18.平行

遊び疲れてしまってベッド(わたしのだ)に登って眠ってしまったりん。

ジュースは思っていたよりはるかに美味しく、あっという間に空になっていた。


「寝ちゃったねー」


「理美ちゃん効果だよ」


「モテ期到来かー」


「え、モテたいの?」


「いや、全然」


「ちがうんかい」


くだらないことを言い合う。そんな当たり前のことが、考えてみれば久々だった。

人扱いされずに教室で怯えていたころのことをちょっと思い出したけど、それはだんだん遠くに、まるで揺れた水面が消えていくように、かすんでいく気がした。

規則的にかすかに聞こえる笛のような音は、りんのいびきだ。


「そういえばさ」


と、わたし。


「理美ちゃん、読んだことある? 『正義と微笑』っていう話なんだけど」


「ああ、太宰でしょ?」


さすが。


「覚えてる? 『かるちべーと』がどうこうっていうところ。 あれ、理美ちゃん分かる?」


わたしにとってはわかるようなわからないような、漂うクラゲの厚みを計ってくださいというような内容だったので、読書家の理美ちゃんに訊いてみることにしたのだ。

「んー・・・・・・」と考えるそぶりをした後、理美ちゃんは言葉を選ぶ様子で言った。


「たぶんだけど、わたしは容量とか、選択肢のことを言っているんだと思う」


「選択肢?」


「うん」


無意識にか、コップを持ち上げて、空になっていたのに気づいたようだ。

そろそろ麦茶の出番かな。


「なんていうかな、知らないと選択できないことって、あると思うんだよね。ほら、うちらがこうやって単位制のとこ通って『高校生』でいられるのも、そうじゃん。知らなかったら、今うちらは少なくとも学生じゃないわけじゃん。知っているぶんだけ、選択肢が広がる。知識って、たぶんうちらが気づかないだけで、いろんなところでいろんな方法・・・っていうか、役に立ってるんじゃないかな。『容量』っていうのも似たようなものだけど、知っているからこそ分かることができた、で、それで分かったことがまた分かって、『選択肢』が広がる、みたいな。ようは、生きやすくなるかもっていうことじゃないかな、言いたいことは」


久々に頭使ったよ、と照れくさそうに笑う理美ちゃんとは反対に、わたしは驚くばかりで、たぶんまぬけな顔をしていただろう。『二の句がつげない』・・・・・・じゃないか。こういうの、なんていえばいいんだろう。古文でいう、「詠嘆えいたん」っていうやつだろうか・・・・・・。あれ、どんな意味だっけ・・・・・・。


「あ、わたし語りすぎちゃった・・・・・・。ごめん、忘れて」


「え、いやいやいや。すごいよ理美ちゃん! ちょい感動した!」


「大げさすぎ! ていうか、聞いてるこっちが恥ずかしいわ!」


むくれてみせる理美ちゃんは相変わらず美少女で、めずらしく赤くなっている頬が美少女っぷりを追加している。ちょっと本気で、可愛い。


追撃とばかりに理美ちゃんをからかいながら、わたしは頭ではまったく別のことを考えていた。


理美ちゃんのは、わたしの読み方とは違う。たぶんさっきの言葉は、理美ちゃんがあの本に向き合って、自分の言葉で考えて、自分の言葉で表現したもの。うまく言えないけど、わたしのような、文章をそのまま読んでそこで終わるという読み方をしていたら、借りてきた「『かるちべーと』」以上のことは言えないんじゃないか。もちろん、読み方は自由でそれぞれだし、ましてやそれだけではダメだということじゃないんだけど。

そんなことを思ったら、なんだかため息が出た。


「理美ちゃん、すごいなー・・・・・・」


何が?という顔をしているので、あまり言いたくはなかったけれど、話してしまう。


「わたしなんかさ、頭がいいわけでも、運動ができるわけでもないし。先のことなんて、もっとずっと考えられないし。せっかく本なんて読んでみても、何が書いてああるのかわかんないし・・・・・・」


「前にさ、『そっくり』って言ったじゃん。わたしと琴音」


「覚えてる?」と言われたので、こっくり頷く。忘れるわけがない。あれはわたしにとって、ずっと謎の言葉だったから。

今度は丸くなって眠るりんの頭をなでながら、理美ちゃんは続けた。


「わたしね、小学生のとき、めっちゃ気が弱くて、おまけにめっちゃ太ってて、まあそこは琴音とは違うんだけど、話すのも苦手だったし、言いたいこと言うのなんてもってのほかで、そんなだとやっぱりそれなりに餌食えじきになって、そんな自分が嫌いで嫌いで、たぶん1週間に6日は泣いてたんじゃないかってくらい泣いてる毎日だったの」


こう見えてもね、と冗談交じりに続けるところが理美ちゃんらしい。

けれどその眼は、どこか遠く、見えないガラスに閉じ込められた何かを見ているような、悲しい色が潜んでいるように、わたしには見えた。


「剣道も、それがきっかけ。なんかさ、成長期ってやつなんだろうね。中学入ったら勝手にやせちゃってさ。んで、じいちゃんが剣道やってたし、何もやりたいことがなかったけど何かになりたくて、というかならないと怖かったんだろうね。気が弱いくせに、剣道部なんて入っちゃったわけ」


「・・・・・・大変だったんじゃない?」


「大変。道着は重いし、暑いしむれるし、竹刀なんて重くて、面どころか素振りもできなかったもん。おまけに上下関係も厳しくてさ、それはそれで泣いたね」


まあ、今でもたいして強いわけじゃないんだけどねと、理美ちゃん。


「・・・・・・理美ちゃん、偉いね。それでも、辞めなかったんでしょ」


「辞めれなかったってほうが正しいよ。ぜんぜん上手くならないくせに、退部届け出すほうが怖かったっていうのもあるし、いちおう中学デビューはできてはいたけど、小学校時代のメンバーもいたし。あの自分に戻るのは、もっと怖かったんじゃないかな。まあ、わたしの場合だけど、結果的にはオーライだったんだろうね。じいちゃんがいたっていうのもあるし。まあ、手のひらはすごいことになっちゃったけど」


理美ちゃんのすらっと正座したデニムの生地を見ながら、わたしは自分の中途半端なグリーンのスカートを軽く握っていた。でも理美ちゃんは、わたしとは違うんだと、嫉妬とか嫌だとか、そういうのじゃなくて、ただ単にそう思って。「そっくり」なんかじゃ、ないって。だって顔立ちも、心の強さも、成績も。わたしと理美ちゃんは、全然違うじゃないか。きっとさなぎのように眠っていただけで、今の理美ちゃんは、きっともうそこにいたんだ。それでもわたしは、うつむきかけた顔を上げて、無理やりに微笑んでみせた。


「ありがとう、理美ちゃん。元気出た」


「それは噓でしょ」


迷いなく真正面から言い当てられて、言葉が出なかった。

理美ちゃんは、少し寂しそうな顔をしていた。けれどそのまま、ゆっくり言葉を重ねた。


「わたしの思う『そっくり』を、琴音の感じる『そっくり』に押し付けちゃうのって、それはわたしが思い上がってるだけだよ。そんなことはしてないつもりだけど、あの頃のわたしが誰かにこんなこと言われたってぜんぜん信じないだろうし、たぶんわたしは運が良かっただけなのかもしれないし。だいたい、わたしと琴音は違うひとじゃん。『そっくり』なんて言っちゃったけど、おんなじじゃないもん」


平行線。この前数学で出た、その話を思い出した。角度は同じでも、けっして交わらない線と線。

急に、泣きたくなった。理美ちゃんとわたしは、遠い。遠いけれど、近づきたい。

だから、友達なんじゃないかと、そんなことが浮かんだ。


「・・・・・・理美ちゃんの家、いつか行ってみたいな・・・・・・」


たぶんそこには、理美ちゃんの語らなかった、語り切れない何かが詰まっているのだろう。例えば本棚の中身とか、何百回も、もしかしたら何千回も振られた竹刀とか。

そういうのを、見てみたかった。たとえ、それがどれも自分にないものだとしても。

けれど、理美ちゃんの返答は、わたしの予想とは違っていた。


「やめたほうがいいよ」


今まで見たどの色とも違う目で、理美ちゃんはそう言った。













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