第四章
31.距離
その日理美ちゃんと落ち合ったのは、駅近くのファミレスで、ちょうどバイト帰りの理美ちゃんに合わせて、普段は行ったことのないチェーン店を選んだ。
「お疲れ~」
と、グラスを上げる理美ちゃんは(中身はコーラ)、少し瘦せたように見えた。
まるで大人のようにグラスを合わせるわたしだったけれど、中身はグレープフルーツジュースで、けっきょくわたしたちはまだ子どもなのだった。
「なんか、最近急にゴメン。別に、話したくなかったわけじゃないんだけど、時間がなくて」
「ううん。全然、気にしてない」
とはいいつつも、いつものようには会話が弾まない。
一応は互いの近況報告をして、お互いの今を確認し合って、いつも通り「疲れるね」なんて言い合っているけれど、いつもと違って会話は途切れがちだ。肝心なことが話題になっていない。そんな気がした。
「なんか。ごめん、わたし今日、喋るの下手かも。疲れてるのかな」
めずらしく困ったように笑う理美ちゃんの言葉の奥。気のせいかもしれないけれど、わたしにはそこに別の光景が浮かんで見えるような気がした。理美ちゃんが唯一、「関わらないほうがいい」といった、今はもう在籍しているのかも分からない、学年が上の女の子。階段の踊り場で見た、腕に浮かんだ傷が蘇る。
それでもしばらくは、当たり障りのない話をしていた。それでも理美ちゃんは、同時にじっと迷っているようだった。
その話を、するかしないか。といっても、わたしにはその話かどうか分からないけれど、親友と言ってもいい付き合いだ。表情の奥から、察するものもある。
「理美ちゃん」
「ん?」
「あのさ・・・・・・」
「お待たせしましたー。ミートドリアと、唐揚げ定食ですねー」
口にしかけた言葉は、店員さんによって遮られてしまった。タイミングが悪かった。
理美ちゃんは言葉の先を待っているような様子だったが、なんとなく気づまりになって、わたしはひとまず、皿の上のフォークに手を伸ばす。
理美ちゃんも、「いただきます」と箸を取った。
しばらく「いくら何でも熱すぎ」だとか、「コショウ効きすぎ」だとか、他愛もないことで笑い合っていた。なんだか、ついこの間までの時間に、一気に戻ってきたかのような錯覚すら覚える。くだらないことなのに、何でも言い合えて、笑い合っていられたあの頃に。
だからなのか。
その言葉は、いつもの言葉と同じように、わたしの口からするりと飛び出した。
「理美ちゃんの話したいことって、友田さんのこと?」
唐揚げにかぶりつこうとしていた理美ちゃんは箸を置くと、「それだけじゃないんだけどね・・・・・・」と、苦笑いしてから視線を落とした。
斜め向かいの席の家族ずれから上がった、けたたましい声を合図にしたように、理美ちゃんが口を開く。
「まずは琴音のお疲れ様会がしたかった。これは本当」
「うん」
「それと、本音を言うと、2つ気になってた。友田さんと、赤坂さんっていう人のこと」
「赤坂さん?」
思わぬ名前が出て、驚いたというより、拍子抜けした。
たしかに赤坂さんについては、理美ちゃんに何度か話したこともあるし、最近は距離が近すぎると感じて相談もしたことがあるけれど、ここで話題になるようなことなのだろうか。
わたしの沈黙を、聞く姿勢に入ったと受け取ったのか、「ごめん、いきなりすぎるよね」と、理美ちゃんは言葉を続ける。
「まずね、友田さんのことなんだけど。わたしが話していいことなのか、正直分かんない。けど、琴音が今でも、少しでも『助けられなかった』と思っているのなら、聞いてほしいことがある」
どきりとした。「助けられなかった」と聞いて、心臓の辺りがきゅっと縮んだ。
本音を言うと、そこまでは思っていない。あれは、彼女自身の問題だから。
けれど手段は違っても、わたしも一度は自分を傷つけ、この世界から逃れようとしたことがある。もしかすると、何かできたのではないか。そんな思いは、確かに今でも、ほんの少しだけあった。
同じ学校の子として、見かけるたびに気にはなっていた。けれど、付き合う義務はない。時折空き教室や廊下で見かける彼女は、いつも一人で、俯いて地面を見つめていた。けれどそれは、彼女の領域だ。だからわたしは、一度も行動を起こさなかった。
なぜなら、心の底から苦しいとき、自分ならどうしてもらいたいか、今でも全然分からないから。それは、例え先生たちや、理美ちゃんが相手でも、じつは今でも変わらない。
日常の、ふとしたことや、よくある悩みはずいぶん気楽に相談できるようになった。
けれど時々、忍び込む夜霧のように訪れる、行き場のない漠然とした焦り、前の学校での嘲り、自分はここにいていいのかという、不安。
そういったことはたぶん誰にもどうにもならないことで、だからわたしはそういったことを先生たちにも、そして理美ちゃんにも話したことはない。
頼る、頼られる。そういう関係に、わたしは今でも見えない境界線を張っているのかもしれない。警戒とは違う。ただ今ある穏やかな毎日を崩したくなくて。
わたしの線引きは、どこに引かれているのか分からない。
もしかしたら赤坂さんのような人にももっと心を開くべきなのかもしれないけれど、今はまだ、明らかに安心できる相手にしか、それも少しずつにしか、踏み出すことができない。距離。無数に広がるそのひとつひとつに、思えばわたしは、今でもいつも臆病で、ずっと慎重でいる。外から見ればたぶん大したことない、周りから浴びせられ続けたたった一言に、縛られて。自分でその鎖を、いつまでも引きずって。
でも裏を返せば、そういう事情は、誰にあってもおかしくはないということだと思う。
そしてそれが自分以外の相手であるなら、もっともっと分からないから。だからわたしは、彼女と距離を縮めないことを選んだ。そしてそれは、わたしにとっても彼女にとっても、たぶん正解だった・・・・・・はずなんだ。
「こころの痛みって、目に見えないから。こうすればね、少しだけ軽くなるの」
薄暗い踊り場に一人でいた彼女はもう、この学校にいない。
そんなわたしの表情を見て取ったのか、理美ちゃんは少し寂しそうな顔で、ぼんやりと笑った。
「というかね、ごめん。さっきのは、たぶん半分嘘。けっきょくわたしが勝手に、誰かに言い訳したいだけなんだ。しかもそれを、本当は誰かに、じゃなくて琴音に、聞いてもらいたいだけ。本当はさ、彼女がいないところで話しちゃいけないことだと思う。もう、誰にも・・・・・・」
けど・・・・・・・と続けた理美ちゃんの声は、いつになく弱弱しかった。
唐揚げにしぼったレモンがしみ込みすぎて、衣がぐずぐずになりかけていた。
「言い訳・・・・・・。でも、聞きたいよ。わたしは・・・・・・」
力になれるなら。この頼りないわたしでも目の前の理美ちゃんの力になれるなら、今できることをしたい。言葉は続かなかったけれど、そんな思いを込めて、ずっと視線を落としたままの、初めて見る理美ちゃんに向かって声をかけた。
もし理美ちゃんが、話をしてくれるなら。
わたしで。わたしでそれを、受け止められるだろうか。
怖い。不安だ。できれば、違う話にすり替えちゃってしまいたいとすら、どこかで思ってる。
けれど。
今までだって、理美ちゃんはわたしを助けてくれた。
何でも優秀に見える理美ちゃんも、悩みがあって、もちろん苦しいこともあって。
そんな中でも、わたしのことをいつも気にかけてくれていることを、この数カ月で、ずっとずっと感じていた。溺れていたわたしに、浮き方を教えてくれたのは、目の前のこの子なのだ。
理美ちゃんからの反応は、しばらくなかった。というより、迷っているようだった。
箸を持った手元は、さっきからまったく動いていない。わたしたちの沈黙の側を、いくつもの電子音や嬌声、ざわめきが通り過ぎていく。
手元のドリアのチーズが固まってきたころ、理美ちゃんはようやく顔を上げた。
大切に育てていた花を枯らしたときの従妹の顔が、頭をよぎった。
「琴音」
「うん」
「一緒に死んでって言われたら、琴音ならどうする?」
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