26.過去
「大変だったね、おばあちゃん・・・・・・」
先生たちの次に、そう声をかけてくれたのは理美ちゃんだった。
これも久々に会った、マックでの会話。今日は二人とも、言葉少なだ。
「退院はできたんだけどね・・・・・・」
歯切れの悪い返事をしたのは、わたしだ。あの日の救急車のサイレンを聞くと、自分が運ばれたあの日のことを思い出して、記憶がだぶってしまう。
おばあちゃんの病気は、狭心症。わたしが理解できる範囲で言えば、ポンプ役の心臓付近の血管が詰まりかけて、うまく血液を送り出せない状態だった、そうだ。たまたまわたしが家にいたからよかったけれど、そうでなければもっと大変なことなっていただろうと言われた。
狭心症という病名に聞き覚えはないけれど、血管の中で血栓になりかけていたそれは、薬で散らすことができたという。けれど、悪いことに、おばあちゃんは胸が苦しくなり、和室から出ようとして転んで倒れてしまい、フローリングの床に打ち付けた膝の骨にひびが入ってしまっていた。
「すまないねえ。琴ちゃんにまで迷惑かけてしまって」
病室で見るおばあちゃんはいつもよりずっと小さく見えて、そしてそれは退院して、家に帰ってからもなんだか変わっていない気がする。
「情けないねえ。歳なんてとるもんじゃないよ」と、そんなことを言ったことがないおばあちゃんの笑った顔は、泣けなくて仕方なく笑ったような表情だった。わたしは口ごもりながら、そっと目を逸らした。
「それで、治りそうなの?」
「今のところ、薬でなんとかなってるみたい。定期的に検査は必要らしいけど。けど、それもだけど、膝がね・・・・・・」
骨折のことを話すと、理美ちゃんは自分のことのように顔を曇らせた。
当然だけど、心配させてしまった。せっかく久々に会えたのに理美ちゃんにそんな顔をさせてしまったことが申し訳なくて、わたしは違う話題を選んだ。
「そういえばね、赤坂さんからライン交換しないかって誘われちゃったんだけど」
「ああ、あの大学生の?」
「そうそう。バイト先の先輩」
意図的にそうしたわけじゃなく、むしろ意図的なのは赤坂さんのほうだけれど、最近口をきくことが多い。周りのバイトでも年齢が近い人はいるけれど、接点が少なく、黙々と作業する人が多いからか、休憩室で受け答えをするうちに、赤坂さんとの距離が最近近くなっていた。
「で、教えたの?」
「うーん。保留にしといた」
「断っていいんじゃない? JK狙いの匂いしかしないよ、そいつ」
「そうかなー。猫の写真たくさん見せてくれて、けっこう優しい人だと思うけど」
飼い猫だというその写真を、会うたびに見せられる。キジトラのその猫は、名前が「ミーちゃん」という、高貴な雰囲気をまとった猫だった。
「いや、絶対それ罠だから。動物好きに悪い人はいないとか、琴音まさか思ってないよね? 都市伝説だよ、それ」
なんだか力説されてしまって、ちょっと面白くない。休憩室での赤坂さんは、『きさくなお兄さん』という感じで、ときには進路の相談にも乗ってくれ、姉か兄がほしかったわたしにとっては、半ば兄のような存在感があったから。
とはいえ、こればっかりは言い合いしても仕方がない。理美ちゃんと赤坂さんが会うことはたぶんないし、会ったとしても相性が合わなさそうなことは、なんとなく分かる。赤坂さんは、どちらかと言えば遊んでいる人という雰囲気がする。話題も、大学のことよりも遊びに行ったときの話が多い。
たぶんこの話は平行線だなぁと思っていると、今度は理美ちゃんのほうが話題を変えた。
「ていうか勉強すんのマジ嫌だ。潰れそう。助けて琴音様」
そう。理美ちゃんは3年生。バリバリの受験生なのだ。
それも、難関大学を正面から目指している。プレッシャーは強いだろう。
大学に行こうとは思っているけれど、2年生で、しかも半ばのほほんと勉強しているわたしとは、比べ物にならない。
「もうね。なんでこんな、わたしの限界を試すような意地悪い問題しか出さないのこの大学!ってなる。あー、赤本がそのまま出ればいいのに」
赤本。つまり、過去問のことだ。
大変だなと思っていると、理美ちゃんが「その前に共テだけどね・・・・・・」と、力なく付け足した。共テ。つまり、「大学入学共通テスト」。以前までは、「センター試験」と呼ばれていた、総合実力テストのようなものだ。
出題範囲は6教科8科目。理系大学志望の理美ちゃんは、根っからの文系(この場合、特に得意分野がないという意味で)のわたしと違い、日々象形文字にしか見えないような数式や、化学反応式と格闘している。
「そういえば、理美ちゃんお兄さんいたよね? 何か言ってくれる?」
「ぜーんぜん。うち、兄妹仲悪いから、お互いシカト。そもそも兄貴、家出てるし、文系だし」
「孤軍奮闘、ってやつだね」
現国で出てきた四字熟語をそのまま転がすと、理美ちゃんは仰々しく頷いた。
わたしたちの席の真横を、中学校の制服を着た女の子のグループが
つっぷしてしまった理美ちゃんをしり目にぼんやりと彼女たちを眺めていると、顔をうずめたまま理美ちゃんがくぐもった声を出す。
「いいねえ、中学生は。戻りたくないけど、わたしもあのくらいの時期に戻りたいよ」
「どっちだよ。あと中学生もあるでしょ、入試」
「うんにゃ。わたしは最初からここ選んだから。学校、ほとんど行ってなかったし」
「え、嘘」
「ホント。黒歴史だけしかないのよ。だから戻りたいけど、戻りたくない。一からやり直せるなら、戻るかもだけど」
『人間関係が面倒になった』。まだ出会ってまもないころ、理美ちゃんは確かそう言っていた。わたしは自分と重ねて勝手に、理美ちゃんも高校からの転入組かと思っていた。理美ちゃんは相変わらずつっぷしていて、表情は読めない。手にした紙コップの冷たさが、急に手に染みた。こんなことを訊くのは、間違いかもしれない。けれど訊かずにはいられなかった。
「理美ちゃん」
「んー?」
「何で学校、行ってなかったの?」
何をどう注意すればいいのか分からないままに、とにかく責めるような響きがないよう注意深く尋ねると、相変わらずつっぷしたまま、理美ちゃんは「いじめかなー」と答えて、続けた。
「よくある話なんだけどね。ようは、出しゃばんなって話で。別にどーでもよかったんだけど、なんか急に教室に入れなくなってさ。っていってもうちゲームとか禁止だったし、やることなくて、仕方ないから家で本読んで、飽きたら勉強ばっかしてた」
カーテンを閉ざした暗い部屋。その中で、ひとり机に向かう理美ちゃんの姿が不意に浮かんできて、わたしは一瞬視線を逸らした。
「おっかしいよね。誰がとは言わないけどさ、あたしにも反感買う要素あったにしても、あいつら加害者なのにさ。何であたしが、いろいろ死にそうにならないといけなかったのかな」
無意識だろう。理美ちゃんの一人称が、変わっていた。
何か言わないといけないのだろう。けれど、言葉が見つからなかった。
「理美ちゃん・・・・・・」とだけ、やっと出かかった言葉が出る前に、けれど理美ちゃんは顔を上げた。笑っていた。
「まあ、琴音みたいな子に会えたから、今となってはどうでもいいけどね。はい、この話、これで終わり」
「何、そのベタな終わり方」
照れ笑いを隠しきれていなかったのだろう。理美ちゃんはニマニマと笑っている。
わたしは心の深いところで安堵を感じながら、けれど奥底のとげのような痛みを拭うことができないでいた。
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