第三章
21.笑み
記憶があいまいだ。
気がついたら家にいて、階段の下でこっちを呼ぶりんの声で、
あ、帰ってきてたんだって。
それと同時に、一気に思い出した。
あのとき、何があったのかを。
「あんた、就活でもすんの? いつのまにかガッコ、いなくなっちゃってさ」
出てきたばかりのわたしの証明写真をひらひらさせながら、冴島は言った。
こんな時間なのに、制服じゃない。なんだかキラキラした服。
そしてあふれんばかり、こらえきれない様子の笑顔。そこにあるのは、あきらかな
「ううん・・・・・・。あ、バイト探してて・・・・・・」
何がおかしいのか、「ウケるー」と言って、今度こそ冴島は笑い出した。
「どっか見つかるといいねー! ま、頑張ってね!」
ああそう。こんな声だった。キンキンと、高い声。
地面に放るのかなと思ったけど、冴島は証明写真をわたしに手渡しして、ポンとわたしの肩を叩いた。
「ありがと・・・・・・」となんとか声を出すと、冴島は瞳の奥を真っ黒にして、今こちらを伏目になっていたわたしを覗き込んだ。
「あんたさ、目つき悪いし、とろいんだから、しっかりしないとダメだよ?」
「頑張ってね」とは違う、低い声。
「そうかな・・・・・・」
わたしは、また半笑いだった。
「そうそう」と、冴島はくっくと笑った。
何が。何がそんなに、おかしいのだろう・・・・・・。
わたしが今ここにいるのは、こいつらのせいなのに・・・・・・。
「ま、いいや。じゃあねー」と手をひらひらさせて、冴島は背を向けた。
もう用はないらしい。腰につけたチェーンが、ぶらんと回った。
そのままどこかに歩いていく冴島の背中を見ながら、わたしの頭の中には、
「キモイよ」という冴島たちの声が、いつまでもこだましていた。
それからどうやって帰ったのかは、じつはあんまり覚えていない。
わん!わん!
しびれをきらしたりんの声が、下から聞こえる。
おばあちゃんタイムは終わったらしい。最近、りんの自己主張は、どんどん強くなっている。言葉は話せないけど、まるで人間の子どもみたい。
はいはい、お姉ちゃん、今行くよ・・・・・・。
そう思ってはいるのだけれど、ぺったんこになったまま、脚に力が入らない。
どうしたらいいのか分からなくて、意味なんてないのに「ははは・・・・・・」なんて、笑ってみた。不気味すぎるよね・・・・・・。
そんなことをしてすぐ、後悔した。
「笑えよ」っていうあの頃の声が、耳の奥から聞こえた気がして。
もちろんそれは、ぜんぜんちがうんだけど。
わたし、泣くのかなと他人事みたいに思ったけれど、けっきょく涙は出なかった。
なんだか、遠いな。机も、ベッドも、ぬいぐるみも、写真立ても、りんの声も。
8枚撮った写真のうち、握ってしまって5枚はくちゃくちゃになってしまって、
おばあちゃんになんて言えばいいんだろうと、落ちていた「リレキショ」を見ながら、ぼんやり思った。
※
「琴音、あなた、アルバイト探してるの?」
夕ご飯のときにお母さんから言われたとき、一気に口の中が酸っぱくなった。
「・・・・・・何で?」
「大崎さんがお出かけしてるときに、琴音ちゃんみたいな子がいたの、見たっていうから・・・・・・」
大崎さん。お母さんがよく行くパン屋さんで知り合った、同じ町の人・・・・・・。
「・・・・・・ううん。違う人じゃない?」
「そう。まあ、いいけど」
と言っているけれど、お母さんは目を細めていた。
あ、これはバレてるんだな・・・・・・。
お味噌汁に入っていた昆布が、
無理やり飲み込んだそれは、胃の中で真っ黒なまま、ひらひらと漂っていた。
少しの間、二人とも何も言わなかった。
たまにお箸が食器に当たる音だけ。
たたきにされたカツオの切り口が、なんだか血の色に見えてきた。
食欲なんてとっくになくなっていたけど、わたしは無理やりそれを口に押し込んで、
よく噛みもしないでお茶で流し込んだ。
「そういえば・・・・・・」
お母さんが口を開いた。
「今日コンビニに行ったんだけど、タウンワークあったから、持って帰ってきちゃった。今はスマホでもいろいろ見れるんでしょうけど、琴音、気が向いたらでいいから、見てみたらいいかなって。どんな仕事があるのかは、これでなんとなく分かるでしょ?」
そう言って、お母さんが、用意していたんだろう、タウンワークの雑誌をテーブルの隅に置いた。「TOWN WORK」。「未経験歓迎のお仕事 大特集!」。
あ。ワークって、「WARK」じゃないんだよね。そういえばこの前、間違えたな・・・・・。
「ありがと・・・・・・」
お母さんの『やさしさ』が、身に沁みた。
子どもの頃に一度だけ
ひりひりと・・・・・・痛い。
なんとか全部飲み込んでご飯が終わると、いつものように食器を下げないで、「トイレ」と、わたしはすぐに席を立った。「はいはい」というお母さんの言葉を背中に聞きながら、扉が閉まる直前、お母さんの一言が聞こえた。
「やっと普通に・・・・・・」
奥の部屋からまとわりついてきたりんを突き飛ばしかねない勢いで、トイレに駆け込む。吐いちゃダメ。今吐いたら、おばあちゃんに気づかれちゃう・・・・・・。
波を打つようにぐわんぐわんする胃と口元を押さえていたら、苦しくて涙がにじんだ。便座のカバーによだれがポタポタ落ちて、うっすらと染みがついてしまった。
片手でペーパーをちぎり、慌ててぬぐう。うっすら染みはつくけど、ごしごしこすっていたら、ちょっとだけ色がにじんだ程度になった。
苦しい。どうしよう、苦しいよ・・・・・・。
それなのに。そんなことどうでもいいのに、ああ、わたし、泣けるんじゃないかなんて、ほんとうにどうでもいいことを、ふっと思った。
何も、出さなかった。
怪しまれないように水を流してトイレを出ると、りんがふてくされたように、「ふせ」の体勢をして、上目遣いでこちらを見上げていた。
「りん・・・・・・」
声はかすれていたかもしれない。でも、りんなら、何も言わない。
「りん・・・・・・」
名前を呼んだくせにけっきょくそこから先が言えなくて、
しゃがんでりんの長い背中を撫でていた。
りんは機嫌をなおしたのか、満足そうに目を細めて、モップのようなしっぽを振っている。
りん。りんのことは大好きだけど、今日はちょっとりんがうらやましいよ。
わたしはこんなとき、撫でてくれる人なんて、いないんだから・・・・・・。
りんとリビングに戻ると、お母さんはこちらに背を向けて洗い物をしていた。
声をかけずにタウンワークを取ると、しっぽを振りながらついてくるりんを抱っこして、わたしは電気が消えたままの階段を上がった。
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