17.記念日

「あーっ!!」


帰って早々、わたしは情けない悲鳴をあげることになった。

足元でぶんぶんしっぽを振って回るりんの下。玄関マットに、広がる染み。

「嬉しくてションベン」、略して「うれション」だ。


「もうっ! りん、これ!これ!だめっ!」


本当のところをいうと、こればっかりは叱っても仕方がない。

生理現象というか反射的というか、とにかくそういうもので、人間でいえばたぶん「おもらし」みたいなもので、そこまで要求するのはさすがにちょっととは、思ってはいる。けれど、マットに広がった染みを目の当たりにすると、トイレシートとは違ってさっと交換できるわけでもないし、やっぱり気持ちはなえてくる。


こんなときように玄関に置いてあるファブリーズをマットに振りまいて、トイレシートでとんとんとんとん。前に力任せにこすっていると、それじゃあ広がってしまうから、押さえつけて吸い込ませるよう、おばあちゃんに教わった。

そんなわたしを後ろから眺めているのは、だれであろう、理美ちゃんだ。


「この子がりんちゃんかー。可愛いね」


「可愛いよ。可愛いんだけど、大変なんだよ」


「みたいだね。わたしはペット飼ったことがないから、わかんないけど」


くすくす笑う理美ちゃんに、ため息交じりで苦笑いしてみせる。

最後に「これでトイレは安心!犬が嫌がる香り」だというしつけ用スプレーをマットにかける。りんがあちこちでトイレをしていたころから毎回使っているけれど、今のところ効果があったのかはよく分からない。

ただひとつ確かなのは、りんが超絶にごきげんだということだ。

理美ちゃんがシューズを脱いでいる間も、「早くこっちに来い」というように、きゅうきゅう鳴いている。完全にお迎えモードだ。


「ずいぶん人懐っこいね。みんなそうなの?」


「いや、宅配の人とかにはぜんぜん。むしろ、うるさいくらいなんだけど。りんもやっぱり、男の子だね。可愛い子が好きなんだよ」


「なるほど、なら分かる」


「こらこら」


「お客さんかーい?」と、奥からおばあちゃんの声がした。「おばあちゃんね」と簡単に理美ちゃんに説明して、大きめに声を出す。


「ともだちー!」


小さな声が聞こえた。たぶん、あいさつか、「そうかい」といった相槌あいづちだろう。「お邪魔しますー!」と玄関にあがった理美ちゃんの足元に、さっそくりんが、大歓迎とばかりにしがみつく。しっぽは、もう残像が見えそうな勢いだ。なんだか、面白くない。


「りんちゃんはいいとして、おばあちゃんにはあいさつ行かなくていいのかな?」


「いいと思うよ。うちのおばあちゃん、あんまりそういうの気にしないと思うし」


奥の部屋と玄関の真ん中にある2階への階段に案内すると、理美ちゃんは律儀に、「すみません、お邪魔してます」とおばあちゃんに向かって声をかけていた。

「はいはい、どうぞどうぞ」と、今度はおばあちゃんの声が聞き取れた。


「上がってすぐの部屋がわたしの部屋。置くのは倉庫みたいなものだから、気にしないで。飲み物取ってくるね」


階段を上り始めた理美ちゃんと、恋人に置いて行かれたような悲鳴を上げているりんを残して、買って帰ればよかったと思いながら冷蔵庫を開ける。・・・・・・麦茶と、開けた牛乳しかない。

健康的といえばそうなのかもしれないが、マックであれだけコーラをがばがば飲んでいるような理美ちゃんに、これを出すのはちがうよな・・・・・・。


「琴音ちゃん、琴音ちゃん」


振り返ると、おばあちゃんが顔を出していた。


「なにー?」


「なんか出すものあったかね? なかったらそこのところに、この前田中たなかさんからいただいたのが入っとるんだけどねえ」


おばあちゃんの「そこ」は、食器棚の下のスペースだ。開けてみると、なんだか高そうな、木の箱があった。「開けていい」というので開けると、瓶詰のいかにも高そうな「純みかんしぼり」のジュース。え、いったいいくらすんの、これ?


「勝手に出していいの? なんかすごい高そうなんだけど・・・・・・」


「なに、おばあちゃんがもらったもんだけん。けど、そういうのはそんなに好きじゃないんよ。持っていき」


「うん、じゃあ・・・・・・。ありがと・・・・・・」


手に取ると、大きさのわりにずっしりと重い。これ、あれだ。絶対絶対、高いやつ。

とにかく、ありがたすぎるくらいだ。コップを2つ持って、長くなりそうだからりんの水皿も持って、部屋に向かう。

すれ違いざまの、「琴音ちゃんは最近明るくなったねえ」というおばあちゃんの言葉が、くすぐったかった。


りんは相変わらず階段の下で、猛烈な抗議の声をあげている。

「わかったわかった。すぐ連れて行くから!」と言っても、聞く耳を持たない(当たり前か)。

大急ぎで、けれど水皿に水が入っているので慎重に階段を上がる。「ことね」と書かれた木のネームプレートがかかった部屋はもちろん自分の部屋ではあるけれど、いちおうノックして扉を開ける。

部屋の中で、きちんと正座した理美ちゃんがこちらを見上げていた。


「りんちゃん、あれ、大丈夫?」


「大丈夫、すぐ連れてくるから。ごめんだけど、また待ってて」


部屋の隅のトイレシートが真っ白なのを確認して、また扉を開ける。

お客さんを待たせるのは気が引けるけど、まずはりんのレスキューだ。


階段の下でひーん、ひーんと情けない声を上げるりんを抱っこして、大急ぎで階段を上がる。4キロのじたばたする生きものを抱っこして走るのは、けっこうキツイ。


「ごめん、お待たせ!」


「そうでもないよ。あ、りんちゃん、おかえりー」


またうれションをされたらどうしようかと思ったけれど、在庫切れらしく、心配無用だった。りんは感極まったというようにまたひんひん鳴きながら、わたしの腕の中から飛び降りる。その後は理美ちゃんに飛びつくわ、回るは、走るはで、ようするに嬉しいパニックに陥っている。ダックスフンド特有の垂れた両耳が、ぺらぺらの生地のようにパタパタ揺れている。


「熱烈歓迎だね、りんちゃん」


「理美ちゃん、気に入られてるよね」


「ちょっとアイドル気分だわ」


「だね」


「それにしても、なんだか高そうなジュースだね」


りんの長い背中を撫でながら、理美ちゃん。


「わたしもそれ思った。おばあちゃんが、持っていけって」


いいのかなと言いつつ、理美ちゃんは興味津々の様子で瓶を見ている。そして、それはわたしも同じだった。とはいえ、ここまできたらもうやることはひとつだ。


「開けますか」


「開けましょうか」


「じゃあ」


キャップをひねって、パキッと折る。中身を注ぐと、コップの中はみかんというより、マンゴーのような濃い黄色に満たされた。さらさらというより、とろりとしている感じ。なんだか、小学校の修学旅行先で見た、琥珀を思い出す。見とれてしまいそうだ。


「これ、絶対高いやつだろね」


「うん、高いやつだ」


また同じことを言い合いながらじっとしていると、横からりんが匂いを嗅ぎにやってきた。忘れてた!わたしの部屋はカーペットが敷いてある。こんなところでこれをひっくり返されれば、うれションどころじゃない!


「理美ちゃん、りん来てる!持って、持って!」


あと少しで届きそうになるりんの鼻面を、理美ちゃんはさっとかわしてみせる。

さすが、元剣道部・・・・・・。


「じゃあ、遠慮なく」


「いただきます」


こうして記念すべき理美ちゃんの初訪問は、甘酸っぱいみかんの香りに包まれて始まった。















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