15.道
「『みだれ髪』」
「ひぐち・・・・・・」
「琴音、惜しい! それは『たけくらべ』!」
「うう・・・・・・。センセイ、夏目漱石の草枕は? 合ってるでしょ?」
「『夢十夜』ね。ちなみに、夏目なのは・・・・・・出だしはいいとして。ていうか、なんで『草枕』なの・・・・・・?」
「・・・・・・わかんない」
「眠たいとか?」
「ちがいます!」
現代文担当の田代先生が本好きだと知ったのは理美ちゃん情報で、もともと本はたまになら読むし、最近眠っているりんと並んでいるとき、少し手持無沙汰になってきていた。それで、田代先生に、何かお勧めの本はないですかと訊きに行ったのが始まり。
先生は快く応えてくれたけれど、田代先生のお勧めというか好みは、売れていた、売れている本ではあるけれど、どうにも良さがわたしにはわからないと感じる本ばかりで、たぶん感じ方が違うんだと思う(当たり前だけど)。
試しにわたしが最近読んだ作家の名前を挙げてみると、今度は田代先生が知らない作家さんだったりして、どうにも合わない。
「おもしろい」と「探してみます」を何往復かして、わたしにじつはその気がないのを見て取ったのだろう。「琴音、社交辞令って知ってる? 私はともかく、そんなもの、琴音の年で覚えなくていいよ?」とニヤリと笑われた。
ズバリだったのでしどろもどろになっていると、田代先生から、「じゃあ、いっそ近代いってみるってのは?」と代案が出た。
「近代?」
「そう。いくつか意見があるけど、だいたい明治から大正、昭和くらいかな。まあ、明治から現代までっていう人もいるけど」
「明治って・・・・・・夏目漱石とかですか?」
「そう!琴音、よく知ってるね! じゃあ・・・・・・」
そういうわけで、うっかり田代先生の、教員の宿命という地雷を踏んでしまった。
一昨日誕生日を迎えてわたしはまだ十六歳、受験もまだ先の先だというのに、なぜか近代文学史のクイズが始まってしまったというわけだ。高校受験で少しかじった覚えはあるけれど、いろいろありすぎたし、そんなものもうとっくに忘れている。
慣れないことに頭を使って十分後。よくこれで受験勉強なんてできたなと思ったけど、わたしはもう、へとへとになっていた。
「・・・・・・先生、これくらいにしてください・・・・・・」
「あれ、ギブ?まあ、一年じゃまだ、これは早いよねー」
なら、今までの時間は何だったんだろう・・・・・・。悪戯好きの子どものような顔ですましている田代先生は、ちなみに今日も美人でちょっとうらやましい。
「でも、何でこんな古いお話ばっかりなんですか?なんか」
「そんな古臭いものなんて読んでも、って思った?」
その通りだった。夏目漱石で言えば、「吾輩は猫である」は最初の一文だけ覚えていて、教科書にちらっと出てきた「坊ちゃん」は、よく分からない変な飴が出てきたくらいにしか覚えていない。
太宰は「走れメロス」と、「人間失格」とかの暗そうな本ばっかりで、与謝野晶子は「死にたもうなかれ」・・・・・・だっけ。
それ以下の覚えもないけれど、それ以上の覚えもない。
塾で習ったときにそうだったけれど、「文学史」の例題なんて、歴史の語呂合わせ暗記と同じで、名前と作品名が結びついていればそれ以上は訊かない、というもので済んでいた。
なので、「太宰」とか「樋口」とか言われても、わたしには「豊臣」とか、「徳川」とかと同じ響きなのだ。なんていうか、ずっと昔のことで、試験以外には関係のないこと。
「ちなみに、先生の好きな『近代』ものって何なんですか?」
ボトルコーヒーを半分飲んだら、持参のクリームを3個追加投入するという変な癖のある田代先生の手元を見ながら、訊いてみた。
「泉鏡花の・・・『荒野聖』も好きだけど、推しは『外科室』かなー。あとは、太宰だったら『待つ』。谷崎もまあまあ好きだけど、中身的に、まだ琴音にはお勧めできないかなー」
一瞬子ども扱いされているのかと思ったけれど(実際、子どもなんだけど)、「何かと物騒だから」の一言と、どこかで聞いた噂を思い出して、なんとなく察してしまった。
その後も坂口がどうの、川端がどうのと言い始めたので、これはもしや終わらないフラグなんじゃなかろうかと身構えていると、ふと、田代先生が口を閉じて考え始めた。コーヒーの入ったマグカップを片手に、額に手をあてて考え込んでいる。どうしたんだろ、急に・・・・・・。
「先生?」
「『その子二十歳・・・・・・く、
「何ですかそれ・・・・・・」
「与謝野晶子。『その子は二十歳で、櫛を入れると黒髪が流れるように美しい。恋をしていれば、一段と。わたしのことよ』・・・・・・的な意味。そう書いてた」
「え、与謝野晶子って、『死にたもうなかれ』じゃないんですか?」
「それも合ってる。今の歌は『みだれ髪』に入ってるけど、『死にたもうなかれ』の歌は、その2、3年後に発表されたんじゃなかったかな。『みだれ髪』は、けっこう恋愛の歌でいっぱいって感じ。なんていうか、ちょっとうかれてるくらい。でもこの歌は好きで、何か覚えてるんだよね。ちなみに『みだれ髪』は明治ね」
「なんか・・・・・・自信満々な歌ですね・・・・・・」
「先生らしい」という言葉は、言わないでおいた。
「かと思えば、他はそうでもなかったりするの。急に湿っぽくなったり、三角関係になったりで落ち込んだり。私、ちょうどこの歌を知ったとき二十歳でさ、片思いこじらせてたから、勝手に勇気出た!ってなって、一歩というのを踏み出したんだけどね」
「え、すごい!どうなったんですか?」
「見かけだけだった」
うわあ・・・・・・。
さすがに「ドンマイです」とも言えないでいると、田代先生は「琴音さ」と、こちらをじっと見つめてきた。
「こんな勉強なんてして何になるのって、思わない?」
「・・・・・・思います」
「むかーしの人もね、そう思ってたみたいだよ。で、やってられっか!ってなったり、本当にやらなかったり、いろんな道を選んだんだよ。まあ言葉遣いは古いし、考え方にイラっとすることもあるけど、案外みんなおんなじ場所で
へえ!と、思わず笑ってしまった。江戸時代なんて、親とか、年上の人が言うことは絶対!ってイメージしかなかったけど。
「だからさ」。4個目のクリームを投入しながら、田代先生がつぶやく。
「琴音も、いろんな本見つけて、いろんな『好き』を探したらいいよ。勉強も、私だってたまたまこの仕事に就けたけど、決まるまでは何でもかんでも使わなくちゃいけなかったし。やって損はないよ、たぶん。でも、方法はひとつじゃない。回り道の仕方だって、本の中にも、本の外にも、教えてくれる人はいっぱいいると思うからさ」
そう言って、田代先生はぐーっと伸びをした。
豪快に首が鳴る。
「んじゃ、お仕事行ってくるねえ」
そのとき気づいた。田代先生はたぶん、わたしが言いたかったことも、言わなかったことにも気づいている。
プリントの束を抱えて歩いていく田代先生の背中に、心の中でお礼を言った。
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