30.一歩

最近、中途半端にぼんやりする時間が増えた。


理美ちゃんは、友田さんのことについて、それ以上のことを話したがらなかった。

何かの事情があったのだろうけど、話したがらない。

もちろん本人は言わなかったけれど、なんとなくそこに、わたしは『言わない』空気を感じ取った。他人に打ち明けて、本人がいないところで、自分だけで完結する謝罪。そんなところに、逃げ込めない。そんな空気を。


今はまだ、理美ちゃんの言葉を待つしかない。そんなときなのだろう。

最後までどこか思い詰めた空気が漂う中、曖昧な理由をお互いに見つけて、わたしたちは通話を終えた。

その日以来、けれど理美ちゃんとの会話はほとんどない。


そしてここのところ、おばあちゃんの元気がない。

骨の治りが悪いというのもあるし、自由に動けずにいることのストレス、周りに自分が迷惑をかけてしまっているという罪悪感。けしてわたしたちにぶつけてはこないけれど、現実が連れてくるたくさんの困難に圧倒されて、あの気丈なおばあちゃんの影が、だんだん薄くなっている気がする。


部屋で眠っている時間が増えたし、りんを撫でる手にも力がない。

起き上がるのも大変なので、お仏壇のおりんを鳴らす音も、めったにしなくなった。

お仏壇の掃除は、お母さんがときどきやってくれている。


「おりんの音には、鳴らす人の心が出る」と、前におばあちゃんは言った。

おばあちゃんが鳴らす音。たまに部屋から聞こえるおりんの音は、前よりずっとか細く、鳴らしたそばからすぐにでも消えてしまいそうだった。

そっと部屋を覗くと、前よりずっと小さな背中になったおばあちゃんがいる。

そんなとき、わたしはそっとその場を立ち去ってしまう。

当たり前にいたおばあちゃんの姿が、もう見えなくなってしまう気がして。


学校での生活は、相変わらずだった。

理美ちゃんと会う時間はほとんどなくなっていたけれど、それ以上に友達を作る必要性も感じなかったので、わたしは黙々と授業に出て、先生と話して、たまに名前も知らなかった子たちの集団に混じって話をしたりもした。前の学校と違って、特定のグループに属する必要もなかったので、そこは楽だったし、いい気分転換になった。


成績は、下げたくなかった。なんていうか、自分以外のせいにしたくなかった。

意地に似たその気持ちは幸い実を結んで、夏期講習と模試の結果では、まずまずの成績を納めることができた。半ばあてずっぽうに書いた進学先であっても、「A」判定をもらえたのは大きい。有名な大学というわけではなく、マンモス校で有名な私立大という程度だったのだけれど、それでもわたしにとってみれば、大きな一歩だった。


忙しくて忘れていたりん、1歳の誕生日を祝ったのは、りんがうちにやってきて1年経った、10月の秋のことだった。

そのくらいわたしたちにはいろいろなことがありすぎたというのもあるけど、りんの血統書が見つからず、正確な誕生日が分からなかったのだ。

その結果、りんの誕生日会は「我が家に来て1周年記念日」になってしまったのだけれど、本人はそんなことは気にせず、もらった犬用ケーキにがっついていた。


我が強くて、面倒ばかりかける。散歩が嫌いで、おばあちゃんっ子で、けれど思い出したころに、かまってほしくてすりよってくる。同じ部屋で眠っていると、いつの間にかお腹の上で眠っていて、息苦しくて目が覚める。どかそうとすると、迷惑そうに「ふんっ!」と鼻を鳴らして、動こうとしない。


ようするにマイペースなのだけど、ときどきこの子は、人の言葉、まではいかなくても、人の気持ちを分かっているんじゃないだろうかと思うことがある。


たまに襲ってくる、漠然とした将来への不安。いつかのように仕事ガイドや資格ガイドをめくっても、いっこうに出てこない答え。どんどん気弱になっていく、おばあちゃんの言葉。バイト中なのに全然関係ないことで話しかけてくることが増えた、赤坂さんとのやりとりの重さ。いつでも取り戻せるはずなのに、距離ができてしまった、理美ちゃんとの関係。


なぜそういうことを周りに言えなかったのかは、分からない。

別に、言葉に意味がないなんて思っていたわけじゃないのに、わたしの中でそういった持て余した感情は、言葉を与えられないまま完結していた。

言葉にならないその思いを知っていたのは、言葉を持たないりんだったように思う。


不意に、何も考えたくなくなって、床にどさりと寝転がる。何も考えていない。ただ、ぼんやりしているだけ。


そんなとき、顔の横からじっとこちらを覗き込むその真っ黒なりん。その黒い瞳には話しかけたくなる何かがあって、そんなとき、わたしはりんを抱き寄せて、「なんなんだろーね」なんて、答えのない言葉の断片を問いかけていた。


閉口していることがある。赤坂さんのことだ。


ラインの交換すら断っているのに、しきりに外で会わないかと誘ってくる。

最初はやんわり断っていたけれど、赤坂さんはなかなか誘いをやめようとしない。

見かねたパートの米倉さんが合間に、「はっきり断ったほうがいい」とアドバイスをくれたけれど、「ハッキリ」のやり方がよく分からなくて、わたしは「そうですね・・・・・・」と、何も答えになっていない受け答えをしていた。

それはすべてがすべてわたしの責任ではないとは思うのだけど、赤坂さんからのお誘いは今ではほぼ顔を合わすたびになり、会えばほとんどがその話になっていた。


それだけが理由ではないけれど、バイト先を変えることも考え始めていた。

社員の人には許可されているとはいえ、わたしのシフトがおばあちゃんの体調やお母さんの都合で変則的に変わることに不満を持っている人も増えてきたという話も聞こえてきた。


それはもう少し時間が経って、おばあちゃんの具合が安定すれば解消される問題なのかもしれないけれど、一度くすぶった不満というのは、なかなか消えない。それは明確な悪意とは違うけれど、それと似たようなもので、いつのまにか少しずつ大きく育って、増殖していく。本当は進学に備えて、少しでもお金を貯めておきたかったのだけれど、安全は、選ばなくてはいけない。強がれるほど、わたしは強くない。


そういうわけで、時間があるときにわたしは他の仕事を探し始めた。もちろん、社員の持田さんには話を通してある。現場の隅での立ち話というかたちだったのだけど、事情はある程度分かっているからか、「新藤さんは真面目にやってくれているから、残念だけど」といいつつも、仕事が決まって退職の意志が固まったら、2週間前までに報告してほしいと言われた。


伝えようか迷ったけれど、何かにつけ応援してくれていた理美ちゃんには、伝えておこうと思った。いつの間にか久しぶりになってしまったラインへの返事は、懐かしい時間差でやってきた。


『大変だっただろうけど、お疲れ様。頑張ったね』


『みんなのおかげ。いい経験になったよ。二件目はまだ決まってないけど』


『そっか。どこか候補あるの?』


『ないなぁ。でも、あんまり派手じゃない仕事がいい』


『琴らしい。そういえば』


一呼吸置いて送られてきたメッセージは、心躍るものだった。


『最近、会えてないね。琴のお疲れ様会、しない?』


自分でも、笑みがこぼれるのが分かった。

即、『OK!』のスタンプを送ると、お互いの予定を確認し合う。


2週間後、水曜日の午後。

わたしたちはその日、数週間ぶりに再会することになった。

ちなみにこの日のりんのおやつは、少しだけ多めになった。

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