそうしないと、わたしまでダメになりそうだったから。怖かったけど、最低だった」


理美ちゃん・・・・・・?と、思わず訊くと、大丈夫だよと言ってくれた。

本当かどうかは、分からない。


「最後に会ったのは、マンションの非常階段だった。『一緒に』って言われたのは、そこで。もう限界で、誰呼んだらいいか分からなくて学校に連絡して、気がついたらわたしだけ、会議室で寝かされてたっていう話。けっきょく中途半端なことして引っかきまわすだけで、最後は全部人に任せちゃったって、そういうわけ」


最後は絞りだすように言って、理美ちゃんは大きく息を吐いた。

こんなに長く話す理美ちゃんを見たのは、初めてだった。


とっさに返す言葉が浮かばない。

それでも必死に言葉を絞りだそうとしたけれど、無駄な試みだった。

顔を上げた理美ちゃんが、ほんの少しだけ笑う。無理しなくていいよ。そう言っているようだった。


「まあ、いろいろあったわけ。わたしが、琴音くらいのときに。そういうことで、ちょっと心配になっただけ」


わたしの返事を待たずに、ちょっとトイレと、理美ちゃんは席を立つ。

店内の喧騒が、一気に戻ってくる。

わたしはさっきまで理美ちゃんが座っていた席を見つめて、けれど何の言葉も埋められないでいた。


何も聞かないほうが、いいんだろうか。

それとも、何か言ったほうがよかったんだろうか。


『一緒に死んでって言われたら、どうする?』


どこかでさんざん聞いたような言葉なのに、口にされたその温度は、絶対零度のように冷たかった。この冷たい重みを、理美ちゃんはずっと抱え込んでいるのだろうか。

自分自身の、過ちとして。


もし、そうだとしたら。


「お待たせお待たせ」


何でもないような顔をして、理美ちゃんが戻ってきた。


「てか、ごめん。今日、琴音のお疲れ会だったんだよね。何でわたしが話してんだって話だわ。あ、わたしせっかくだからシーフードピザも・・・・・・」


「理美ちゃん」


「ん?」


こちらを見返す顔は、いつも通りの元気できりりとした、曇りのない顔。

わたしの、大好きな顔。だからこそ、話したかった。


「わたしもたぶん、理美ちゃんと同じことをしてたと思う」






























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