29.傷

※自傷行為に関する記述を含んでいます。


うずくまっていた、灰色のブラウス。

近づくと、ところどころボサボサになっている長い黒髪に、見覚えがあった。


わたしが入学て、間もない頃。

腕に傷をつけて、森崎先生に連れられていた子。

友田さん、だったと思う。


「悪いけどあの子には、関わらないほうがいいと思う」


理美ちゃんが唯一、そう言った子だ。

悪気というわけではなく、真剣にそう言っていたので、よく覚えている。


かといって、こんな狭い空間で見つけてしまったからには、引き返すわけにもいかない。階段を下る音は確実に本人に聞こえているはず。

だというのに、友田さんらしきその人影は、右肩がわずかに動いているだけで、ほとんど身動きをしていない。

自分がつばを飲み込む音が、やたら大きく聞こえた。


「あの・・・・・・大丈夫ですか?」


わたしより先にいたということは、先輩という可能性もある。

そのくらいの情報もないくらい、友田さんの存在は謎に包まれていた。

教室でも、ほとんどその姿を目にしたことはない。


目の前の彼女の両肩は、薄暗闇の中でびくっと震えた。

ゆっくりとこちらを振り向いたその目は、ほとんど何の光もたたえていなかった。

続けようとした言葉が、分散した。


「・・・・・・言わないで」


か細い声で、友田さんが言う。


(何を・・・・・・?)と思ったとき、異変に気づいた。

ブラウスの左肩、ひじから上の、上腕の辺り。

赤黒い色がにじんで、裾へと流れていた。

遅れて気づいた。明らかに、血の色だった。


「え、血出てるよ!? 大丈夫? 今先生呼んで・・・・・・」


「ダメッ!!」


半ば叫ぶように、友田さんが言った。

踵を返そうとしていたわたしの脚は、気おされて止まってしまう。

中途半端な向きで立ちすくんでいるわたしに、友田さんは無理やり作った笑顔で言った。


「自分でやってることだから・・・・・・もう無理だってわかってるから」


心臓が高鳴る、というより、すーっと冷えていく。

こちらに向き直った友田さんの手に握られていたのは、カッターナイフだった。


自分の唇が、震え始めたのが分かる。逃げないと。それが分かっているのに、脚がぜんぜん動かない。そんなわたしの様子を見てか、「あ」と声を発した友田さんは、ちききっと、ナイフの部分を収めた。


「ごめんなさい。誰かに危害を加えるとか、そんなつもりはないの」


心からすまなさそうに、カッターを傍らのポシェットにしまう。

思わず大きく息を吐いたそのとき、わたしは自分の呼吸が浅く止まっていたことに気づいた。


「でも・・・・・・怪我、してるよ?」


「いつものことだから、慣れてる。これ、縫うほどじゃないし。心配かけるから、知らせないでね」


そこで初めて気づいた。友田さんの、階段の常夜灯に照らされてもなお分かる、青白い顔。今そこに浮かんだ笑みには、けれど生命力がまったく感じられない。


「でも、何で・・・・・・」


考えていたのは、最悪の可能性だった。

けれどそれを本人が否定した今、頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてしまっていた。

友田さんは、ほう、っと息をついてから、言った。


「こころの痛みって、目に見えないから。こうすればね、少しだけ軽くなるの」


とても長く感じたけれど、きっと短い時間だったのだろう。

上の階のドアが大きく開く音と、「ゆかりっ!!」と叫ぶような森崎先生の声が聞こえたのは、そのときだった。



「それで、どうなったの?」


スマホ越しの理美ちゃんが、そう尋ねた。

わたしは話した。友田さんの声が聞こえた森崎さんと園田先生が校内を探して、わたしたちを見つけたこと。嫌がる友田さんを連れて、森崎先生がどうやら病院に向かったこと、授業から帰った渡部先生に、大変な思いをさせて申し訳ないと謝られたこと。そして、友田さんが言っていた言葉のこと。

傍らでは今日も、りんが大人しく眠っている。


おおかたのことを黙って聞いていた理美ちゃんは、「そんな感じかな・・・・・・」というわたしのつぶやきを引き取るように、言った。


「自傷は、アディクションになる。ホントだね」


「アディクション?」


いきなりの、聞きなれない単語。「どういうこと?」と尋ねると、理美ちゃんは、ひとつため息をついてから、説明を始めた。


嗜癖しへき、っていうか、『癖』みたいなもの。習慣化しちゃうらしい。気分が沈んだり、ストレスがあると、そっちにはしっちゃう」


「でも、かなり切ってたよ? そんなの、痛いだけじゃん」


ブラウスに染みた血を思い出して言うと、理美ちゃんが「そこなんだよね」と言って言葉を続けた。


「わたしも少し調べたことがあるんだけどさ。自傷やってる人って、そもそもが周囲に相談できるとか、そういう環境に乏しくて。けど、自傷行為やってるときに脳内麻薬っていうか、麻酔みたいなものの分泌量が増えるんだって。それで、身体の痛みで、こころの痛みにふたをする。それが、習慣化しちゃう。繰り返すほど、そういうことが起こってきて、自分じゃなかなか抜け出せなくなるみたい」


「そんなこと・・・・・・」


もしそれがそうなら、なんて残酷なことだろう。

痛みから逃れる手段が、別の痛みを上書きするしかない、そんなことって。


「でも、っていうことは、自分で死んじゃうとか、そういうことじゃないんだよね? っていうか、うちにはカウンセラーの人もいたよね」


「それも期待できないかな。あ、カウンセラーのほうね。わたしも行ったことあるけど、話聞かれるだけで何の役にも立たなかった。少なくとも、うちのところのは。それと、これもあちこちで言われてることだけど、自傷している人の将来の自殺率は、年数を追って調査しても、普通の人よりかなり高かったらしいよ」


理美ちゃんの言葉は、どれもわたしの期待をあっさり打ち砕くものだった。

息を呑んだ、その空気を感じ取ったのだろう。理美ちゃんが慌てた様子で言った。


「いや、あくまで確率だから。克服した人だって大勢いるし。ごめん、空気悪くした」


バレバレだ。まあ、そうなるほうが当然な話ではあるけど。

そんなことないと否定しながら、けれどわたしの頭ではある疑問が湧いていた。


「ねぇ、理美ちゃん。どうしてそんなに詳しいの・・・・・・?」


「あ・・・・・・」


今日初めての、沈黙が流れる。わたしたちの話し声が聞こえたのか、りんが両手足を大きく伸ばしたとき、理美ちゃんがぽつんと「ごめん」と言った。


「隠す気はなかった、ってのは言い訳だね。わたしあの子と、友達だった。あの子のほうが2つ上だけど。あの子、今年も卒業できなかったんだね」


少しだけ、予感はしていた。基本、周りの生徒に興味は持たない理美ちゃんが唯一、「関わらないほうがいい」と言った相手。やっぱり、過去に何かあったんだ。

「聞いていい?」というと、「本人がいないところだから、わたしの側しか話せないけど」と前置きして、理美ちゃんは続けた。


「原因は知らない。けど、わたしが入学したときから、そうだった。出会い方は、琴音とあんまり変わらない。場所がぜんぜん違うくらい。心配したよ。だから、友達になった。わたしからね。けど、ダメだった。わたしじゃ何をやってもダメで、苦しくなってきて。だんだんそれが、お互いに分かってきてさ。あの子、すごい気遣うタイプなの。だからだろうね。だんだん距離置かれて、わたしもそれに合わせちゃって、今はこんな感じで、ぜんぜん接点ない」


琴音もそうなるんじゃないかって思ってたと、理美ちゃんは続けた。


「たぶん、わたしたちはどこかで似ているところがあるんだと思う。だから、おたがい助けたい、助けられたいっていう思いがどこかにあるんだと思う。けど、わたしたちの場合は、逆だった。琴音の行動を縛るのは悪いとは思ったけど、昔のわたしを思い出したら、あんな言い方しかできなかった・・・・・・」


スマホ越しの理美ちゃんの声が、ほんの少しかすれているのに、そのときになってようやく気づいた。


ようやく起き出したりんが、寝ぼけ眼のまま、ぱたぱたとしっぽを振った。

部屋の窓から見えた月は、欠けながら薄く輝いていた。







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