23.採用
決まるときは、本当にあっさりと決まってしまった。
「じゃあ、明後日から来てね。場所、ちゃんとメモってる?」
「あ、はい。大丈夫です・・・・・・」
連絡を受け取ったときは、最初は丁寧な口調だったのが、いつのまにかタメ口になっていて、それに慣れないまま、わたしはメモした場所、日時を読み上げた。
「そうそう。いるんだよね、当日になって来ない子。じゃあ、頼みましたよー?」
「はい。ありがとうございます」
こちらが言い終わらないうちに、通話は切れていた。
お父さんが穏やかな性格で、一人っ子のせいか、わたしは口調の強い男の人が苦手だ。親戚の集まりなんかでそういう人がいると、なるべく話しかけられないようなところに行ってしまう(たいていムダなんだけど)。それとさっきのような、
盛大にため息が出た。そんなことじゃ、この先やっていけない。
それにさっきの人はあくまでも採用の担当者で、実際の職場にいる人じゃないはず。
せっかくもらえた仕事だ。頑張らないといけない。
もうひとつ息をついて、テーブルの上のスマホ画面をスクロールする。
「誰にでもできる軽作業! 倉庫内の仕分け・ピッキング・梱包スタッフを募集します!」
「ピッキング」というのが分からなかったので調べてみると、指定された品物を倉庫から取り出して、梱包担当の人に渡す作業のことらしい。
「仕分け」「ピッキング」「梱包」の全部に共通するのは、「速さと正確さが求められます」という文章。バイト初心者のわたしには、これが脅し文句のように見えて仕方がない。
もっといえば、「誰にでもできる軽作業」は、当然誰にでもできる簡単な仕事、というわけではないらしい。ネットで見ると、「慣れれば簡単」という人もいれば、「腰を痛めた」、「ついていけなかった」、「責任者がずっと怒鳴りつけてきた」とか、探してしまうとこわい話はいくらでもでてきて、「誰にでもさせる重作業」とまで皮肉るコメントまであった。とはいえSNSを見ると、「楽」「職場雰囲気いい」なんて書いてる人もいて(もちろん真逆の人もいた)、ようするに運なんだろうと思う。職場ガチャというか。けれどそれは、どこに行っても同じことだろうと思う。
「琴音は接客より、黙々と作業できるような仕事のほうがいいんじゃないか」
バイトが決まらないことに悩んでいたときに、廊下ですれ違いかけたお父さんからそう言われた。お母さんから聞いたんだろう。りんは爪音を立てながら小走りにやってきて、お父さんのズボンにまとわりついていた。そろそろ爪切りのころかもしれない。
「そう、思う・・・・・・?」
べつに嫌っているわけじゃないけど、普段あまり会話をすることがないからか、お父さんと話すとき、わたしはいつも少しぎこちない。ちなみにそれは、お父さんも一緒だ。「まあ、例えばの話なんだけどな」と言ったはいいけれど次の言葉が見つからないようで、そのままお風呂場のほうに行ってしまった。その背中に向かって、りんだけが陽気に、ぱたぱたしっぽを振っていた。平らな頭と長い胴体を撫でてやりながら、「そうかもしれないな・・・・・・」と、ぽつりと思った。
「りーんー。どう思うー? お姉ちゃん、そういうとこのほうがいいのかな」
そのまま床に座って天井を見ていると、ふと手に生暖かいものが触れた。
じんわりと広がるそれを、一瞬りんの体温かと思ったけれど、手を見ればそれは――――――。
「うれション!?」
・・・・・・というのが、一昨日のことだ。
わたしは潔癖症じゃないけれど、せっけん、アルコール、ハンドソープ、ぜんぶ使って念入りに手を洗った。りんのことは可愛いけれど、それとこれとは話が別だ。
久しぶりに叱られたりんは、首をすくめてしょげかえっていた。
りんはわたしの部屋で今、専用クッションを用意してもらって、ぴるぴるいびきをかいて、お腹を見せて眠っている。狩猟犬の本能は、どこかに捨ててきたらしい。
つついてみても、垂れた耳を勝手にパタパタさせても、ぜんぜん起きる気配がない。
犬は飼い主に似るなんていうけれど、りんのインナーなところは、わたしに似ているのかもしれない。
文房具の仕分け。週2~3日。4時間から勤務可。時給1,000円。交通費支給。最寄りのバス停から、徒歩10分くらい。
時給の相場は、他のものと比べて高いわけでも、安すぎるわけでもないし、シフトに融通が利くというので、目にしたその会社に応募した。
面接に行くと、高校のことは特に聞かれず、というかほとんど何も聞かれずに、世間話のような内容で、あっさり採用された。
せっかく決まったことなのに、なんだか素直に喜べない。喜びたいのは、やまやまなんだけど。
とはいえ、最低でも1日に4,000円。週2でお願いしたから、週に8千円。ということは、1カ月で2万4千円。
特にほしいものがあるというわけではないけど、お昼代には困らない。
せめてそのくらいは、自分でなんとかしたい。最近、そう思うようになってきた。
漠然とだけど、大学には行きたい。そう思ってから、そんなふうに思うようになったというのもあるし、何より今、「親に負担をかけている」という現実を、ちょっとでも薄めたかった。
べつに、いい子ちゃんぶりたいわけじゃない。ただ、そうでもしないと、なんだか自分がいてもいいのかわからなくなるときがあって、つまりわたしは、「確証」みたいなものがほしかった。「お父さんお母さんの子ども」でもなく、「おばあちゃんの孫」でもなく、「単位制高校の学生」でもなく、もう少し輪郭がくっきりしたもの。
youtubeのタイムラインにたまたま「ひきこもり」のニュースが流れてきたとき、視聴はしなかったけれど、手は止まった。
「子ども」も「孫」も「学生」も、ときが過ぎれば必ず終わる。そのときに、自分がどうなってしまうのか。たぶんわたしは、それがこわかったんだと思う。
あのモザイクの入った背中がわたしだったとしても、不思議じゃなかった。
りんがいなかったら、高校入学の話がなかったら。
今わたしは、どうしていたのだろう。
それが頭をよぎった瞬間から、わたしの中の「フツウ」は、何か違うものに変わったのかもしれない。
「気体」「液体」「個体」。昔習ったどれにもあてはまらないものが、今もわたしの胸の奥でうずいている。
ラインの着信音が鳴った。
理美ちゃんからだ。
「おめでとー! メモだけ忘れずにね!」
「了解。 そっちはどう?」
「元気元気! ちょっと疲れてるけど」
「どっちよ」
スタンプを選びながら、相変わらずだなと思う。
わたしは2年生になるけれど、理美ちゃんは、今年から3年生だ。1学年違いだけど、1年と2年のそれとは違う。今までのようには、一緒に過ごせなくなっていくのかもしれない。
理美ちゃんは最近、少し疲れているように見えるときがある。
理系の国立大学に進学したいと言っていた理美ちゃんには、わたしにはまだわからない、想像もできないプレッシャーがかかっているのかもしれない。
どうしても、そこで学びたいことがある。そう言っていた理美ちゃんには、きっと道を切り開いていける力がある。「フツウ」なんて軽々超えて、「オトナ」になっている。
わたしは、理美ちゃんのような人じゃない。けれどいつかわたしも、そんなふうになっていたいと思う。
季節に、草木の匂いが混じり始めた。
本格的な冬の終わりと春の訪れが、始まろうとしていた。
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