27.ユメ
「なーんか最近、琴ちゃん見ねえなって思ってたら、そういうことだったわけね」
そう言って、赤坂さんは豪快にコンビニおにぎりにかぶりついた。
蛍光灯に反射して、右耳に開けた朱色のピアスが光る。
2週間ぶりに顔をバイト先に顔を出したのは、今後のことを相談するためだった。
「そうなんです。持田さんには相談しているんですが・・・・・・」
社員であり、現場リーダーの持田さん。肩幅が広く無表情で、怒鳴ったりすることは見たことはないけれど、なんとなく怖いイメージがあった。けれど、持田さんにおばあちゃんの件を話すと、持田さんもおばあさんが介護が必要な状態で、相当苦労したと言っていた。今は、施設に入っているという。そして掛けられた言葉は、「シフトのことは気にしなくていいから、よければうちで続けたらどうだろう」という、優しいものだった。
今のところは、わたしのおばあちゃんは介護が必要な状態ではない。けれど骨折しているし、心臓の病気も見つかったので、今まで通りに日中りんと、おばあちゃん一人で生活することは難しい。お父さんにも、お母さんにも仕事がある。二人が深夜に何度もリビングで話し合っている気配。傍らで眠るりんの体温を感じながら、わたしは暗い天井を見つめながら、それを何度も察していた。
ある日、おばあちゃんの部屋からおりんの音がなって、りんもそちらに引っ込んでいったあと。部屋に上がっていたわたしに、お母さんが話があると告げた。
豆電球だけがついたリビングで、お母さんと話をした。
日中、おばあちゃんとりん以外、誰もいない時間帯をどうするか、お父さんと話していたこと。高齢者は骨折の治りが悪く、生活の機能が低下する可能性があること。心臓の病気のこと。ヘルパーさんに来てもらえないかお役所に尋ねてはいるけれど、認定の審査にも数カ月かかるということ。その審査も、こちらの請求がどこまで通るか分からないこと。お母さんは仕事を辞めないといけないかもしれないけれど、すぐにでは人手が足りなくなるので、辞めることはできないということ。
「だから、少しの間だけ、琴音にも手伝ってほしいの」
おばあちゃんに聞こえないようにだろう。お母さんの声は、穏やかで小さい。
こくんと、頷くしかなかった。お留守番を頼まれた、子どものように。
「分かった。バイトは、連絡してみる。たぶん大丈夫だから、わたしもできることはするから」
そう言うと、お母さんは少し安心した様子で初めて微笑んだ。
暗闇に開きかけた、花のようだった。
けれど、もうすぐ閉じてしまいそうな―――。
「紅茶でも飲む?」と訊かれたので、飲む、と返した。キッチンに立ったお母さんは、ケトルでお湯を沸かし始めた。
「じつはね、琴音ならそう言うと思ってた」
背中を向けたまま、お母さんが言った。
「でね、こう言おうとしてるんじゃないの。『わたしがおばあちゃんの面倒を見る』って」
「・・・・・・」
その通りだった。「紅茶」の前。あと一呼吸早ければ、わたしが先にそう言っていた。
郵便局の窓口。配送物の扱いだけじゃない、貯金や保険、「トウシシンタク」っていう、難しいことを扱うことも多い。「配送」「仕分け」、わたしが知っている郵便局の仕事はそのくらいで、あとのことはわたしには全然分からない。
けれどわたしは、お母さんが、とても苦労して今の仕事を覚えたことは知っている。
そしてその仕事に、誇りを持っていることを。
どんなに嫌な目にあっても、今の職場と、そこで働いている自分に満足している。
そう言っていたのは、まだわたしがいじめに遭う前。
小学校の作文で、「お父さんお母さんのお仕事」について発表することになったときの話。
わたしはそう話していたお母さんの顔を、今でも覚えている。きっと低学年だったのだろう。お母さんのひざ下から見えるその表情は、夏のヒマワリのように輝いていた。ああ、これがお母さんの「ユメ」だったんだなって、そう思った。
だから。
守らなくちゃいけないって、思ったんだ。
フツウの学校でうまくいかなくて、救急車で運ばれるようなことをして、それでもこうやって新しい学校に通わせてもらっている。渡部先生たちのような、優しい大人にも会えた。理美ちゃんという、最高の親友にも出会えた。もう十分だ。
なのに、なのに。
「お母さん、でもわたしは・・・・・・」
「けどね、琴音」
わたしの声に被せて、お母さんは続けた。
「家のことは心配しなくていい。あなたは、あなたの人生をいきなさい」
そう言うお母さんの眼は、まっすぐだけど少し哀しそうだった。
その眼をまっすぐに見ることができなくて、わたしは視線を逸らした。
※
「じゃあとりあえずは、琴ちゃんがここ辞める必要ってわけ?」
「まあ、そうなんですけど・・・・・・」
続きを言うことができない。あのときはお母さんにやんわり押し切られてしまったけれど、もっと言うべきことがあったんじゃないか、とか。
でも、あの夜のことはわたしたちの間ではもう終わったことになっていて、翌朝目が覚めると、リビングにいつも通りのお母さんがいた。
だから、何も言えなくなった。
食事の手が止まったわたしの前で、相変わらず赤坂さんはもぐもぐと食べる手を止めない。早食いしたのか、急いだ様子で炭酸水を飲み込んで一息ついた赤坂さんは、「けどさ」と、頬杖をついて言った。
「何、罪悪感でも感じてるの? しょうがないことじゃん。ここはお母さんに甘えちゃって、その分琴ちゃんがここで稼げばいいだけじゃね? 良かったー、琴ちゃん辞めちゃうんじゃないかと思ったよ」
口にしかけていたペットボトルを持つ手が止まった。
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「しょうがない」?「稼げばいいだけ」・・・・・・?
頭の芯が、すうっと冷めるようだった。
ふだんは打ち解けて賑やかな赤坂さんの態度が、急にとても価値のない、くだらないものに思えた。あの気さくな赤坂さんって、こんな人だったっけ・・・・・・。
わたしの雰囲気を察したのか、赤坂さんは「あ、ごめん・・・・・・」と言って、それきり気まずそうに黙ってしまった。
「別に、いいですよ・・・・・・」というわたしの言葉も嘘まみれで、しばらくはお互いにものを噛んでは飲み込む機械的な動作が繰り返された。
空になったゴミ袋を捨てて、早いけれど倉庫に戻ろう。そう思って立ち上がりかけると、赤坂さんが不意に両手を合わせて、「ごめん」のポーズをとった。
「ホント、ごめん。悪気はなかったんだ。オレ、その辺の馬鹿な大学生だからさ、こういうとき、なんて言ったらいいのか分かんなくて。ホント、ごめんっ!」
3歳差とはいえ、成人した人に突然謝られて、びっくりした。何を思い詰めたのか、赤坂さんは机に手のひらと額を押し付けている。まるで土下座だ。りんじゃないんだから、そんなことをされても困るだけだ。
ここまでくると、周囲の視線の量が一気に増えていくのを、肌で感じる。主婦友同士の米倉さん、前田さんはじめ、普段は誰に対しても我関せずの様子の金原さんまで、端の席からこちらをうかがっているのが分かる。
「赤坂さん、もういいですって! 気にしてないですから」
「ごめん! その代わり、何でも相談乗るから! バイトでも大学のこととかも、悩んでたらオレでよかったら聞かせてくれ! 力になるから!」
「分かりましたから、もういいですって!」
あたふたするしかなかったわたしは、このとき彼が机に伏せていた顔で、どんな表情を浮かべていたのか、知る
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