25.恋と悲鳴

りんが、どうやら恋をしたらしい。

お相手は、6歳上の、7歳の雑種ちゃん。名前は、「チェリー」ちゃん。

人間でいえば、12歳の男の子が、44歳(くらい)のおばさんに恋をしたということになるらしいから、りんもけっこうな飛び級をしたものだ。


岡崎おかざきさんは3つ離れた一軒家に住んでいるご夫婦で、たぶん50歳くらい。おばさんのほうが多いけれど、時々おじさんがチェリーちゃんの散歩をしたり、

誰もいない公園でブラッシングをしている姿を見かけていた。

その日はおばさんがチェリーちゃんと空き地で休んでいて、気まぐれにたまたま通りかかったわたしたちは、会釈が終わるとつい「可愛いですね」と言い合って、なんというか、流れで座って話すことになったのだ。


「りんちゃんみたいに、小さかったらいいんだけどね。私たちくらいになってくると、お世話をするのも大変で。この子、大きいしおてんばだから」


そう言いながらも、チェリーちゃんを眺める岡崎さんのまなざしは、とろけそうなほど柔らかい。そしてとうのチェリーちゃんは、こちらの手の甲とりんの身体をひと嗅ぎした後は、すました顔で道を行く人たちを見つめている。


問題は、りんだ。


チェリーちゃんの全身の匂いを嗅ぎまわり、吠えまわってわたしに叱られて、いったん大人しくなったかと思えば、今度はチェリーちゃんの周りをさんざんうろうろし、けれど見事にガン無視をされている。あげく、「ひー、ひー」と情けない声を上げだして、真正のかまってちゃん攻撃に乗り出したのだ。ちなみに、チェリーちゃんはビクともしていない。「おてんば」どころか、めっちゃクールだ。


このときは、正直これがりんの『初恋』だとは気がつかなかった。

たまにではあるけれど、男の子(犬)に相手にされなくてかまって攻撃をすることもあったし、反対に、女の子(犬)に対してもかまって攻撃をすることもあった。たいてい、うっとおしがられるか、なぜか途中から威嚇合戦になって、ケンカ別れするかだった。なので、今回もそういう、りんなりの通過儀礼というか、ご挨拶的なものなのだろうと思っていた。


それが、そうでもないようだと気がついたのは、それから1週間ほど経つ頃だ。

チェリーちゃんは基本室内犬だけれど、ご夫婦が家にいるときは、家と敷地の間、門の中で放し飼いにされているときがある。

わたしもりんがいるので犬の匂いにはずいぶん鈍くなってしまったけれど、それでもふと風に乗ってきた匂いや、カチカチと爪が地面をはじく音で、ああ、今チェリーちゃん、外出中なんだな、と分かるときがある。


そんなとき、りんの『かまってちゃん』の炎が、再び燃え上がるのだ。


こうなると、そこから先の散歩コースに引き戻すのも力がいる。

なにせ、いくらリードを引いても門の隙間から長い鼻を差し込んで、「ひー、ひー」と鳴き続けるのだ。とうのチェリーちゃんは、一度だけ顔を出して鼻と鼻を合わせてくれたのだけれど、それも一度きりで、あとはりんがいくら騒ごうがわめこうが、知らん顔の様子だ。足音はするのだけれど、家の反対側に隠れて、こちらからは見えない。

りんのラブコールを兼ねた悲鳴は、増すばかり。仕方なくリードを引っ張ると、散々抵抗したあげくあきらめて連いてくるけれど、心なしかわたしを見上げる目が、上目遣いでじっとりとしている。そんな日は、遊びに誘っても、花が咲いているところに連れて行っても無反応。というか、帰ってからも機嫌が悪い。


そういう日が、このところ何度も続いている。

言っても仕方のないことだけれど、「もうあきらめなさいよ・・・・・・」とさんざん説得してはみた。けれど、「フンッ!!(お前には関係ない!!)」とばかりに鼻を鳴らされ、本人はすたこらとおばあちゃんの部屋に行ってしまった。

ああ、そうですか。そっちがその気ならいいんですよ。わたしだって、ヒマじゃないんだから。


おばあちゃんの部屋から、「りんちゃんも、お参りするかい?」と声がして、りんの鳴る音がした。かすかなお線香の香りと一緒に、空気を静かに震わすその音に混じって、りんがくしゃみをする音が聞こえた。


それにしても。


自分で言うのもだけど、最近だいぶ忙しくなった。

学校、なるべく平日の隙間時間にバイト、りんのお世話と散歩、家での勉強。

なんだかこれ以上にないくらい、健全な学生生活を送っている気がして、あの日サイレンの中病院に担ぎ込まれたことが、記憶の中で蜃気楼のように溶けていく。


部屋に戻り、久々にお気に入りだったDVDでも見ようかと思って、苦笑いした。

そういえば、あれをりんが噛んで真っ二つにしたのは、ようやくりんが我が家に、そして我が家がりんに慣れ始めたころの、休日だった。


ほんの一瞬の出来事。既に電話線を噛み切った前科持ちのりんを置いて、ディスクを出しっぱなしにしてトイレに行ったわたしが悪い。


けれどあの頃のわたしはただ茫然としているか、りんに振り回されて半ばパニックになってばかりで。真っ二つになったDVDを見て、この子とはやっていけない、無理だって、思ったんだっけ。雰囲気の変化を察したのか、神妙にしているりん。

何度も何度も見た、あまりに大好きな作品だったから、かえって怒る気力もなくなった。無言で乱暴にりんを抱いて、リビングに半ば突き飛ばして、階段を上がった。


お父さんもお母さんも、電話線に比べればDVDの一枚くらい、なんてことないと笑っていた。とうのりんですら、部屋の隅で、すべて忘れたように(実際、忘れていたと思うけど)がぶがぶと水を飲んでいた。だから、わたしが一人で怒って、例えば今さら喚いたりしても子どもっぽいだけだと感じて、けっきょくわたしは、ずぐずぐと濡れたTシャツを着たままのような気分で、部屋に帰るしかなかった。

けれどいつの間にか足は、おばあちゃんの部屋に向かっていた。


おばあちゃんはあのとき、桔梗の花を生けていたと思う。しとしとと、ほの暗い雨が降っていた。わたしは覚えていないけれど、幼いときのわたしは桔梗の花を、「青いお星さま」と呼んで、気に入っていたらしい。


DVDというもの言葉がおばあちゃんに通じるのかと思ったけれど、わたしがどうやら大事にしていたものらしいという部分は伝わったようだ。

めずらしくりんがいない部屋で、怒涛のようにりんに対する不満が湧いてきた。

甘えん坊のくせにわがまま、散歩は嫌い、要求が多い、芸を覚えてくれない、気分屋で、自分にはそんなに懐いていないように思えること、とかとか。

一通りを聞き終えたおばあちゃんは、桔梗の茎をはさみでパチンと切った後、こう言った。


「それで琴ちゃんは、誰のためにそんなに怒ってるのかい?」


しばらくは、そのDVD1枚分のスペースが空いたままになっていたけれど、今はそこに文庫本が挟まっていて、もう前からそうだったように、今の今までDVDのことなんて忘れていた。あの時は、言葉も思い浮かばず、返事ができなかった。できなかったけれど、なんとなく分かった。わたしは、りんのこともだけれど、りんが思い通りに育たないこと、そしてそれが、わたしの思う『フツウ』から外れてしまうことのシンボルみたいに思えて、だから怒っていたんだと。


りんの声が、かすかに聞こえた。

「ひー、ひー、ひー、ワンッ!」


めずらしい。久しぶりの、熱熱なご指名だ。

文庫をなぞっていた指を離し、部屋の扉を開ける。階段をのぞきこんで、首をかしげた。りんが、いない。けれど、まるで悲鳴のような鳴き声は続いている。


何の根拠もなかったけれど、急いで階段を下りて、奥の部屋に向かう。

りんの声はそこから聞こえる。足早に歩いているはずなのに、部屋が遠い。


「ちょっと、りん、どうしたの?」


部屋をのぞきこむ。

おばあちゃんが、胸を押さえて倒れていた。





















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